福 音
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福音№211 2005年12月
クリスマスに、Kさんへ
私がよく行っている病院の廊下を通るたびに、重症室でいつもパソコンに向かっているあなたのことが気になり始めて、折々に会釈をするよう心がけてはいたものの、まさかあなたとお友達になれるなんて思ってもみませんでした。それがふとしたきっかけで、日常の細々したお世話に通うようになって、あなたがALS(筋萎縮性側索硬化症)という大変な難病だと知らされて、それでもまだその頃は、明るい笑顔が輝いていた。口からは食べることも飲むこともできず、胃に直接栄養を流し込み、話すことも呼吸することも自分ではできず、瞬きと人工呼吸器に支えられて、辛うじて頬にセンサーをあててパソコン画面で意思表示。そんなあなたがなぜ、そんなに明るく前向きでいられるのか、私には疑問の連続でした。神様の話をしたいと思っても、あなたには素晴らしい家族や友達がたくさんいて、「私は人間の愛を信じてる」という言葉も、決して強がりには聞こえなかった。私はそんなあなたの生き方に感心するばかりで、いつしかあなたに神様の愛を伝えることをあきらめていました。この人は人に愛されるだけでなく、人を愛することを知っている、だからこうして、たとえ体は動かなくても心は元気いっぱいで前を向いていられるんだ。私の役目はこの人の手足となって郵送をしたり、買い物をしたり、雑誌を朗読したり、それで十分なんだと思うようになりました。そんな日々が半年ほど続き、鈍い私でも少しずつ用事の仕方も覚え、これからはもう少し役に立てるかも知れないと思っていた矢先、あなたは電車でも1時間半はかかる病院に転院。私が遠くなったのは良いとしても、ご家族や友人からも離れてしまい、こちらにいた時のような看護を受けるのも無理な状態になって、パソコンも折々にストップ。電波が弱く、時折にしかつながらないというインターネットで、「生きる気力もなくして・・・」とか「居場所がなくて・・・」とか、あなたからの全く思いがけないメールが届くようになりました。
今日、久しぶりにあなたを訪ねて、あなたの置かれているあまりにも厳しい状況に、私の手助けなど何の役にも立たないことを思い知り、Kさん、今こそあなたに神様の愛を伝えようと決意しました。
私は何と愚かだったことでしょう。あなたの表面だけを見て、あなたの明るい笑顔の陰に、どんな恐怖が隠されていたか、病院を転々とする度にどれほどの不安を覚え、死ぬにも死ねない苦しみを抱き続けていたか、私は想像してみることもしなかった。先日、心病む人たちのアピール大会に参加して、大切な話を聞きました。心の病気で「何かが襲ってきて自分は今にも死んでしまう」と恐怖におののいている人がいたら、「そんなことないよ」と安易に言葉で返すより、想像力を働かせて、何かに襲われて死ぬという恐怖感を少しでも自分も感じてみることが大切なのだそうです。ほんの少しでも相手の恐怖を共感するとき、その人との距離が縮まり、心を通わせることが出来るようになるとのこと。不自由なあなたのために、私に出来ることは精一杯しようと心がけながら、あなたの笑顔の奥にある苦悩まで見ることのできなかった私は、悲しいことに、出会った日から今日まで、だからあなたとの心の距離を縮めることができなかったのだと気付きました。
そんな私が、何から書いたらいいのか、どのようにすれば、苦しみの中にも共にいてくださるキリストをあなたに伝えられるのか、全く自信はないけれど、でももう黙っていることはできません。どんなに拙い内容でも、「どうか主よ、あなたがKさんを捉えてください、Kさんに御自身を示してください」と祈りつつ、書き始めます。
クリスマスとはもちろん、神の子・イエス・キリストの誕生を祝う日です。簡潔に言うなら、今から二千余年前、イエス・キリストは母マリアの胎内に聖霊によって宿り、旅の途中、ユダヤの国、ベツレヘムの馬小屋で産声をあげられました。星の光の美しい夜でした。ナザレの村で大工ヨセフを父として成長し、その後、弟や妹も生まれ三十歳になられるまで家族と一緒に暮らしておられました。聞くところによると、父ヨセフが早くに死んでからは、イエス様が大工となって家族を支えておられたとか。時満ちて、人々に神の国を告げ知らせるため、イエス様は伝道の旅に出られます。「悔い改めよ、天の国は近づいた」を第一声に、それから三年間、神の言葉を語り、病む人の病を癒し、目の見えない人、耳の聞こえない人の目や耳を開き、悪霊に苦しむ人の悪霊を追い出し、罪に悩む人の罪を赦し、またある時には死人をもよみがえらせて、神の子としての働きをなさいました。十二人の貧しい弟子たちを引き連れて、悩み苦しむ一人一人と出会いながら田舎道を歩かれるイエス様を見て、この方が、天地を創造し全世界を御支配なさる神の子だと、いったい誰が思ったでしょうか。
三年間の伝道生活の末、民衆の人気をいっせいに集めるようになったイエス様は、長老や祭司長、律法学者など、時の権力者に目の敵にされるようになり、ついには捕らえられ、形ばかりの裁判の末、十字架につけて殺されてしまいます。世界中でただ一人、たった一度の罪も犯されなかったお方、神の御子を人間が殺してしまった。でも、そのキリストの十字架の苦しみは私たちの罪を負うためだったのです。
今度行ったときもし良ければ、イエス様が十字架につかれる聖書の箇所を読ませてください。呼吸器装着の延期で鼻からチューブを入れる時「もしも私の手が動くなら先生の手をつかみ振り払ったでしょう」と、チューブの出し入れで鼻骨が「ボキッ」と鳴り、折れたかと思ったのに入らなくて、口から喉へ入れて金属で固定、テープでぐるぐる止めたまま汗と涙にまみれて三日間を過ごしたあなたなら、イエス様のお苦しみをきっと思いやることができるはずですから。
ところが、Kさん、喜んで!ついに、素晴らしいことが起きたのです。あなたにこのことを告げたくて、こうして書いているのです。イエス様のお墓を見に行った婦人たちに、輝く衣を着た二人の人が告げました。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」復活されたイエス様は弟子たちに現れて言われました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」弟子たちの驚くべき喜びは私たちの喜び。Kさん、あなたも自由な体に復活するのです。「このキリストこそ、私の罪を負うて救ってくださるお方、私の主」と信じる者はみな復活すると、それが神様の永遠の愛。どうか、共にこの希望に生きることできますように、祈っています。
福音 №210 2005年11月
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3:16
聖書を自分たちで読むという小さな集まりを月に一回続けている。3人で、ロマ書9章「イスラエルの選び」という箇所を学んでいたとき、一人の人が言った。「だからキリスト教って、他の人に話すのが難しいんですよね。全人類は神様が造られたというのは分かりやすいけれど、その中からイスラエル民族を選んだとか、アブラハムが選ばれたとか。頭で考えて納得がいくようなことでないし。・・・でも、私がはじめて十字架の話を聞いた時もそうでした。キリストの十字架の死が私の罪のためだなんて言われても、二千年も前のキリストの死と私といったいどんな関係があるのって、全く分からなかったですから。」
確かに、キリスト信仰を人に説明するのは難しい。
「イエス・キリストは罪を赦してくださる。」
「ええ?罪なんて、私まだ警察のお世話になったことなどないけど」
「キリストを信じる人は復活します。『わたしを信じる者は死んでも生きる』とキリストが言われました。」
「復活ねえ。死んで生き返るなんて、死んでみなくちゃ分からないでしょう」
言葉で説明してキリストを伝えるのは、何と難しいことか。
