欲知島に家建てに行ってただ一人、話し相手もない、することもない冬の長い夜、持ってきた読み物も読み尽くし、残ったのは一冊の新約聖書だけ。数年前買ってそのままになっていたものを、行李の奥から取り出し、時間はたっぷりあるのだからと「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み・・・」と一字一句念入りに読み始め、長い名前の羅列を読み終えると「イエス・キリストの誕生は左のごとし」と、この言葉に救われました。ああこれはイエス伝ではないか、これなら私にもわかる、と思ったのです。
何度聞いたかわからない、杣友さんが始めて聖書を読んだときの話。クリスマスが来るたびに「イエス・キリストの誕生は左のごとし」とうれしそうに話される杣友さんの声が耳に響く。
イエス・キリストの誕生は左のごとし。その母マリア、ヨセフと許嫁したるのみにて、未だともにならざりしに、聖霊によりて孕り、その孕りたること顕れたり。
後は新共同訳聖書で
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
今年はクリスマスを迎えるにあたって、この箇所をくり返しくり返し読んだ。そして聖書というものに、改めて感動した。こんなに簡潔に、素朴に、こんなに深遠な、霊的なことを、こんなになくてならぬ言葉だけで、こんなに的確に・・・。これは「人々からでもなく、人によってでも」ない「人に喜ばれようとしている」のでもない。ましてや、「人の歓心を買おうと努めている」のでもない。これは確かに神の言葉だ。読めば読むほど一つ一つの言葉が詩のように響く。この2000年、世界中の数限りない人が、一字一句、息を潜めて、そこに込められた無限の意味を汲み取りながら読み続けてきたのだ。
このイエス・キリスト誕生の記事の中に、夜空の星のように美しい言葉が三つ、天よりの光を放っているのが見えてきた。「聖霊」「罪からの救い」「インマヌエル」
*「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」
この地球上に生まれた人間の中で、ただ一人、肉によらず聖霊によって生まれたお方、しかも、マリアという乙女の胎に宿り人間として生まれられたお方。「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた(ピリピ2:6~7)イエス・キリストは、マリアの胎に聖霊によって宿られたと、何と美しい訪れだろうか。
しかし、イエス・キリストが聖霊によって生まれたというのは、イエス一人のことであって私たちには関係なし!というのではない。私たちもまた、神の子となるためには聖霊によって生まれねばならない。「年をとったも者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」などと言ってはならない。聖書には、聖霊によって新しく生まれる道が示されている。
言(イエス・キリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(ヨハネ福音書1:12~13)
こんな素晴らしい良きおとずれを、どうして黙っていることができるでしょう。私たちが神の子とされる。どのような血筋であれ、どのような父、母、の子であれ、人間にとって決定的なことはただ一つ。その名(イエス)を信じるということ。その時、その人は聖霊によって新しく生まれることができるのです。
*「この子は自分の民を罪から救うからである。」
♪もろびとこぞりて迎えまつれ! と世界中の人々が歌い、イエス・キリストを救い主としてお迎えするのは、私たちを滅びに至らせる罪から救ってくださるお方だから。
こんな素晴らしい良きおとずれを、どうして黙っていることができるでしょう。キリストとは、私たちの内にあるあらゆる不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、陰口、高慢、無知、不誠実、無慈悲、敵意、争い、怒り、利己心、ああこれらすべての罪をご自分が負い、十字架につき、私たちを苦しめて止まない罪の縄目から救ってくださるお方です。
*「その名はインマヌエル、『神は我々と共におられる』という意味である。」
こんな素晴らしい良きおとずれを、どうして黙っていることができるでしょう。イエスはインマヌエル、神われらと共にいますしるしとして生まれてくださった。私たち一人一人をかけがえのない者として造ってくださった神様は、その一人一人と共にいてくださる。共にいてくださるから、いつだってどこだって「神さま」と呼ぶことができる。耳を澄ませば御声が聞こえる。イエス・キリストこそ、神われらと共にいます愛の証。
2006年のクリスマス。私たち一人一人に聖霊が臨み、内なる罪が根こそぎにされ、インマヌエルと声高らかに歌うクリスマスでありますように。
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:24~27)
聖書を何度読んでも、イエス様の言葉をいくら聞いても、もしそれを行おうとしなかったら、それは読まなかったの同じである。何も聞かなかったのと同じである。ところが、最近気付いたのだが、それを行うためにはその言葉の意味が良く分からないといけない。ぼんやりと理解があいまいでは力にならないし、行えない。内村鑑三が「聖書の研究」と言ったのは、そのためかも知れないと思う。ともかく、聖書の言葉をできるだけ正しく理解し、理解するだけでなくその言葉を行おうと、思いを新たにされて・・・、いざイエス様の言葉を正しく理解しようとすると、それは並大抵のことではないのが分かってきた。
♪神の国と 神の義を まず最初に 求めなさい♪と、歌にまでなっているイエス様の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」という言葉の正確な意味を知りたいと思って、ともかくその御言葉のある箇所を何度も読み返した。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」マタイ6:25~34
このイエス様のお話はとても分かりやすいように思う。キリスト信仰を持っていない人でも、空飛ぶ鳥の自由な姿に神様への信頼を感じ、野の花の美しさに神様の愛を思う人は少なくないだろう。神様はこんな小さな鳥や野の花さえ養い育て、慈しみ装ってくださる。ましてあなた方、神の似姿に造られた人をどうして養ってくださらないはずがあろうか、人に命を与えた神が、その命に必要な食べ物を与えてくださらないはずはなく、体を与えた神がその体を装う着物を与えてくださらないはずがない。だから、不必要な心配をせず、あれこれと心乱さず悩まさず、あなたがたの日々の必要をみなご存知の神様に信頼して、そしてその次、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と続く。この箇所は塚本訳で「神の義を求めなさい」のところが「神に義とされることを求めよ」となっているくらいで、後はどの訳も「神の国とその義を求める」という言葉はほぼ同じ。
さて、それでは神の国、神の義、とは具体的にはどういうことか、ギリシャ語で「国」の意味は「王位、支配、統治、王国」など。「義」は「正義、公正、公平」。少し分かったような気もするが、神の支配と神の正義を求めるというだけでは、鈍い私には核心が見えてこない。それで次に、家にあるいくつかの注解書や解説書のようなものを調べてみた。