それでも、キリストによって罪赦され、永遠に生きる者とされた喜びを隠してはおられない。恵みも感謝も喜びも、明るみに出さないで暗いところにしまっておけば、いつしか闇の力に飲み込まれてしまう。呼び出されたのは、その独り子をも惜しまず与えて下さった神様の愛を伝えるため。イエス様は何も大勢集まりなさいとは言われなかった。「二人三人、わたしの名によって集まるところには、わたしも共にいる」と言ってくださった。どんなに拙くても、自分たちで聖書を読み続けるなら、神様が働いてくださって、必ず福音は伝わっていく。聖書の学びは伝道の基礎工事、慌てず弛まず続けていこう。
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聖書を自分で読むすべを知っていて、良かった。本当に良かった。何度も何度も繰り返し読んだ記事は、心の奥深く沈んでいて、必要なときに浮かんでくる。
独りぼっちになってしまうかも知れないと不安に胸がふるえても、静かに祈っていると、99匹の羊を置いて、迷い出た一匹を捜してくださるという、イエス様のたとえ話を思い出す。「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」との御言葉に胸を躍らせて、このイエス様の戒めだから、愛することから始めようと新しい決意が生まれる。
あの人は罪人だとささやかれ、みんなから疎外されたらどうしようと怖くなっても、静かに祈っていると、罪人たちと一緒に食事をされたイエス様の記事を思い出す。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」との御言葉が胸に迫り、「私は正しい」と言い続ける自分の愚かさが可笑しくなる。私はちっとも正しくなんかない。毎日イエス様に足を洗って(罪を清めて)いただかなければ生きられない者だから、だからイエス様につながっていられるのだとうれしくなる。
何という良き知らせ、イエス様の御言葉はどこを開いても、貧しくていい、小さくていい、人から除け者にされるほど弱くていいと書いてある。イエス様は知識と権威いっぱいの律法学者、パリサイ人より、人から見下され蔑まれている税金取りや娼婦たちの味方だったと、大胆不敵にも聖書に書いてある。貧しければ貧しいほど、小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、主イエス様は近くに来てくださると書いてある。
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聖書を読むこと、祈ること
主イエスと共に歩むこと
思わぬ事が起こり、でも静かに振り返ってみると、決して突然ではなく、時満ちてそのように導かれたとしか言いようのないことがある。これが善いことか、悪いことか、そのこと自体に白黒をつけるのではなく、その今をどの様に受け止め、どの様に歩んでいくか、それが問われているのだと知らされた。
プールの前で飛び込む勇気が無く、日向ぼっこなどしてぐずぐずしていると、ふっと背中を押されて飛び込んでしまった。飛び込んだからにはそのまま溺れてしまうか、せいいっぱい泳ぎ始めるかしかない。その背中を押してくださったのが、主イエス様だと分かったとき、合点がいった。プールサイドで、ぼんやりと一生を終わってしまうより、犬かきでも何でも泳ぎ始めるべき時なのだ。
さあ、何から始めようと心静かに主を見上げたら、ああ、あまりにも平凡な主の示し。 聖書を読むこと、祈ること
わたしと共に歩むこと。
思わずクスッと笑ってしまった。主イエスさま、何も新しいことなどないじゃないですか。あなたを知ったその日から、日々そうありたいと願いつつ、いつだってそこに立ち帰り立ち帰り歩んできたはず。たとえあまりにも、不十分であったとしても。
そんな傲慢な思いの私に、主はなおも問うてくださった。
「あなたは自分の命のように聖書を読んできたか」
「あなたは祈らずには生きられないほど祈っているか」
「本当にわたしと共に歩んできたか」
ああ主よ、私は不真実きわまりない者でした。そんな者をあなたは滅ぼさないで、なおも新しい道を示してくださった。
聖書を読むこと、祈ること
あなたと共に歩むこと
はい、分かりました。ここは水の中、プールサイドではありません。ぼんやりしていては溺れて沈んでしまう。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。」と言ってくださるあなたにすがる他ありません。 永遠の命を与えるために、身代わりになって死んで下さった主イエスさま、あなたの命に生かしてください。あなたの命によらなければ、水の中で生き続けることなどできない相談ですから。
福音 №209 2005年10月
ねがい 隠れた美しさを信じて
秋、10月。コスモスの花は風に揺れ、耳を澄ませば虫の声。夕暮れになれば西の空には金星が輝き、見上げれば薄雲の向こうにたたずむような月の光。
こんな美しい秋の日に包まれて、それでもなぜかもの悲しくて、「イエスさま」と御名を呼ぶ。この秋も、人の世も、永遠にまで続く天空も、すべて神様の御手の中にあるんだという限りのない平安に包まれて、それでもなぜか痛む心に「互いに愛せよ」と言われたイエスさまの御言葉を思う。
ねがい
人と人とのあいだを
美しくみよう
わたしと人のあいだを
うつくしくみよう
疲れてはならない (八木重吉)
ねがい
誰でも 一人残らず
美しい心の人に見えるように
そしてどんな人にでも
感謝と愛のおいめを
感じるように
私はなりたい。 (樫葉史美子)
以前からこの二つの詩が好きだった。どの人も美しく見えるなら、どんなにうれしいことか。人と人が美しくつながることができるなら、どんなに喜ばしいことか。でも、これは心の「願い」であって現実ではない。自分の心を見ればよく分かる。美しくもなければ、真実でもない。相手のちょっとした言動にも揺れ動き、不平不満はつのる。私だけではない。私の回りに美しさだけの人など一人もいない。もし「誰でも 一人残らず 美しい心の人に」見えるなら、それは現実から目を背けることではないか。自分も人も美しくあることを願いながら、愚かにも、それは幻想に過ぎないと思っていた。いや、すべての人を美しく見る「道」があることを知らなかった。
道はあった。その道が、イエス・キリストを信じる道だと知って、あっと驚いた。それは、手の届かないほど遠くにあったのでも、夢のように捉えがたいものでもなかった。日々慣れ親しんできたはずの信仰こそ、「人と人とのあいだ」を、すべての人を美しく見る道だったとは。
神はご自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
・・・・・・・・
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。
見よ、それは極めて良かった。(創世記1:27、31)
「すべての人の心の美しさを信じること・・・このことが、すべての真の教育の根本に、そして人間であることの根本にあります。人を選別したり裁いたりし始めたとたんに、私たちは人の生命を養うのではなく
損なっているのです。」
ジャン・バニエ「人間になる」より。
すべての人の心の美しさを信じること。そうだった、神様は人間をご自分の似姿に造られた。どの人も、どの人も、神様がご自分似せて「人」として造られた。現実の姿がいかようであれ、神様はすべての人を美しくあるように、そして、人と人とが美しくつながり共に生きるように造られた。現実から人を見るのではなく、神様の御思いから人を見ること、見続けること、それが信仰ではなかったか。
昨日、転院した友を見舞うため、遠くの病院に行った。重度の障害をもつ彼女が少しでも良い看護が受けられたらと願っていたが、現実は重く、どこを見ても悲惨さが当たり前のような病室、大病院の中で、その極度の苦しみさえ目立たない存在となっていた。目も血走り、苛立ちが隠せないような顔つきに、動くことも話すこともできず病むことの辛さを改めて思うばかりだった。