まず、新約聖書略解には「神の国と神の義と、この両者は同じことで、神の国の義であり、神の国にふさわしいあり方また生き方である。」とある。この説明では、さあ、神の国と神の義を求めよう、という熱い思いも湧いてこないので、次に榎本保郎の「一日一章」から。「私たちの最終の目標は、神の国と神の義を求めることである。神の国とは、神の支配ということであり、ローマ人への手紙にも書かれてあるように、神は私たちを許してくださることによって、ご自身の義をあらわされた。すなわち神の許しということである。それを求めていきなさいということは、終わりの時に神の前に私たちはどうかということを求めていくことである」とある。なるほど、神の支配や、神の義すなわち神の赦しを求めていくのは、私たちが神の前に立つ日、終わりの時に備えて生きることだと思うと、確かに何かしら勇気と希望が湧いてくる。
次に、バークレーでは「神の国を求め、それに思いを集中すること。神のみこころを行い、それを受け入れるのに専念することが、思いわずらいを取り除く道である。」とあり、内村鑑三は「これは簡易生活(この簡易とは、簡単で手軽なことです)簡易生活の原理を説いてその働きを示す言である。」「神の国とその義を目的として、生活は自ずと簡易になるのである。」と言っている。なるほど、「神の国とその義を求める」とは、終わりの日のためだけでもなく、この世での思い煩いを取り除く道であり、空の鳥、野の花のように思い煩いのない、美しく単純な生活を送るための最善の教えなのだと分かってきた。
信仰生活とはこれだと思う。神様を信じて生きるとはこういうことなのだと思う。さまざまな必要に囚われて思い悩んでいる自分を、神様の方に向け変えて、「どうかこれらすべてをあなたが支配してください」と明け渡し、神様の愛と正義の御支配が、私たち一人一人の心に、また家庭にも社会にも、世界中に及びますようにと祈りつつ、そのために労し働くこと。そして、様々な必要を心配するより、まず、神様の御前に自分自身が正しくあることを求めること。しかし、正しくあることほど難しいことはない。どうしても正しくあり得ない私たちのために、イエス様は来てくださった。私たちを神の義から引き離す私たちの罪のために十字架の上で血を流し、私たちが義(正しい)とされるために復活してくださった。終わりの日に備えて、神の国と神の義を求めて生きるとは、このイエス様を日々慕い求めて生きることなのだ。このイエス様がいつも共にいてくださるなら、すべての必要は満たされ、鳥のように自由に、花のように美しく生きられるに違いない。
「もう生きられないよ」とあなたの声を聞く度に、「大丈夫、人の力の尽きたとき神の力は働き始める」と答え続けてきたけれど、ついにあなたはどうしようもない状況になったのですね。でも、今静かに祈りながら、「さあ、これからがあなたの人生の本番だ」と本気で思っています。
あなたは「苦しくて苦しくて、もうこの苦しみから逃れるすべはない」と言うけれど、そして確かに今は、土の中に埋められた球根のように、何も見えず何も聞こえずうずくまっているけれど、でもあなたは人間です。神様が御自身の似姿に造られた、かけがえのない人間なんです。土の中の石ころは何年たっても石ころだけれど、球根は春になれば芽を出します。今は心身共にどうにもならないあなたも、その苦しみから解き放たれる日が必ず来る。「そんな日は来ないよ」と恐れと不安につつまれたあなたの声が聞こえるようです。でも、あなたがどんなに否定しても、人間は生きるようにと造られた。私は30年聖書を読み続けて、人に「生きよ」と語っておられる神様の御声を疑うことはできません。人が生きることは、その人の努力や願いである前に、神様のご意志だからです。
先日、病気で余命少ないと言われているおばあさんと一緒に散歩をしました。病院の大きな駐車場を回りながら、秋の野花を見つけると車椅子を止めて、その花を摘んで手渡しました。おばあさんは一つ一つ大切そうに受け取って、「小さき花、のげし・つゆくさ・いぬたでと、風に吹かれて集める楽しさ」と歌いました。「生きるっていいなあ、年老いて、病気で、もう何にもできなくても、生きているってうれしいなあ」と、空を見上げるおばあさんの笑顔が、そう言っていました。その時、おばあさんと私には分かったのです。10月の柔らかな陽ざしが、「きれいだね」と思わず声を合わせた鰯雲が、風に揺れる草花が、「生きよ、生きよ、永遠に生きよ」と語りかけているのが分かったのです。
おばあさんは長患いで、夜外に出ることもほとんどなかったようです。だから車椅子で夜の散歩をしたとき、自分はこんなにも月や星の光が好きなのだと驚いていました。病院の回りは照明が明るすぎて、いつも数えるほどしか星が見えなくて、「満天の星が見たい」と言いました。それで私はアブラハムの見た満天の星、そこに込められた神様の祝福の話をしました。
「アブラハムは『家を離れて、わたしの示す地に行きなさい』という神様のお言葉に従って旅に出ました。アブラハムにとって生きるとは神様に従うことだったのでしょう。そんなアブラハムを神様はいつも祝福して、一緒に旅した甥のロトまで守ってくださいました。でも、アブラハムには子供がいなかったのです。そんなことに不平を言うアブラハムではありませんでしたが、ある夜、神様はアブラハムを外に連れだし言われました。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい』と。」
おばあさんと私の見上げる夜空は薄曇りで、たった二つしか星は見えなかったけれど、二人で満天の星を思い描いていると、私たちにもアブラハムの見た数え切れない星の光が見えるようでした。
「この満天の星のように、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われて、アブラハムは信じました。アブラハムはただ信じたのです。一人の子供もいないのに、この星の数ほど子孫を与えるという神様を信じたのです。死人を生かし、無から有を呼び出される神を、望み得ないのに、なおも望みつつ信じたのです。そしてその時、『アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』という限りなく美しい御言葉が生まれたのでした。」
おばあさんにアブラハムの話をしながら、私はあなたのことを思いました。「もうダメだ、どうしようもない、後は廃人のようになって死ぬのを待つばかり」と、そういうあなたの現実を知りながら、それでもあなたが、新しい命に生きる日が来ることを信じようと思いました。神を信じるとは信じられることだけ信じるのではありません。死んで4日もたち、墓の中で「もう臭くなっております」というラザロを生き返らせた神を信じるのです。十字架の上で「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息絶えたイエスを復活させられた神を信じるのです。私が勝手に信じるのではない、自分の努力やがんばりで信じるのでもない。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われる主の御言葉によって信じるのです。
私が「信じる」という言葉を使うたび、あなたは「どうしてそんなこと信じられるのか?」と不思議そうに問います。なぜ信じられるのかは自分でも分からないけれど、何か問題が起こるたび、神様を信じて心を向けるなら、その時々にふさわしい聖書の言葉が思い起こされ、・・・神の言葉には力があると言うのは本当です・・・、その言葉は、大きな岩にように見えた問題が、実はこの世に生きている限り誰でもが踏みしめて歩まなくてはならない小さな石ころだったと気づかせてくれるのです。
あなたのことを思っていると、あの有名な「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」というイエス様の言葉が思われ、聖書を開いて読んでみました。
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 マタイ福音書9:9~13
収税所で座っていたマタイは徴税人でした。徴税人とは当時ローマの支配下にあったユダヤの国で、ローマの手下となって税金を集め、それもおおっぴらな不正をすることもあり、ユダヤ人からはローマの犬として蔑まれていたのです。そんなマタイに声をかけられ、大勢の徴税人仲間や罪人とつまはじきにされている人たちと食卓を共にされるイエス様。そして「なぜあなたはこんな人たちと一緒に食事をするのか」と問う人たちに「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とキッパリと答えられたイエス様。私は「憐れみ」という言葉に、あの星の光のような希望を感じました。限りなく美しく、私たちを永遠の世界に導く星の光のように、今も悩み苦しむ人たちに注がれている神様の愛を感じました。だから信じるのです。あなたも私も、あのおばあさんも、神様の憐れみにすがる者はみな「生きる」ことができると。キリストの十字架の光が届かないほどの闇はどのにもないのだと。
高く澄んだ青い空、9月の風にさらさらと揺れる緑の木々に鳥たちは歌う。どこまでも真っ直ぐに続く道の向こうには清き山々。深い静けさをたたえて祈るがごとき湖のほとりで見たものは、神の真実だった。
今年の無教会全国集会は北海道、札幌の地。「今年はまだまだ暑くて、北海道の者は汗をふきふきなんですよ」と言われるけれど、大阪の蒸し暑さに慣れきった私には、格別のさわやかさ。会場となった北星学園の校内を歩くだけで心は天に向かう。歩きながら、「世のはじめ さながらに 朝日てり 鳥歌う みことばに わきいずる 清きさち つきせじ」という讃美歌を口ずさんでいた。長らく歌ったこともなく、特に愛唱歌でもないこの讃美歌が口をついてでる不思議を思いながら。
「無教会の源流を求めて」とのテーマでなされた今年の全国集会、9月9、10日と2日間にわたるプログラム一つ一つの内容を紹介することは、私にはとてもできないけれど、その2日間を通して心に残った「唯一つのこと」を記したいと思う。
1日目、受付を終えて北星学園のチャペルに足を踏み入れると、前面の青いタイルに高く掲げられた十字架。いつも家庭で礼拝を守っている者にとって、大きな十字架はすぐにはなじめなかったが、そして2日目。そこでなされた主日礼拝、ロマ書3章21~31節の御言葉の解き明かし、「『ロマ書』における神と人との信実」に胸打たれつつ迎えた最後のプログラム、閉会式。「無教会には教会堂もなければ、組織も、本部もない。金もなければ権力もない。何もない無教会にあるのは真実だけであります。」この言葉を聞くために北海道まで来たのかも知れないと思える挨拶に聴き入り、「わが主をおのれの かしらとあがめて 一つとなりにし 友よ、はらからよ」と最後の讃美歌を歌うに至って、私の目はその十字架に釘付けになった。
このキリストの真実によって、私は救われた。このキリストの真実を忘れまい。
このキリストの真実が今も世界を支えている、人類に希望を与え、今日までの、そしてこれからの歴史を導くのだ。高く掲げられた十字架は、そこに集う一人一人に、そう語りかけているかのようだった。
「神の義はイエス・キリストの信実を通じて信じる者すべてに明らかにされている。」(ロマ書3:22)
「魚は水がなければ泳げないように、神の真実は人の真実によらなければ理解できない。」このような表現だったかどうか定かではないけれど、ともかく神の真実を少しでも深く知るために、人の側に真実(信仰)がなくてならぬのなら、神の真実を知るための人の真実とは何だろう。
木々をゆらす風に吹かれて、学園の校内を歩きながら御名を呼ぶ。
「イエス様、私にも真実を与えてください。あなたをもっと深く知るために。」
主はそよ風のように答えてくださった。
「心の貧しい人々は、幸いである」、と。
そうでしたか、イエス様。私の真実、それはあなたに寄りすがらなければ生きられない私の貧しさ。あなたのほかに行き場のない、あなたに支えられなければ歩めないこの弱さなのですね。
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」とイエス様は言われる。
子供のように小さくあれよ、弱くあれよ、貧しくあれよ、と言われる。ああ、なのに私たちは何と、大きくなろうと、強くなろうと、豊かになろうとあくせくしていることか。大きくなろうとして戦いが起こり、強くなろうとして弱い者を踏みつけ、豊かになろうとして真実を失う。貧しさの中にこそ、真実はあるものを。
無教会の源流、それは確かに、今から百三十年前、クラーク博士が札幌農学校に英語の教師として聖書を携えて来日した時にさかのぼる。官立学校でありながら、道徳教育に聖書の使用が認められたのは、北海道・札幌という辺境の地ゆえだったという。そこで学んだ青年たちの姿は、内村鑑三の「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」に詳しいが、その頃からの激しい流れをわずかに知っただけでも、不思議なる神の御手を思わざるを得ない。今回、札幌での全国集会に参加して、集会の中を流れ続ける真実、これこそ無教会の流れであり、その源流は神の真実にあるのだと知った。
「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」 ロマ書11の36
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「先生、あの子よそ見してた。」「じゃあ、君もよそ見してたんだね。」「しっかり、先生の方を見てたら、あの子のよそ見してるの、君には見えなかったよ、きっと。」
「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからである。」ロマ書2章1節の説明のし方があまりにも可愛らしくて、思わずほほ笑んでしまったが、この聖句がこんなによく分かったことはなかったように思う。そうだった、人が傲慢に見えて「あの人は何と傲慢なんだ」と思うとき、私の中の傲慢がそう言っているのだ。人の欲深さが嫌らしく思えて、「どうしてあの人は、あんなに欲深いのだろう」と眉をひそめるとき、私の欲深さがそのことを教えているのだ。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ7:1~2)
イエス様の御言葉にはいつも私たちへの深い慈しみが込められている。「人を裁くな」との言葉も、厳しい戒めというより、イエス様の愛のことばだったのだ。
キリストの平和が わたしたちの心の
すみずみにまで ゆきわたりますように
久しぶりに会った友人に、「この頃よく歌う讃美歌は?」と尋ねたら、「そうやなあ」っと、ちょっと考えて「こどもさんびかだけれど」と、この曲を教えてくれた。パソコンの伴奏に合わせて一緒に歌っていると、私の心にもキリストの平和が広がってくるようだった。2番の歌詞は、