看護士さんが処置をする間、部屋を出て廊下で待っていたが、向かいの部屋には、鼻の管を抜かないためにか手を縛られて、その抑制帯を外そうともがいているおばあさん。悲惨さや酷さを嘆いていても始まらない、そばによって「こんにちは」と声をかけたが、一向に気付かない。それでも「今日は10月17日、美しい秋の日です。ススキが風に揺れて、外を歩けば虫の声も聞こえるんですよ。♪ほらマツムシが鳴いている、チンチロチンチロチンチロリン」と耳元で歌ってみると、おばあさんの目がやっとこちらを向く。「この歌ご存知ですか」と聞くと、「しらん」と蚊の鳴くような声で一言。じゃあ、♪静かな静かな里の秋、おせどに木の実の落ちる夜は・・・と、いくつかメドレーで歌っていると、向かいのベッドのおじいさんがじっとこちらを見ている。「こんにちは」と声をかけて、飾ってある紫色の花をほめると、嬉しそうにその花を届けてくれた人のことを話してくれた。外側だけ見れば逃げ出したいほどの辛さの中にも、紫色の花を届けてくれた人との、こんなほのぼのとした人と人とのつながりがある、人は人を思いやり、生きている喜びを温め合うことができる。今まで見えなかったものが見え始めた思いがして、回りを見回せば、急がしそうに立ち働いている看護士さん、ヘルパーさん、あちこち見回っているお医者さん。こうして病む人のもとに留まり、病む人と共に生きておられるその姿に「有り難うございます」と頭を下げたくなる。
人生投げてはいけない、悲惨に見える状況から逃げてはいけない。どんな闇の中にも光はある、きっとある。人と人とのつながりの中に、神様は愛を注いでいてくださる。人の苦しみを思い、少しでもその苦しみを共に担おうとするなら、そこに、イエス様はいてくださる。希望のともしびを灯してくださる。
神様、あなたを信じるとはあなたが「人」として造られた全ての「人」を信じること。今は苦しみの故にゆがみ、怒りや憎しみでその美しさが隠されていても、神様が美しくあるようにと造られた、その人の隠された美しさを信じて祈り、つながり続けること。
いまだかつて神を見た者はいません。
わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、
神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(1ヨハネ1:12)
あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。 詩編8:4
中秋の名月を見ながら散歩をする。息をのむほど美しい月の光に、立ち止まり立ち止まりしながらゆっくりと歩く。どんなに月に見とれても、心は高く上がっても、私の足は相変わらず、一歩一歩と地上を歩いている。不思議な気がするけれど、人間は、鳥のように飛ぶのでもなく、魚のように泳ぐのでもなく、一歩一歩、地に足をつけて歩くようにと造られた。これは神様から人間へのメッセージのなのだ。「謙遜でありなさい。あなたは地に属する者、土の塵から造られた者、その小ささを祝福する。」それが、慈しみに満ちた神様からのメッセージだと、冴えわたる月の光が教えてくれた。
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いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
1テサロニケ5:16~18
今自分に与えられていない、大きなものをめざすより、
今与えられている小さなことに、感謝することから始めよう。
小さなことに感謝することを忘れて、もっともっとと求めても
それは、地に足の着かない空想物語。
かけ声ばかりで、いつまでたっても実りはしない。
(そんな自分がちょっと可笑しい。)
今置かれた立場、今与えられている時間、今与えられている隣り人、
静かに目を閉じて思いめぐらせば、仕事はいくつも見えてくる。
その一つ一つに感謝を込めて、今日という日を生きるなら、
どんなに小さな歩みでも、道ばたで見つけたキュウリ草の花のように、
ハッとするほど美しい人生になる。
「感謝」こそ、誰でも、何時でも、何処ででも、
神様に捧げることのできる、最大の捧げ物。
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神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。 1ペテロ5:6
その時の情景と共に、心に鮮明に残る御言葉がある。随分前、正確には27年と4ヶ月ほど前のある日、わが家の台所の日めくりはこの御言葉だった。なぜそんな昔のことを覚えているかというと、その日、夫の親類の者が親子4人で来て、小さな子供がその日めくりを指さし「これ何?」とお父さんに聞いたのだ。父親は「聖書の言葉だよ」と子供に説明していた。私は日めくりによって、自分がクリスチャンであることを夫の親類に証できたような気がして、妙にうれしかった。
その日から今日まで、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」という御言葉の真理を、何度味わい知らされてきたことか。そして、30年近くもその御言葉を胸に刻みながら、今はっきりと分かることは、私は相変わらず「へりくだる者」ではなく「高ぶる者」だという事実。神様の恵みの在処を知りながら、水が低きに流れるように、へりくだりさえすれば神様の恵みはいやでも流れてくると知りながら、事ある毎に、どうしても、どうしてもへりくだることができないという現実。そんな私の強情さが、親類の人たちの躓きにもなっている。ああ、これが「罪」というものかと痛いように実感する。では、どうしてこんな私がしりぞけられることなく、なおも赦され生かされているのか。それも、豊かな恵みの内に。
「キリストはこの私の高ぶりを身に負うて、神にしりぞけられる者となってくださった。そして、どこまでも神の前にへりくだり、そのへりくだりの故に与えられた恵みの中に私を生かしていてくださる。」
このことを教えてくださったのは、難病に苦しみつつ天に召されたT兄だった。「キリストを信じるとき、私の罪はキリストがひき受けてくださり、キリストの持っておられるあらゆる善きものと祝福が私のものとなるのです。」と、胸のポケットから取り出した、マルチン・ルターの「キリスト者の自由」を片手に熱く語ってくださった。人はただキリストの故に赦され、生かされている。この恵みの言葉をT兄の遺言のように思っている。
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9月も半ば、今朝は少し涼しいなと思いながら洗い物をしていると、Hさんから電話がかかってきた。お腹の調子が悪くて苦しい苦しいと呻いていた彼女が、弾むような声で「神様を信じていて良かった、イエスさまを呼び続けて良かった、聖書を読んで御言葉を覚えて良かった」と「良かった」の連発。「体の不調もあって、いつも死を思って生きているけれど、もうすぐ死ぬと分かったら、相手の迷惑にならない限り友だちの所を一人一人訪ねたい」との発言に、なるほど、神様とのつながりが強くなると、人間同士のつながりも強く感じられるようになるんだなあと、実感する。いやいや、「Aさんも、Bさんも、Cさんも良くしてくれて、私はとっても恵まれてる。神様に特別愛されてるんだね」という発言からすると、人間同士のつながりが強められる時、神様とのつながりもより深く実感できるのかも知れない。どちらにしても、キリスト信仰に「神様と自分だけ」というのはあり得ないし、「兄弟姉妹だけが喜び」という神様抜きの信仰はもっとあり得ない。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」ヨハネ15:4
というキリストと自分の縦のつながり、
「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。」ヘブル3:13
という、人と人との横のつながり。
その二つのつながりの中心に立って、それぞれのつながりに今日も命を注いでいてくださるキリストを思う。
福音 №207 2005年8月
「悔い改め」 「心静かに」 「高原の花もお月さまも」
「どうして?」「なぜ?」「おかしいよ、それ」。人への思いでいっぱいになると、疑問や不審はどこまででもふくれ上がる。あれこれ思う内に「やっぱり間違っている」と見抜いたような気になっても、そんなふうに人を裁いている自分が正しくないことはどこかで分かっているから、心のモヤモヤは無くならない。モヤモヤするからもう一度「どうして?」「なぜ?」「やっぱり間違っている」、「でも」とくり返し・・・、やっと、やっと心を静めての神さまを思うに至る。(それまでも、神さま、イエスさまと何度も呼びかけてはいるのですが、自分の思いでいっぱいで、静かに御声を聴こうとはしていなかったのです。)