キリストの光が わたしたちの心の
すみずみにまで ゆきわたりますように
そして、
キリストの力が・・・・
キリストの命が・・・・
キリストのゆるしが・・・
と続く。くり返し歌っていると不思議な喜びにつつまれた。そうだった、平和も、光も、力も、命も、そしてゆるしも、すべて善きものはみなキリストから来る。だから、「キリストの平和が 心のすみずみにまで ゆきわたりますように」と歌っていると、その歌は祈りとなって、神様からこんなにも豊かな平和が流れてくるのだ。
8月15日、61回目の終戦記念日、「不戦の誓い、平和の誓い」という言葉の虚しさを味わい知った一日だった。人の言葉の虚しさと、神の言葉の確かさを、今さらながら考えた。
その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。 (ロマ書3:16)
平和を愛すると言い、平和のためには努力を惜しまないと言いつつ、自らが破壊と悲惨を招いていることをその人は知らない。自らが破壊と悲惨の張本人であることを、私たちも知らない。なぜ私たちの道は平和ではなく、いつも破壊と悲惨に通じるのか、どんなに願っても平和を実現することができないのか。私たちの内にある「罪」、その「罪がわからないことが人間の悲惨なのである」との言葉に、ハッと目を覚まされる思いがした。
人間の最大の悲惨とは、突然の事故でも、不治の病でも、戦争でさえない。己が罪を知らず、罪の内に死ぬことなのだと。
自分の罪がわからない、だから自分の悲惨がわからない。目に見える戦争や、さまざまな災害、病気や事故の悲惨はよく分かる。だから、どうにかしてこの悲惨を防がなければならないと尽力する。しかし、わが内に悲惨を抱えながら、どうして真の平和を生みだすことなどできるだろうか。
キリストの平和が わたしたちの心の
すみずみにまで ゆきわたりますように
と、静かに、くり返し歌ってみる。キリストの平和とは、キリストの平和とは、と問いながら。
神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、
万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。(コロサイ1:20)
キリストの平和。キリストが十字架の上で血を流し、打ち立ててくださった平和。私たちの敵意、利己心、怒り、憎しみ、・・・あらゆる罪を、私たちから取り除くことによってではなく、その罪を御自身が引き受け、飲みほすことによって成し遂げてくださった神との和解。まことの平和。
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。(ヨハネ14:27)
いつもいつも、心を静めてこの御言葉に帰れますように。自分の思いで突っ走って、問題はますます混乱し、どうしようもなくなって、「主よ、あなたの平和をください」とひざまずく。突っ走る前に、まず心を静めて、あなたの平和を求めさせてください。
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今日の礼拝の聖書箇所は使徒言行録9章、「サウロの回心」だった。誰にとってもキリストへの回心は人生の最大事に違いないが、サウロの回心は特にキリストの福音が全世界に宣べ伝えられるための起点ともなった。そのことを思いながら、サウロの回心の記事がこのように詳しく書かれていることに改めて驚きと感謝を覚えつつ学んだ。
今回特に心に残った御言葉から。
「あなたのなすべきこと」
熱心なユダヤ教徒であるサウロは、イエスの弟子たちを迫害するために道を急いでいて復活のイエスに出会う。天からの光に倒れたサウロにイエスは言われた。「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
ああ、そうか、人が生きるとはそういうことか。人にはなすべきことがあるのだ。なすべきことを知り、それをなす時、人は本当の意味で生きることができるのだと知った。
「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないか」
復活のイエスに出会い、3日間、目が見えず、食べも飲みもしないでいるサウロ。そのサウロを訪ねよと言われて、躊躇するアナニアに、イエスは言われた。
「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
人生は苦しみに満ちている。しかし、その苦しみにも2種類ある。一つは神に背を向け、神から逃げようとするための苦しみ。もう一つは、神のため、キリストに従うゆえの苦しみ。言うまでもなく、先の苦しみは死に至り、後の苦しみは命に至る。そして、神のための苦しみには、この世の何ものにもまさる喜びが伴うので、その二つを見誤ることはない。
わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしにつ
来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることが
、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。 (ヨハネ10:27~28)
神様を信じる人も信じない人も、ともかく人間は「共に生きるように、共に歩むように」と造られた。神様が人を造られるとき、男と女に造られたことからもそのことが分かります。男性と女性が助け合って共に生きる。そこに子供が与えられ、家族の中で成長し、やがて社会の中で多くの人たちと共に歩むようになる。その共にある関係が、ある時は支配する者とされる者、搾取する者とされる者という悲しい関係であったり、ある時は、お互いを信頼して助け合うという喜ばしい関係であったりするわけですが、ではキリスト者が共に生きる、共に歩むとはどういうことかと考えていたとき、イエス様の御声に従って歩む、羊の群が心に思い浮かびました。
その群の特徴は、まず、一人一人がイエス様の御声に聴き入ること。お互いが相談協議して、何が正しいか、いかに歩むべきかと頭を悩まし努力奮闘するのではない、群を分割して、その一つ一つに直接的な指導者を置いて群をこぢんまりと纏めることでもない。ともかく羊飼いであるイエス様の御声に一人一人が聴き入ること。風の音に遮られて御声が聞こえにくい時、たまには隣の人に「何て言われてた?」と問うことがあるかも知れない。イエス様の言葉の意味が十分理解できなくて、よく分かる人に教えてもらうことがあるかも知れない。でも、あくまでも、一人一人がイエス様の御声に聴き入るのが群の基本。それが一人の羊飼いに導かれる、キリスト者たちの姿に違いありません。
では、その群はどのようにしてできたのか。群の中で共に歩むために、特に心しなければならないことは何なのか。
この4月から私たちの日曜集会では使徒言行録を学び始めました。そこには、それこそキリストの体である集会、エクレシアの成り立ちが詳しく、ありありと描かれています。十字架について死なれたイエス様が復活されて、弟子たちに現れ、「聖霊が降るのを待ちなさい」と言われ、天に帰られた。それからまもなく、イエス様のお言葉どおり、共に集まり祈る弟子たちに「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、一同は聖霊に満たされた」とあります。聖霊に満たされて、ペテロは大胆に語り始めます。「『終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ』『主の御名を呼び求める者は皆、救われる。』という預言は、今ここに成就した」と。ペテロの言葉を受け入れて、その日に3千人の人が仲間に加わったとあります。この時からキリスト者の群、その恵みと苦難の歴史が始まったのです。そして、それから2千年。一粒のからし種が鳥をも宿すほどの大木に成長するように、世界中にキリストを信じる者の群、キリストの体であるエクレシアが広がったのでした。