心静かに空を仰げば
水色の空が広がって
大きな空をながめている小さな自分
その小ささがうれしくなる。
心静かに野山を見れば
「光あれ、草木繁れ」と神さまの言葉
すべての生き物が「良し」とされて
生かされているんだとうれしくなる。
心静かにイエスさまを思えば
「決して捨てないと」今も御手を伸べて
さまよう人々を見守り続ける
そのまなざしがうれしくなる。
心に静かな喜びが満ちてきて一件落着。
さあ、神と人とに仕えるために、今日もまた、小さな一歩を踏み出そう。
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イエスさま、あなたは確かに私たちの救い主、あなたを一心に見つめるとき、あなたのことだけを思うとき、心はうれしくなります。平和になります。どんなことにも負けないで、「にもかかわらず愛そう」と「にもかかわらず生きよう」と、新しい力が与えられるのです。
神さま、あなたの求めておられる悔い改めとは、ただ、あなたの方に心の向きを変えることですね。「あれが間違っていた、これが悪かった」なんて呟き始めると、心にさし始めた光が消えてしまいます。そうなんですね、自分であれ、他人であれ、じっと見続けてはいけないのですね。人間の内に光はないから、人のことを思い続け、見続けているといつしか心は暗くなる。「あなたは『神のことを思わず、人間のことを思っている。』」と言われて、やっと気付きました。そうなんですね。イエスさま、あなただけが光です。
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モーセに告げられた「十戒」の第一は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、そして第二が「あなたはいかなる像も造ってはならない。・・・それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」だった。人間が人間として生きるということは、神を神として生きることだと知った。
私たちがお金や物、名誉や享楽を第一とするとき、たとえ健康で生活は豊かでも人生はどんどん暗くなっていく。また、どんなに素晴らしく見える人も、人は人であって神ではない。人を崇め、人に頼って生きるとき、必ず行き詰まる。
「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」「いかなる像も造ってはならない。ひれ伏したり、仕えたりしてはならない」という人間への戒めが、どんなに深い神の愛から生まれたものであるかを思う。その愛が、時満ちて、キリストの十字架の叫びとなった。
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麦草峠(2127m)の高原に咲く花は、白いヤマハハコ、薄紫のヒメシャジン、マツムシソウにクガイソウ、優しく揺れるハクサンフウロ、赤いシモツケソウに濃いピンクのヤナギラン、黄色い花はアキノキリンソウにオトギリソウ、ワレモコウも色鮮やかに、赤紫の蕾のまま霜に打たれて涸れるというリンドウ、青いトリカブトを見たのははじめてだった。
8月半ばというのに冷たい風に吹かれて、高原の花たちは短い夏を歌うように咲いていた。神さまの愛に包まれて、その愛を歌うように咲いていた。
夕暮れ時、雑踏の中、電車に乗ると人々の疲れ果てたような姿、不機嫌な顔。窓から外を見ると、闇の迫るなか、立て込んだ家々、渋滞した道路、その向こうにはビルが建ち並ぶばかり。それでもあきらめないで、ふと見上げると、あっ! 通天閣の上にお月様。はっきりと、くっきりと浮かび上がる満月。
「わたしは変わらない。わたしは生きている。わたしは町も村も山々も包んで、この町も包み込んでわたしはいる。わたしは変わらない。」花たちの歌う愛の歌を、月の光も歌っていた。
神様、あなたの勝利です。あなたこそ勝利者だと、満月の光がそう語っています。
神さまの愛はどこにいても、何をしていても、私たちを包んでいる。高い高い山に行かなくても、今ここにも、神さまの愛は満ちている。
この世は不完全きわまる世なりという。しかり、身の快楽を得んがた
めには実に不完全きわまる世なり。しかれども神を識らんがために
は、しかして愛を完うせんがためには、余輩はこれよりも完全なる
世につきて思考するあたわず。忍耐を練らんとして、寛容を増さん
として、しかして愛をその極地において味わわんとして、この世は
最も完全なる世なり。余輩は遊戯所としてこの世を見ず。鍛錬所と
してこれを解す。ゆえにその不完全なるを見て驚かず、ひとえに
これによって余輩の霊性を完成せんと計る。
(内村鑑三所感集より)
「この世はこの上なく不完全であると言う。確かに、楽しく心地よく過ごすためには、実に不完全な世の中である。しかし神を知るために、そして愛を完成するためには、私はこれ以上に完全な世の中を考えることはできない。忍耐を学び、寛容を増すために、そして愛のきわみを味わうためには、この世は最も完全な世の中である。私は遊び楽しむ場としてこの世を見ない。鍛錬の場と考える。だから、その不完全な様子には驚かないで、そのことによって私の霊性を完成させようと思う。」
なあるほど!と思う。同じ所に立っていても、上を見るのと下を見るのでは目に入るものが全く違うように、同じ人生を歩んでいても、この世に何を期待するかでその満足度は全く違ったものとなる。
「この世は不完全きわまる世なりという。」確かに日照り続きで一雨ほしいと思っていると、大雨を通り越して川が氾濫、床上浸水、土砂崩れ。地震もいつ起こるか分からない。思いがけない事故、病気。人間の努力やがんばりではどうしようもないことは数えきれない。どんなに平和を願っても、世界中から戦いの消えた日は一日もなく、現実を見つめる限り、どう考えたって「この世は完全で素晴らしい」なんて発想は出てこない。そして、完全じゃないから少しでも完全にするために、政治、経済があり、科学を進歩させて人々の福祉をはかる、それが人類の営みだと思っている。
ところが、こんな不完全極まりないと思える世の中こそ、神様を知る機会に満ち、究極の愛を味わうことができる完全な世であると内村は言う。
「愛をその極地において味わわんとして」という言葉に、キリストの十字架の愛を思った。そうだった。確かに、あの完全な愛は、不完全きわまりないこの世において現れた。キリストの愛が現れるのに、この世の不完全さは害にならなかったばかりか、不完全さの中でこそキリストの真実は輝きを増し、その愛は永遠の愛として私たちの心に刻まれた。
ロマ書8章28節、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」という御言葉も、この不完全な世こそ真に善きものを生みだす完全な世であることを暗示しているようだ。
人生で出会う様々な出来事すべてが、私たちの忍耐と寛容を養い、そして一人一人の霊性を完成するために共に働くとしたら、この世は私たちの成長のために用意された学校のようだ。一人一人に与えられる教材は違うし、そのプログラムも違う。しかし、一人一人の人を、人間としての完成へ導くという目的のために、この世は完全なのだと思えてくる。何と言ってもその学校の教師はイエス・キリストなのだから、これ以上の完全は考えられない。
「苦しまなかったら」
そして、そのことを証する人は多い。
もしも私が 苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった
多くの人が 苦しまなかったら 神様の愛は伝えられなかった
もしも主イエスが 苦しまなかったら 神様の愛は現れなかった
体は動かず、言葉も発することができないで、喜びの詩を書き続けた水野源三さん。瞬きで綴った水野源三さんの詩に曲を付けた新聖歌292番は、多くの人の心に強い印象を与えている。不完全といえばこれほど不完全な人生はないと思える水野さんが、「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった」と告白する時、神様の愛を知るために自分の人生は完全であったといっているようだ。動くことも話すこともできない不完全極まりない自分の境遇を、内村が言うように、完全な境遇と実感していたのをこの詩は伝えてくれる。
もう一つ、よく似た詩がある。
悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう
お前が来なかったら つよくなかったなら
私は今どうなったか
悲しみよ悲しみよ お前が私を
この世にはない大きな喜びが
かわらない平安がある
主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ。
この世の不完全を恐れまい、身の不遇を憂うまいと思う。ここも御国、今この時も神様のご支配のうちにあることを思えば、様々な不完全にも不完全の深い意味があり、苦しみや悲しみこそキリストと出会うまたとないチャンスなのだから。
福音 №205 2005年6月
「救い」 「愛がなければ」 「カルガモ」
「おはよう」と、神様が声をかけてくださった。
「今日も祈りなさい」と、励ましてくださった。
一通のFAX、一通のメールを通して。
ごめんなさい、神様。
あなたに祈ることを忘れて、
生かされている喜びも消えてしまうところでした。
あなたに祈って、
今日という日がどんなに大切な日であるか、
かけがえのない一日だと分かりました。
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地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。
わたしは神、ほかにはいない。(イザヤ45:22)
他の人の罪を思い、自分も同じ罪を持ちながら他の人の罪を見つめて裁いている自分の罪はもっと深いと思い、罪の泥沼で呻吟していると、「わたしを仰いで救いを得よ」と、主の御声。
ああ神様、そうでした。救いとはあなたを一心に見つめること。人の罪でも自分の罪でもなく、その罪のただ中からあなた御自身を仰ぐことでした。
☆「来なさい」と言ってくださるイエス様の所へ行くために、イエス様だけをじっと見つめて水の上を歩き始めたペテロ。そう、イエス様だけをじっと見つめているなら、どんな罪の洪水の中でも、絶望の中でも、正しく歩いて行けるのを知るのです。(マタイ14:22~33)
☆「主よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたカナンの女。イエス様が答えてくださらなくても、「あなたのところに遣わされたのではない」と言われても、イエス様を一心に見つめ、すがることを止めなかった。悪霊に支配された罪の力から解放してくださるのはイエス様をおいて他にないと、知っていたのです。(マタイ15:21~28)
「わたしを仰いで、救いを得よ。」
主よ、そうです。あなただけが罪のために滅び行く人間を救ってくださるお方。
「わたしは神、ほかにはいない」
そうです。そのとおりです。あなただけが、どうすることもできないわたしの罪を負い、十字架の上で罪を贖ってくださった。あなたの他に神はありません。
私の心に神と人への「感謝」がないと気付いたとき、自分が罪の泥沼の中にいるだとわかりました。そして、そのただ中で「わたしを仰いで、救いを得よ」と、あなたの御声を聴き、あなたを一心に見上げたとき、暗雲の向こうに広がる真っ青な空が見えました。闇の世に今も降り注ぐ、天からの光が見えました。その時、すべての人を救いたいと叫ばれる、あなたの十字架の愛を知ったのです。
主よ、この十字架の愛にすがって救われない人はないと、ただそれだけを、生涯伝えさせてください。
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たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましいどらや騒がしいシンバルと同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。(1コリント13:1~3)
「山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ無に等しい」という御言葉を思って、聖書を開いた。有名な第一コリント13章。読み返してあっと驚いた。そこには「もし愛がなければ、わたしは無に等しい」とあった。「信仰があっても愛のない人は無に等しい」、と一般論を言っているのでもなく、「あなたの信仰は愛がないから無に等しい」と言っているのでもない。パウロは、自分に強い信仰があったとしても、愛がなければ、「わたしは無に等しい」と言っているのだ。パウロは自分の信仰を省みて、わが心の奥深くを見つめて、わが信仰に愛が伴っているかどうかを自問しているのだ。
ガ~ンと頭を殴られたような思いがした。そして鈍い私は初めて、パウロの深みに一瞬ふれたような気がした。
パウロほどの人なら、自分が聖霊によって歩んでいると信じることができたはずだ。そして、聖霊の実である愛も豊かに与えられていたに違いない。だから「どんなに強い信仰があっても、もし愛がなければ無に等しいのだよ」と、人々に教えることもできたはずだ。事実、聖書の多くの箇所でパウロはそのように人々を指導し、あるところでは「わたしにならいなさい」とまで言っている。そのパウロが、神の最高の賜物である「愛」について語るとき、一般論としては語らなかった。他の人の問題として語ることはしなかった。自分の赤裸々な告白として「山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。」と語った。
これだと思った。これだと分かった。もしキリストの愛を受けなければ、キリストの愛がわが内になければ、何をしても、どんなに努力しても、どんなに奉仕しても、わたしは無に等しい。
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近くの川に、お母さんカルガモと12羽の雛発見。あまりの可愛らしさにもう夢中です。私だけではありません。通りかかった人が、「何?」と覗き込んで、難しい顔をしていた人も、パアーッと明るい笑顔になります。見ず知らずの人が、「可愛いですね」「そうですなあ」「こんな汚い川で大丈夫かなあ」「うまく育つといいね」「カラスが心配だ」・・・と、親しい友人のように語り合い、われを忘れて見入るのです。
その可愛らしい姿は、ほんのつかの間でもみんなの心を優しくし、一つにするのが分かります。見つけた人は、誰かにそのうれしさを告げたくて、通りかかった人に声をかけます。するとその人が、「まあ、可愛い」と、優しい笑顔になるのがまたうれしくて。
「世に 無心なるものあらば 神あるをしれよ 神のこえは ほそく かすかなりとか」(八木重吉)
このカルガモと雛たちも、心荒んだ私たちへ、神様からのプレゼントに違いありません。
罪からの救いとこしえの命まことの平安カタクリの花は歌う
罪からの救いを与えようとして
主があなたのところに来られたのに
なぜ心をかたくどざすのか
主を迎えよ 明日でなく今すぐに
とこしえの命を与えようとして
主があなたのところに来られたのに
なぜむなしいものを求めるのか
主を仰げよ明日でなく今すぐ
まことの平安を与えようとして
主があなたのところに来られたのに
なぜそんなに恐れおののくのか
主を信じよ明日でなく今すぐ (水野源三・詩)
罪からの救いと、とこしえの命と、まことの平安を与えようとして、主イエス様は来てくださった。この3つが与えられたら、誰だって、どんな状況にある人だって、喜び歌わずにはおられない。すべての人にとって最高のプレゼントを与えるために主イエス様は来て下さった。
なのに、どうして受け取らないの。罪からの救い、とこしえの命、まことの平安を。そのプレゼントを受け取るためには、心の両手を差し出さなければならないから?両手を差し出すには、両手に多くのものを持ちすぎているから?こんな私ではいただけないと思うから?そんなもの絵に描いた餅で、現実にあるはずがないと考えているから?