使徒言行録を続けて読んでいくと、キリストを信じる者の群にも、次々と大きな問題が起こってくるのが分かります。外からの迫害、内側からのいさかいや疑惑、そんな時、どのようにしてそれらの危機を乗り越えてきたかというと、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」というペテロの言葉に象徴されるように、一人一人がただ、神に立ち帰ることによって。
今を生きる私たちにとっても同じことです。思いがけない試練の時も、自分の罪に泣くときも、この世にある様々なわずらいの中にあっても、ただ、神に立ち帰ってキリストの御名を呼び、キリストにすがり、一人一人が神の前に正されていく。そのことなしに、どんなキリスト者の交わりも、優しさや思いやりや、愛の行為でさえ、それは人間的なものに過ぎず、キリストにある交わりとは言えないのを思うのです。
キリスト者の交わりとは、人間と人間の直接的な交わりではありません。その人の人間性や人柄に惹かれて、相手から直接的な慰めや励ましを求め合うような交わりではありません。お互いに相手を自分で喜ばせようとはせず、キリストにある喜びを分かち合うこと。御言葉を共に喜び、御国が来ますようにと共に祈る、これほどに祝福された、恵みに満ちた交わりを、私は他に知りません。
そして、無教会とは無境界、すなわち境界線のない教会であるとよく言われるように、どんな教派に属していても、どこの教会に行っていても、同じキリストに導かれているなら、主にあっては一つの群。皆兄弟姉妹だと信じます。
その交わり、エクレシアの特徴をもう一つ。
私たちキリスト者の生涯とは、「我に従え」と言ってくださるキリストにすがり、どこまでもついて行くこと。それ以上でもそれ以下でもありません。そして、私たちに従えと言って下さる主は、世にあって最大の苦しみを負われた苦難の主です。そのことを思うとき、キリストの体であるエクレシアも、そこに生けるキリストがおられるなら、また、世の苦難を引受して、苦しみを担って歩む人たちの群であるはずです。この世にあっては、苦しみ悶えている人は、嫌われ避けられる存在ですが、キリストのエクレシアにとっては、そのような人こそ祝福の基となる大切な人。キリスト自らが苦難を負うことによって、回りの人に限りのない祝福をもたらされたようにです。
この世にあって生きがたい人生を、キリストにすがって生きておられる方からいただいた手紙に次のような一節がありました。
「刻々と進みゆく、神の創造の時、昨日より今日、我々の希望である神の御国の実現の時が近づいているという確かさ、何というよろこびでありましょう。」
この一節を読んだ時、「神の国は近づいた」と言われるイエス様の御言葉が現実のものとして、私に迫ってきました。神の御国の実現の時、まだまだ遠いように思っていたのに、昨日より今日、確かにその日に近づいた、今日より明日、また一歩その日に近づくのだと実感したとき、私たちの希望の確かさ、そして日々刻々とその時は近づいているという喜びに、満たされたのでした。
そして知るのです。主にある兄弟姉妹の慰め励ましとはこのように、互いに御言葉を土台として、罪の赦しと復活と、そしてやがて来る御国の喜びを分かち合うことにあるのだと。
次回主日礼拝で学ぶ、「使徒言行録」4章1~22節を読んでいて、読めば読むほど驚いて、ああ、これがキリスト教か、これが福音か、これが信仰で、これが聖霊の働きか・・・と、何もかも分かったような気分になってしまいました。
だって聞いてください。イエス様が十字架で処刑されて、それからたった50日余りしかたっていないのに、その処刑を計画実行した祭司、長老、律法学者、最高法院の議員たちのオロオロと、為すすべもなくうろたえた姿。それに比べて、逮捕されたイエス様を見捨てて逃げた情けないペテロやヨハネが、ここでは何と堂々として立派であることか。たった50日余りで、このような驚くべき逆転が起きたという事実の中に、キリスト教の秘密があるのだと知りました。
まず、4章2節。「二人(ペトロとヨハネ)が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼ら(祭司長たち)はいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。」
そりゃあ、祭司たちはいらだったでしょう。神を冒涜し、民衆を惑わす極悪人だとして十字架につけて殺したイエスが、復活したと宣べ伝えられているのですから。でも、キリスト教はこの「イエスの復活」から始まったのです。
霧がしだいに晴れて来て 山々が姿現す
こんなすばらしい朝に 主は主はよみがえられた。(水野源三)
イエスさま復活の朝、それを思っていると静かに清い喜びが広がります。心の霧が晴れて、天の国の美しい山々が見えるようです。「主はよみがえられた」、このたった一言の中に、私の人生のすべての喜びが隠されているように感じます。昨夜も、自分の偽善性がたまらなくなって「イエスさま、イエスさま」と、ひたすら御名を呼びました。どんなに頑張っても、逆立ちしても、自分で自分の心を清くすることはできない。人生50数年生きてきて、それはもうどうしようもない事実ですから、自分の汚れに気づいたら、すぐに御名を呼ぶのです。主はよみがえられて、今も生きて、御名を呼ぶ者と共にいてくださる。だから、いつでも、どこでも、ただ息を凝らし、思いを込めて「イエスさま、イエスさま」と呼ぶのです。
ちょっと話がそれましたが、「主はよみがえられた」と、ペトロとヨハネの宣教で「二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人にもなった」と記されています。二人の言葉が、なぜこんなに多くの人の心を動かしたのか。それは、三章を読めばよく分かりますが、その人たちは、復活のイエスさまの力を見たのです。エルサレムの神殿の門のそばで、物乞いをしていた生まれながら足の不自由な男の人が「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」というペテロの信仰の言葉で、本当に躍り上がって立ち、歩きだしたのです。百聞は一見にしかずとか、しかし足の不自由な人が歩き出したのを見た、と言うだけではありません。そのことについて語るペトロの力に満ちた言葉、その言葉こそ人々の心に深い感動と変革を与えたに違いありません。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」これらの言葉を「ペテロは聖霊に満たされて言った。」と記しています。そうです。無学な普通の人、ペトロの力の秘密、それは聖霊でした。イエス様が天に帰られた後、「聖霊を与える」というのが神様の約束でしたが、2章には、信じる人々に聖霊が降った様子が生々しく描かれています。
聖霊
聖書が聖霊を生かすのではない
聖霊が聖書を生かすのだ
まず聖霊を信ぜん
聖書に解がたきところあらば
まず聖霊にきかん
聖書のみに依る信仰はあやうし!
われ今にしてこれをしる、おそきかな、 八木重吉詩
キリスト信仰を伝えることの難しさ、それはどんなに聖書の言葉を語っても、正確に詳しく語っても、そこに聖霊が働いてくださらなければ、生きた信仰は生まれないからです。でも失望はしません。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と、それが主イエスの約束ですから。「イエスさま、この世の何にもまさって、あなたをあなた御自身をください」と祈ります。
話をもとに戻します。ペテロの力に満ちた言葉は続きます。「(イエス・キリスト)ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
なぜキリストは救い主なのか、病気を治して下さるからか、事故や災難から守り、さまざまな願いをかなえてくださるからか。いいえ、イエス様は確かに、ここぞと言うとき、思いもよらない仕方で私たちの願いに答えてくださるけれど、でも、だから救い主なのではありません。イエス・キリストが救い主であるとは、私たちを罪から救ってくださるからです。ともかく罪の力は強いのです。人々がどんなに平和を願っても、世界中から戦争の絶えた日はなく、文明が進んで戦争はなくなるかと思いきや、ボタン一つで世界を破滅に追いやる武器が次々と作られている。それも元をただせばみな「神の裁きなどあるものか。自分(たち)さえ良ければよい」という人間の罪ゆえであり、大小を問わず、人を死に至らせる罪からの救い、それがキリストによる救いなのだと、心の底から分かるようになりました。
紙面が少なくなりましたが、最後にもう一つ、2度とイエスの復活など宣べ伝えてはならぬ、と脅す議員たちにペトロは言います。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」
人の声に動かされないように なりたい
自分の感情に なびかないようになりたい 樫葉史美子
キリスト信仰とは、どこまでも神に従うこと。でも、人の声は大きく、自分の感情は激しいのです。今、私は誰に、何に従おうとしているのだろう、人の声に?自分の感情に?いいえ、神様、あなたのご意志を教えてください。あなたのお心に従うことだけが私たちの日毎の願いでありますように。
小さな庭にも、赤いバラの花が咲く頃となりました。5月13、14日と、愛媛松山の地で開催された四国集会も御恵みの内に終わり、また思いを新たにされて、♪ キリストは生きておられる、わがうちにおられる、と歌います。本当に神様を信じて生きる人生とは何と幸いなことでしょう。今日生きる力は、今日主が与えて下さる。強い意志や信念を持っているというのではなく(それどころか、格別気弱な者で)、あ~あっと座り込んでも、一雨降れば草木が生き生きするように、ふと気付けば新しい力が与えられ、♪今日も励もう主に守られ、と歌います。
わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のも のであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
(2コリント4:7)
私たちは土の器、ほんのちょっとしたことで欠けたり、壊れたりしてしまう。年と共に、腰が痛くなって体をねじって歩いてみたり、目がうすくなり「メガネ、メガネ」と探し回ったり、どんなに頑張っても、人間はみんなみんな土の器。でも!それが!主の御名はほむべきかな!こんな土の器の中に宝がある。決して朽ちない、古びない宝がある。神様の愛が、永遠の命が、こんな土の器に盛られている。その愛や命、今日を生きる力が、神様のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために、自分がよほど見栄えの悪い土の器であることも、オロオロと情けない土の器であることも、喜んでいよう。こんな土の器の中に、主イエスが住んでくださる、このイエス様だけを誇りとして、「さあ、そこまで」と神様が言ってくださるその日まで歩み続けることができますように。
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私たちの水曜集会では3月から「エゼキエル書」を学んでいます。その準備として、昨年秋から列王記上下を読み、一応、歴史的背景とかが把握できたところで、さあ、これまで詳しく学んだことのない「エゼキエル書」を読んでみよう、ということになりました。読み始めてまず第1章の奇抜さにアッと驚き、それでもあきらめないで読み進め、この頃、聖書を読むこつが少し分かってきたように思います。そんなに難しいことではありません。ともかく、くり返し読むのです。最初は何が何だか分からなくても、折々に、3回、5回、7回とくり返し読んでいると、だいたいの内容が分かってくるから不思議です。だいたいの内容がつかめたところで、疑問点を中心に、はじめて注解書等で調べます。分からないからとすぐに注解書に頼らないで、あくまでも聖書をくり返し読むこと。それがポイントだと分かりました。そして、聖書を学ぶのに、何よりもありがたいのは、一緒に読む仲間がいることです。「2人または3人がわたしの名によって集まることろには、わたしもその中にいるのである」とイエス様のお約束どおり、集まって読むとき、主御自身が中心にいて導いて下さると実感です。ともかく、私たちには「聖書」が与えられているのです。この恵みを無駄にするてはありません。退職して時間がたっぷりという人も、何人か集まって聖書を読み始めるなら、きっと今まで見えなかった新しい世界が見え始めるはず。主許し給うなら、天に召されるその日まで、聖書を読む集まりを続けたいです。
それはさておき、エゼキエル書を読み進め、18章は新約聖書のメッセージのように力強く慈しみに満ちており、感動でした。
主の言葉がわたしに臨んだ。「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酢いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮 く』 と。(1:1)
イスラエルだけではない、私たちも「親の因果が子に報い」とよく言います。「こんな星の下に生まれてきたのが不幸の始まり」とも。確かに、この世の様々なことは、親から子へ、子から孫へ受け継がれることが多いし、また、複雑な人間関係の中で生きる私たちが、この世の中で完全な「個」として歩むことは難しいです。
ところが18章では、その人が生きるか滅びるか、その人の究極的な幸不幸は他の誰にもよらない、その人自身の責任だと言われています。神の前に立つとき、人は「個」として扱われる、他の誰でもない、自分自身のことだけが問われるのだと。
罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。(20)
しかしこれだけなら、なるほどと納得がいっても、「罪を犯した本人が死ぬ」という言葉に逃れ場はなく、この私もまた罪の結果としての死を待つばかりの身です。ところが、またしても主の御名はほむべきかな!神の言葉は続きます。
悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。(21~22)
どんな過去があろうと、人から悪人とレッテルを貼られようと、すべての過ちから離れて正しい行いに帰るなら、かつての背きは思い起こされることはないと主は言われる。
悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。(30~31)
私たちはいつも、過去の自分ではなく「今、あなたはどうなのか」と問われているのです。これは何という恵みでしょう。私たちは誰も、昨日という日を生き直すことはできないけれど、今日、神に立ち帰ることが許されているのですから。
しかし、旧約の時代には、「正しい行い」が不可欠でした。そして旧約の歴史を読めば読むほど分かってくるのは、人間の罪深さであり、正しく行うことは誰一人できないという現実です。新しい心も、新しい霊も造り出すことのできない私たちのために、主の御名はほむべきかな!キリストが来て下さった。正しく行えない原因である罪を取り除いてくださり、イエス・キリストを信じ、すがるだけで、新しい心、新しい霊を与えて下さるという新約(新しい契約)の道が、私たちすべての者に開かれたのです。
「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」
と主なる神は言われる。他の誰でもない、神様が、神様御自身が「立ち帰って生きよ」と言ってくださるのです。幼子のように素直に、キリストを信じることができますように。
この「福音」を書き始めたのは、神様の愛を知らないで「人間、死んでしまえばそれでお終い」と思い込んでいる人に、「そうじゃない、人間は永遠に生きるように造られてる。一瞬の事故や、病気で消えて無くなってしまうような、そんな無念な存在じゃない」と伝えたかったのです。だって、この世には数限りない問題があるとしても、人間の生き死にほど重要な問題はないし、誰にとっても「死」だけは避けることの出来ない現実ですから。
その現実の中で、「神なく望みなく、さまよいしわれも」という聖歌の歌詞のとおり、神様も知らず、希望もなく、虚しい心を抱えてさまよっていた私が、イエス・キリストと出会って、神様を誉めたたえる者とされた。それが私に為してくださった神様の奇跡であり、こんな恵みをいただきながら、神様もイエス様も知らないような顔をして、口をつぐんで生きていくことはできない。だから、「福音」を書いて、神様もキリストも知らない人に、聖書の言葉一つでも伝えたいとの願いを込めて送り始めたのでした。
ところがそれから18年、お送りしている方の名簿を見ると、いつの間にか、ほとんどクリスチャンの人ばかり。これではいけない、なぜこんなことになってしまったのだろうと考えました。イエス様が私に望んでおられるのは、まだイエス様を知らない人にイエス様を紹介すること。それは分かるんです。なのになぜ、イエス様を知らない人に書いて送ることを、おろそかにしてしまっているのか。
思い返せば、いくつか理由はあるけれど、やはり私の罪と怠慢に違いない。「あなたのパンを水の上に投げよ」と、すなわち、常識的には無駄だと思えることでも神様を信じて為し続けることを、止めてしまっているのです。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」と、イエス様は言われます。まことにそうです、そのとおりです。
先日の日曜日、マタイ福音書27章27節から、イエス様が「兵士に侮辱される」という箇所を学びました。これは一生忘れてはならない記事だと思ったので、ここに聖書のまま引用します。不当な裁判で、罪がないと分かっていながらむち打たれ、十字架につけるために引き渡されたイエス様。
「それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。」とあります。
イエス様は私たちを救うために、こんな侮辱をも受けられたのです。一言の文句も言われず、怒りも憎しみも恨みも持たれず、ただ黙って耐えられた。読みながら、なぜイエス様の侮辱された様子が、こんなにも事細かに書かれているのだろうかと不思議に思いました。大勢の兵士が見ている前で、着ている物をはぎ取られ、茨で編んだ冠をかぶせられ、葦の棒を持たせられて「王様万歳」とはやしたてられ嘲られ、唾を吐きかけられ、棒で頭をたたき続けられたと。罪無き人にこんなことを平気でする人間の罪深さに打ちのめされた時、ふと気付かされました。もし、人から唾を吐きかけられて悔しい思いをしている人がこの箇所を読んだらどうだろう、そんな経験のない私でも少しは想像することができます。その人は、きっと、このお方なら自分の辛さを分かってくださると信じるでしょう。誰からも人として扱ってもらえず、あざけりと侮辱の中に生きてきた人が、このイエス様を知ったなら、このお方になら自分の苦しみを預けられると思うでしょう。イエス様と一緒に十字架につけられた一人の犯罪人は、十字架の上で自分と同じように苦しんでおられるイエス様にすがって救われました。十字架の上から道を歩いておられるイエス様にすがることはできなかった。自分の横で、自分と同じように苦しまれているイエス様だからこそ、「どうか、このわたしを思い出してください」とすがることができたに違いない。イエス様はすべての人を救うために、すべての人より低いところを歩まれたのだと知らされました。
ああ、そうだった。そうでなければイエス様の命は届かないのだ。イエス様の救いを伝えるのに、自分は正しいような顔をして、お高くとまっていたのでは話にならない。イエス様はこんなに低くなられたのに、そんなイエス様のお心を無にして、心底そのイエス様の御前にひれ伏していない自分がいる。罪のままで自分を正しとしている自分がいる。「十字架をあげつらう者多けれど 担う者無しゴルゴダの丘」という短歌をいつか聞いたことがあるけれど、この私もまた、ほんの少しの十字架も担おうとせず、ただ十字架の効用を論じているにすぎないのだと、思い知らされました。
そうでした。人を救われるのはイエス様、あなたです。あなた御自身です。この私にできることは、「イエス様こそ救い主です。」と、告げ知らせることだけ。それも、その人より低くなって伝えるのでなければ、本当に伝えたことにはならないのですね。なのに、ふと気付くと自分を正しとして傲慢な石の心になっている私。それでも、こんな者をも捨てずに今日まで導いて下さった主イエス様、「ここに命がある」と、「このお方によって、人は死んでも生きるのです」と、どうか伝えさせてください。
イエス様、救いはあなたが十字架の上に成就してくださったのです。もうすでに私たちは、死と滅びの闇の力から救い出され、キリストの愛の中に移し入れられているのです。確かにあなたを信じた日から、何をしたのでもない、ただ信じたときから、真っ暗だった私の心は明るくなり、もうダメだと思うようなときでも、じっとあなたを見上げていると、いつしか新しい力と希望が湧いてくるようになりました。
もし今、希望を無くして、死んでしまいたいと思っている人がいるなら、どうか主イエス様の名を呼んでください。「イエス様、イエス様、助けてください」と呼んでください。御名を呼び続けるなら、必ず救ってくださると、それが主イエス様の御約束ですから。
「聖霊を求める祈り」「ゲッセマネの祈り」「憲法を守る祈り」
(イエスは)弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
ルカ福音書11:5~13
このイエス様のたとえ話を読むと、イエス様が慕わしくてたまらなくなる。イエス様は日々の生活に苦労しながら、友達を思い、わが子の幸いを願う、ごく普通の人に分かるように話されたのだ。