そうじゃない。確かにイエス様の恵みをいただくには、心の手をさしださなくてはならないけれど、そしてその手は空っぽでなくてはならないけれど、罪からの救いと、とこしえの命と、まことの平安をいただいたら、他に何がいるでしょう。その素晴らしさがわかったら、どんなものでもさっさと捨てて、精一杯手を伸ばすはず。
「こんな私ではいただけない」なんて、そんなことは決してないんだと分かりました。今朝、「五千人にパンを与える」という聖書の記事を読んでいて、何度読んだか分からない記事なのに、イエス様を中心に、五千人以上の人たちが青草の上に座っている姿が目に浮かんで、たまらなく嬉しくなって涙が出ました。そこにいた人たち、優しい人も意地悪な人もいたでしょう。正義感の強い人も、弱い人も、五千人もいればその中には、ものみ遊山できた人も、すきあらば悪いことをしようと考えている人さえいたかも知れない。でもイエス様はそんなこと何も問わないで、お前にはパンを食べる資格がある、お前はダメだ、なんて一言も言われないで、その青草の上に座るすべての人に満腹になるまでパンを分け与えて下さった。その場を去れば、また一人一人がそれぞれの人生を生きるわけだけれど、少なくともイエス様を中心に青草の上に座ったとき、その人たちの心は一つになった。イエス様の愛に包まれて、みんなの心は一つになって満ち足りた。
無造作に集まった五千人の中に、イエス様から、パンを食べる資格がないといわれた人は一人もいなかった。「私にはその資格がない」と思うなら。それは、イエス様の思いではなく自分に囚われた自分の思いなんだって、どうか、どうか気づいてください。そして、いつも正しいのはイエス様の御思いで、自分の思いではないんだってことを。
罪からの救いと、とこしえの命と、まことの平安と、そんなこと絵に描いた餅で、救われたとか、永遠の命とか・・・その人の自己満足じゃないの、って言う人へ。「死んだらすべてお終い」と言うのは簡単だけれど、もし、本気でそう信じたら、どこから今日を生きる力は出てくるのでしょう。どんなに生きたって死で無になるのなら、正義も愛も全く空しいものになってしまう。だって、今の自分の人生も実は幻想のようなもので、時と共に消えてしまうってことだもの。
四月の終わり、信州・麻績村に行ったとき、山を越えていてふと見つけたカタクリの群生、見渡す限りあの優しい薄紫のカタクリの花が風に揺れて、その光景は、もうこの世のものとは思えなかった。私は確信しました。目に見えるこの現実の世界の背後に、限りなく美しい永遠の世界が広がっているってことを。春の風に吹かれ、木漏れ日を受けて、花たちは語っていました。神の国の清さを、その喜びを。「わたしたちは永遠の中にいるの、耳を澄ませて、ほら聞こえるでしょ、永遠の響きが」 花たちに誘われて、永遠の響きに耳を傾けたとき、そこには信仰と希望と愛の光が満ちていたのです。
どうして黙っておられましょう。私たちは皆、永遠に生きるようにと造られたのです。この世の、どんな悲惨な苦しみや呻きの中にあっても、それでも神様は私たちに「生きよ」と言われる。そして約束してくださる。
太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず
月の輝きがあなたを照らすこともない。
主があなたのとこしえの光となり
あなたの神があなたの輝きとなられる。
あなたの太陽は再び沈むことなく
あなたの月は欠けることがない。
主があなたの永遠の光となり
あなたの嘆きの日々は終わる。(イザヤ60:19~20)
イエス様は、この約束を成就するために、私たちのところに来てくださった。私たちの内にある闇の力、その罪を滅ぼし、永遠の命を与えるために。そして、そのイエス様が、たとえ死の影の谷を歩むときも私たちと共にいてくださることを知るとき、私たちは限りのない平安の中に生かされているのを知るのです。
両腕を伸ばしても
届かない つかめない
キリストの御腕に
私はいだかれていた (水野源三・詩)
福音 №203 2005年4月
御言葉が開かれると 苦難の中の希望 信仰を土台として
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
(エフェソの信徒への手紙1:17~19)
ちょっとしたことから、自分一人損をしているような気がして腹立たしくなっていた時、「天において受け継ぐものがどれほど豊かで栄光に輝いているか思ってみなさい。」と主の御声。御声と言っても、アナウンスのようにどこからか聞こえてきたというのではありません。暗いところに急に光がさすように、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」という御言葉が、突然心を照らしたというわけです。天の御国の喜び、私たちのために用意されている御国の素晴らしさがはっきりと分かれば、この世での損得問題など、跡形もなく消えてしまいます。そして、「すべては、あなたがたのものです。・・・世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、一切あなたがたのもの」(1コリント3:21)という、驚くべき御言葉が、実感となり、悪い思いなども吹っ飛んで、喜びいっぱいです。世界中の人が慕わしくなり、あの人、この人と思い出す限りの人に神様の祝福を祈ります。「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」(詩編119:130)と言われている通りです。
心の中が空き家になっていれば、悪霊が住み着くと言われているように(マタイ12:43~45)、神様を忘れてしまうと、心の中に悪い思いが入って来るという現実は、どうにもならないです。でも一つ確かなことは、そんな者でも御言葉が開かれると、その御言葉によって新しく、清くされると言うことです。「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(ヤコブ1:21)
御言葉によって神様の愛を知り、御言葉によって慰められ励まされ、御言葉によって歩むべき道を知らされる。渇いた鹿が谷川を慕い求めるように、日々聖書を開き、御言葉を慕い求めて歩みます。
今日(20日)は水曜集会、Y姉と二人で「エレミヤ書」18.19章を学びました。
「あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。」(18:7~8)
主よ、この不穏な世相の中、私たちがまず悪を悔いて正しい道に立ち帰ることができますように。この日本を、平和憲法を守り隣国を愛する国としてください。御言葉を信じ、御名によって祈ります。
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この頃、とても難しい障害をもった人や、重度の難病の人と親しくおつき合いするようになり、「神の言葉」なくして、人は本当の意味で生きられないことを改めて実感しています。人間が思ったり、考えたり、感じたり、決心したりすること、また人間同士の支え合いだけでは不十分なのです。
耐えられないような苦しみの中で生き続けるために、人には、死の向こうにある希望が必要だということ。もちろん、これは信じるより他ないことですが、「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」お方がいるということ、「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日は終わる」(イザヤ60:20)という驚くべき希望が、真に生きようとするとき、人には必要なのです。そして思いました。多くの人は死後のことを話すと、「そんなこと分からない」と一笑に付すのに、私はどうして、肉体の死で終わらない永遠の命があることを、本気で信じるようになったのだろうか、と。
そんなことを考えていて、今週の始め、日曜礼拝でマタイ福音書13章にある「からし種のたとえ」を学んで、信じることもまた神様の御業なのだと知りました。
天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。 (マタイ13:31~32)
いつも学んでいるように、国とは支配で、神様の御支配のなさり方は、最初はからし種のように小さいけれど、時と共に成長して、何よりも大きく確かなものとなっていく。このたとえ話から、「からし種ほどの信仰」という言葉もあるように、私たち一人一人に与えられた信仰もまた、このように成長していくのだと分かりました。
神様がおられることさえ知らなかった人が、ふとしたきっかけ、人や書物との出会いによって神様を信じる(神様がおられるのがわかる)ようになる。その「信じる」という、小さな種が時と共に成長して、人間の頭では考えもつかない「キリストの十字架による罪の贖い」や、「復活」が信じられるようになり、そしていつしか、「キリストの再臨」を、この世のどんな現実より確かなものとして待ち望むようになるのです。
誰だって、始めからすべてが信じられるわけではありません。また、一度分かったように思っても、その分かり方は日々新たにされなければ、澱んだ水のようにいつしか腐ってしまいます。信じるとか、神様が分かるとかいうことは、日々刻々新たでなければなりませんが、弱くても、小さくても、信じ続けているなら、その信仰を神様が成長させてくださる。そして、「死後の世界なんて、行ったこともないくせに」と嘲笑われたって、その嘲笑う人のために心を込めて祈る者に変えられるのです。
自分の苦しみであれ、他の人の苦しみであれ、何らかの苦しみと直面しなければ、人は死も生も考えず、希望などなくてものんびりと過ごせるかも知れません。でも、あまりにも理不尽な苦しみを目の当たりにする時、人は、その向こうにある希望に目を注ぐことなくして、生きることができません。
どんな惨めな状態になっても決して消えることのない希望、真の希望は神様を信じる、「からし種ほどの信仰」から始まるのです。
「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブル10:35~36)
神様を、キリストを信じること、信じ続けること。善きことはすべてはここから始まるのを思います。
福音 №202 2005年3月
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカによる福音書10:38~42)
イエス様のマルタへのいたわりが伝わった来るような御言葉に、心打たれる。そして気付く。「イエス様、私は多くのことに思い悩み、心を乱しておりました。必要なことはただ一つだけなのに、あれもこれも自分の思うようにはかどらないと、心を乱しておりました。そんな私を『駄目だね』と突き放さないで、『必要なことは一つだけだよ』と教えてくださった。あなたの御声を聞くよりも、私の思いを遂げようとする傲慢を打ち砕いてくださった。イエス様、ありがとうございます。」
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神様が、世界も宇宙もすべて、 愛によって導いておられる。
冬の夜空を見上げれば、冷たい闇の中に 輝く星が、そう告げている。
その、愛の御手の中に私もいる。
「シリウスとオリオン座を見つけて辿っていけば、冬の第三角形も、冬のダイヤモンドといわれる六角形もすぐ分かりますから」と教えてくれた。晴れた夜、南の空を見上げればシリウスの青い光。そして三つ星ですぐに分かるオリオン座の、左上の赤みがかった星がベテルギウス。その二つの星と同じ距離を左に辿るとこいぬ座のプロキオン 、繋いでみると確かに正三角形。さあ次は、プロキオンの上の方に目をやると、なるほどふたご座、二つの星が光っている。少し明るめの星ボルックスからずっと右上の方に目をやるとぎょしゃ座のカペラ。カペラから右下に等間隔で目をやるとおうし座のアルデバラン、そこまで来るとオリオン座の右下にある青白いリゲルの光が繋がってくる。そしてシリウスの輝きを結ぶと、なるほど冬のダイヤモンド。
こんな美しい輝きを見ていると、「神様!」と呼ばずにはおられなくなる。
その愛を讃えずにはおられなくなる。
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神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。詩編51:12
3月12日、今日は神戸の地で2年3ヶ月続いた大倉山集会、最後の日だった。母と娘が二組、それに私で5人の小さな集まり。母と娘が親子と言うより、主にある姉妹として共に学ぶ姿は何ともうるわしく、静かな喜びの中、今日は詩編51編とロマ書16章を学んだ。
詩編51編。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。」という有名な聖句のある詩。一人で読んでもスーッと心に入ってくるし、特別な注解も説明もいらない、この詩人の祈りはわたしの祈りだ、と感じる人も多いことだろう。
ところが今日は、まずこの詩編をみんなで輪読、その後、一人一人の感話や御言葉の証を聞くうちに、一人で読むときとは違う深い示しを受けるのを感じた。どの人が言ったどの言葉というのではない、そこにおられる聖霊が、この詩はキリスト信仰の本質であると、これがキリスト信仰なのだと、一人一人の感話の背後で語ってくださるのを感じた。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」
これこそキリスト者の祈りであり、このためにキリストは来てくださった。もし、世界中の政治経済が安定し平穏な世になっても、私の内に清い心がなければ、どうして愛が、生きる喜びが生まれるだろう。新しい確かな霊が授けられなければ、どうして永遠の希望に生きることができるだろう。キリスト教とはどんな慈善事業をすることでも、社会運動をすることでも、奉仕をすることでもない、この私を創造してくださったキリストの御手によって、再び私の内に清い心を創造していただき、新しく確かな霊を授けていただくことなのだ。そして、そこから様々な働きが生まれてくる。しかしどんな働きも、もしそこに「清い心」と「新しく確かな霊」を求める祈りが無くなれば、それはもうキリスト者の働きとは言えない。
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義(正しい)とされる。」(ガタテヤ2:16) その、人が義とされるキリストへの信仰とは、キリストの前に低く打ち砕かれることなのだ。「主よ、憐れんでください」と、ただひれ伏すことなのだ。その時、神様は私たちを義とし(正しいと認め)、私たちの内に清い心を創造して、新しい確かな霊を授けてくださるのだと、静かな学びの中で、聖霊が心に刻んでくださった。
集会を終えたとき、Nさんの携帯に「今日の御言葉」が届いた。
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ福音書18:19~20)
・・・しかし、もし私たちが共に集まることができるなら、そのとき、たしかにキリストはその集まりを祝福し、そのただ中にいて下さる。そして力を与え、聖霊を与えて下さる。その集まりは、何十人とか何百人といった多数である必要はない。主を見つめつつ、心を一つにして集まるなら、たった二人でも三人でも、神のその集まりを祝福され、そこにいて下さり、その数人に恵みを与えられるのである。・・・
何ともタイムリーな「今日の御言葉」に、祈りは生きて働くのだと実感し、御言葉の確かさをまた心に刻みました。
「十戒」という題名に惹かれて、始めてミュージカルの舞台を見た。すべてが歌、それもフランス語と聞いてちょっと考えたが、「十戒」なら、たとえ言葉が分からなくてもだいたいのストーリーは分かるだろうと、念のため字幕も読めるようにバードウオッチング用の双眼鏡を持って出かけた。
大阪城ホールももちろん始めて。スペクタクルと言われても始めてのミュージカルでは比較するすべもないけれど、煙がかかったような広い会場に舞台設備も確かに大きく立派だった。(会場全体が煙っているように見えたのは、照明の光の色を美しくするためなのだそうです。)
観客は6千人くらいだろうか、ほぼ満席。S席とはいえ教会割引、30列目では今歌っているのがモーセかどうかさえはっきりせず、所々双眼鏡で確認しながら見続けたが、さすがフランスの一流の人たちの演出、音楽、役者とあって歌も踊りも素晴らしかった。 しかし、私の心に不思議なほどグイグイと入ってきたのはその音楽でも、ダイナミックな美しい踊りでも、スペクタクルな演出効果でもなく、奴隷からの「解放を!」「自由を!」と苦しみもがくヘブライ人たちの叫びだった。ああ、自由とは、解放とは、このようにして叫び求めるべきものなのだと知らされた時、私たちに真の自由を与えてくださったキリストが心に迫ってきて、このお方が与えて下さった自由を私は100万分の一も感謝していなかったと深く気づいた。そして、舞台の始めから終わりまで「キリストによって与えられた自由」というただ一つのテーマが、私の頭の中を駆けめぐっていた。
物語は、旧約聖書「出エジプト記」第一章に記されているように、エジプトに移住したヘブライの民(イスラエル人)が奴隷として酷使され、生まれた男の子が皆殺しにされるという場面から始まった。そんな中、籠に入れてナイル川に流された一人の赤ん坊がエジプトの王女に拾われ、モーセと名付けられてエジプトの王子として育つことになる。
「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる冨と考えました。」(ヘブライ人への手紙11:24~28)とあるように、成人したモーセはヘブライ人を助けようとしてエジプト人を殺してしまい、ついに遠くミデアンの地まで逃げていくことになる。そして、そのミデアンの地でモーセは神の声を聴く。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す。・・・・行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(出エジプト3:7~10)
神の声に従いイスラエル解放のために立ち上がったモーセは、エジプトの地で奴隷として苦しみ喘ぐヘブル人にとって、まさに自由への導き手だった。
だが、モーセに導かれ、神の驚くべき力に守られて紅海を渡ったイスラエルの人々に、次なる試練が待ち受ける。神の命によりシナイ山に登ったまま帰ってこないモーセへの疑いや不安から、自分たち自身の罪の奴隷になることだった。エジプト脱出によって得た自由は、もはやそこでは何の役にも立たない。外からの自由を得たにもかかわらず、内なる罪の奴隷となったイスラエル人がしたことは、真の神を忘れ、金の子牛を造り拝むという偶像崇拝だった。モーセの持ち帰った石の板には。第一、第二の戒めとして、
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。
と刻まれていたにもかかわらず。
エジプトを出たイスラエル民族が「十戒」の書かれた石の板を受け取るまで、どのような試練があり、またその度にどれほど力強い神の助けがあったか、「出エジプト記」に詳しく記されています。ミュージカルでは粗筋さえさっぱり分かりませんが、この機会に、ぜひぜひ聖書を開き「出エジプト記」をお読みください。そうすればこれが単なる物語でも人間の愛や意志を描いたものでもなく、生ける神の言葉によって人は導かれているのだときっと分かるはずです。
旧約の最大の預言者モーセにして、イスラエル民族に真の自由を与えることはできなかった。また、人を自由にするはずの「十戒」という律法さえ、守ることのできない者にとっては新たなる枷となり、人々を苦しめるものとなってしまった。
その後、1500年を経て、神は人類を完全な自由へと導くために救い主・イエス・キリストを与えて下さることになる。人類を罪からの解放し、魂の自由を一人一人に与えるために。
キリストによって与えられた自由。死と滅びからの自由。死なない命が与えられたなんて、どんなに感謝してもしたりないはずなのに、日常の生活の中では、そんな素晴らしい自由の中に生かされていることを忘れている。
「私たちを死に至らしめるのは罪である。その罪からの解放を、あのイスラエル人のように真剣に、本気で叫び求めているか。イスラエルの人たちが、自分たちを虐待し、平気で殺すエジプト人を恐れたように、私たちの魂を殺してしまう罪を、本気で恐れているか。『罪を清めてください』と叫ばないから、赦されている喜びが分からない。キリストに本気で従わないから、与えられている自由の尊さが分からないのだ。キリストは『求めなさい』と言われた。自由であれ、正義であれ、平和であれ、求め続けた者だけが、キリストの与えて下さる無条件の赦しと罪からの解放を喜び祝うことができるのだ。」
舞台の上で悲しげに叫び歌い、その苦しみを踊りで精一杯表現する人たちが教えてくれたような気がした。
福音 №200 2005年1月
信仰
わたしの民よ、心してわたしに聞け。
わたしの国よ、わたしに耳を傾けよ。 (イザヤ51:4)
聖書は私たちへの、神の語りかけに満ちている。だが、その語りかけは何といっても「神の語りかけ」だから、聞く側も心のチャンネルを天に合わせて、一心不乱に聞かねばならない。心のアンテナで天からの清き響きを受信しなければ、その語りかけの大切な部分は聞こえない。だから、聖書を買うものは多くても、読む者は少なく、読む者は多くても、愛読する者は少なく、愛読する者は多くても、聖書の言葉によって生きる者は少ない、ということになるのだろう。人ごとではない。「あなたは日々、神の言葉によって生きているか」と問われるなら、即座に「はい」と答えることはできない。いつの間にかこの世にチャンネルを合わせて、ある時は思い煩い、ある時は溜息をつき、地震や戦争など、目に見える力に圧倒されて無力感に陥ったりする。そして、ハッと気づく。「私には神の語りかけが聞こえていない」と。
神の語りかけに絶えず耳を傾けること、それが信仰に生きるということ。この新しい年も、心のチャンネルをしっかりと天に合わせて、庭に咲く水仙の清き調べを聞く時のように、夜空に輝く星の語りかけを聞く時のように、聖書を開いて神の語りかけに聞き入ろう。
希望
わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。
神にのみ、わたしは希望をおいている。 (詩編62:6)
人の世を思い、自分を思い、いったいどこに希望があるのかと、夜明け間近な空を仰ぐ。天上には幼い頃から見ている北斗七星の清かな光。「希望は天にある」と光っていた。
人の世をどんなに眺めても、考え込んでも、光は射してこない。永遠につながる希望は決して見えてこない。しかし神は、「人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(伝道の書3:11) 神の似姿に造られた人間は、この永遠の希望を見つけるまで、心に平安を得ることができない。この世のどこを探しても見つからない永遠の希望、それは天にあると、星たちは光っている。キリストの十字架の光を受けて輝いている。
愛
わたしの救いはとこしえに続き
わたしの恵みの業が絶えることはない。(イザヤ51・6)
この御言葉はキリストの十字架と復活によって成就した。天も地もすべてのものが滅びてもキリストの十字架による罪の赦しはとこしえに続き、復活という神の恵みの業が絶えることはないと、今も神は語りかけていてくださる。
これからの人生、苦しい病気になることはあるかも知れない、思わぬ事故に遭うことはあるかも知れない。独りぼっちになって泣くことはあるかも知れない。しかし、キリストの十字架によって救われていることに変わりはなく、復活の命が取り去られることは決してない。
ただ信じ、ただすがり続けよう、どんな時にも。この宇宙さえ造られた力ある神の言葉を、そのとこしえの愛を。
喜び
あなた方は喜びで満たされる。(ヨハネ16:24)
「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly One」と歌っている。一人一人みんな特別な存在で、自分を人と比べなくても良いと言われると、ちょっとホッとする気もするけれど、この自分が特別なオンリー1だという理由だけで誇り高く生きていくなんて、やっぱり無理だよね。世界中にあなたと同じ人は一人もいない、だからあなたは大切な人、なんて言われたって、生きる力は出てこない。
神様を知って、イエス・キリストさまが私を愛し、罪を赦し、永遠の命を与えてくださると信じて、自分がナンバー1であろうが、ナンバービリであろうが、そんなこと問題でなくなった。自分が特別なオンリー1である必要もない。私にとってナンバーワンはイエス様。私にとってオンリーワンはイエス様。心からそう思えるお方に出会えた喜び。特別な自分でありたいという囚われから解放された喜び。新しい年も、この喜びを歌いたい。私たちを愛し、命さえ与えて下さった、イエス・キリストさまを伝えたい。
祈り
命のある限り、あなたをたたえ
手を高く上げ、御名によって祈ります。(詩編63:4)
テーブルの上に活けた水仙が香る。この香りは水仙の祈りだ。
窓の外に雪が舞っている。その白い舞は雪の祈りだ。
冷たい夜空に月の光が冴えわたる。その光は月の祈りだ。
天も地も神への祈りで満ちている。
さあ、私たちも祈ろう。
「主よ来てください、心閉ざしているあの人のところに。」
「主よ支えてください。弱って倒れそうなあの人を」
「すべての人が、あなたの御名をたたえますように。」
ああ、驚いた!
夕暮れ時の帰り道、マンションの入り口にある竹やぶの竹が一本手前に倒れて川にかかっている上に大きな二つの目。「えっ、フクロウ」と目を疑って近づいた。ほんの4、5メートルの所でじっと見ると、その鳥も私をじっと見つめる。「フクロウなんているはずがない、
これは鳥が2羽重なって留まっているだけだ」と自分に言い聞かせてみたが、やっぱりフクロウ、ひといきにらめっこをしてその鳥は身を翻し竹やぶに飛び入った。私がフクロウの種類を見たのは記憶する限りただ一度、神社の大きな木にアオバズクの雛が可愛かった。それ以外は図鑑でしか見たことがなく、家のすぐ近くにいるなんて簡単には信じられなかった。ところが長男に話すと、「あの竹やぶのあたりで鳴き声をよく聞くよ。朝早く会社に行くときとか、フウーフウーって。誰かに教えてもらって、子供の頃から鳴いてるのを知ってたよ。まだ見たことはないけれど」と言う。図鑑を調べてみると、どうもオオコノハズクらしい。ともかくびっくりしたが、人生何もかも分かったような気になるのは止めよう。まだまだ驚くことはいっぱいある。