「求めなさい、そうすれば与えられる。」とイエス様は言われる。心のねじ曲がった私たちでも、わが子が苦しんでいればどうにかしてやりたいと思うし、「これが欲しい」と言えば、できるだけその願いをかなえてやりたいと思う。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」とイエス様は言われる。
「聖霊を求める祈り」、確かに私たちの祈りはすべてこの祈りに至る。聖霊とは神様でありイエス様である。宇宙より大きな神様をいただいて不足するものは何一つなく、命さえ捨ててくださるイエス様の愛をいただいて満たされない心はどこにもない。これ以上は考えられない最悪の状況にあっても、聖霊をいただくなら希望を持って生きることができる。真の希望は神様にあるのだから。
「求め続けなさい」「祈り続けなさい」とイエス様は言われる。投げてはならない石を投げてしまう私の罪のために、イエス様の赦しが分からないと嘆き悲しむ友のために、聖霊が与えられるように祈ろう。その祈りを誰よりも待っていてくださるのは、天の父なる神様なのだから。
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わたしたちは羊の群
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。(イザヤ53:6)
イエス様は捕らえられ十字架に付けられる前、ゲッセマネという所で祈られた。悲しみ悶えながら、顔を地につけてひれ伏し「わたしの父よ、できますならば、この杯(人の罪を負うて十字架につくこと)を過ぎ去らせてください。しかしわたしののぞむ通りでなく、あなたがのぞまれる通りになるのがよいのです」。と祈られ、その後も二度、「わたしの父よ、もしこれはわたしが飲まなければ過ぎ去るわけにはいかないものならば、あなたの御心が行われますように」と祈られたと書いてある。
このイエス様の祈りの深さは、私にはとうてい分からない。罪の恐ろしさを誰よりも知っておられるイエス様が、全人類の罪を負うて死なれるのである。想像しようとしても、それも出来ない。でも、イエス様はこのように祈られ、この祈りのとおり十字架について死なれた。その死によって、私の罪が赦されたと信じる。このイエス様の祈りの真実を疑うことはできないから。こんな祈りによって成し遂げられた十字架の力を疑うことはできないから。このキリストの十字架にすがって、救われない人はただの一人もないと信じる。
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キリストの道
この道を行こう
キリストが招いてくださった道
「われに従え」と、今も親しく
呼んでくださる道
この道を行こう
キリストの道は十字架に続く道
人に捨てられ、あざけられ、
卑しめられると書いてある。
それでも恐れることはない。
「わたしがあなたと共にいる」と、
清かな御声の聞こえる道。
主が共にいてくださるなら、
何がなくても 喜びの道。
この道を行こう。
「憲法を守る祈り」 杣友豊市
天の父なる神様、この願いをお聞き下さい。私共(日本)はかつて不当な戦争を起こし、我が国の利益だけを考えて隣国の迷惑など心にとめず、これを侵攻し、兵士ばかりか、おびただしい数の非戦闘員をも残虐の限りを尽くして殺傷し、財宝を破壊しました。(中略) どうぞ、この数々の罪をおゆるし下さい。もし、目には目、歯には歯をもって報復されようものなら、どんなことになりましょうか。ただお赦しを乞うほかありません。二度と、この悪事をなさないため、平和憲法を作りましたが、これこそ天から与えられた崇高なもので、国の命運をかけて守り通さねばならないものと思います。
しかし現在、アクマの謀略は、この宝を取り崩そうと暗躍を続けています。国土を守る者は軍備ではなく、道義であることを神様は、お教え下さいました。「義は国を高くし、罪は民を辱しむ」と。軍備に頼らないで国土を守るには軍備以上の努力を要することと思います。いな神様のお守りによってのみ、その使命に従ってのみ、なし得ることと思います。大波のように押し寄せるアクマの力に対し、主なる神様だけが盾であります。何とを我々を、ひいては隣国をお救い下さい。(1981年5月記)「杣友豊市文集」より。
今月は「命のパン」について
ヨハネによる福音書6章に、イエス様がご自分のことを「わたしは命のパンである。」といわれた記事があります。この箇所を読むと、なるほど当時の権力者、祭司長や律法学者たちがイエス様を殺さずにはおかなかった意味がよく分かります。
イエス様が「空飛ぶ鳥を見なさい。野の花を見なさい。明日のことを思い煩ってはなりません。」「神を愛し、人を愛しなさい」と、よき教えを語っておられるだけならよかったのです。しかし、ご自分のことを「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者(イエス)だけが父を見たのである。」などと語り出して、その言葉に民衆が耳を傾け始めたら、当時の宗教家たちが黙っておられなかったのは当然です。このイエスなる人を神の子と信じるか、それとも抹殺して亡き者にするか、二つに一つです。イエス様の言葉をそのまま信じて従うか、信じられないならば偽り者として十字架につけて殺すか。これは当時の権力者たちだけでなく、ヨハネ6章を真剣に読む時、私たち一人一人がそのことに直面し、問われているのが分かります。
6章22節からの要約を書きます。
ガリラヤ湖畔でご自分のもとに集まった5千人もの人を、5つのパンと2匹の魚をもって満腹にするという「パンの奇跡」を行われた後、イエスは一人で山に退かれました。そのイエスを捜し求めてやって来た人たちに、イエスは言われました。
「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」痛いところを突かれて、でも、そのイエスの言葉に心動かされた彼らは「永遠の命に至る食べ物のために働く」とは、そのような「神の業を行うためには、何をしたらよいのでしょうか」と問います。するとイエスは答えられました。
「神がお遣わしになった者(イエス)を信じること、それが神の業である。」この一言の中に、救いとは何かが啓示されています。この一言によって私たちは「キリスト信仰とは何か」を知るのです。
しかし、人はそう簡単にイエスを信じようとはしません。「私たちが見て信じられるようなしるしを見せよ、かつて、神が荒野にマナ(日毎のパン)を降らせられたように」と迫ります。イエスはその人たちの言葉を受けて人を生かす「命のパン」について、本格的に語り始められました。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」
イエスがご自分のことを「天から降って来たパンである」と言われたとき、身近にイエスを知っている人たちは「これはヨセフの息子のイエスではないか。」とすぐに反発しました。イエスをただの人間と見ている限り、道徳的に高く美しい言葉に耳を傾けることはできても、命の言葉を聴きとることはできません。その人たちに「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」と厳しく言われて、次に「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と話を深めます。「わたしの肉」という現実的な言葉に驚いた人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか。」と激しい議論になりました。すると、人々の白熱した言葉が飛び交う中、イエスは厳かに言われたのです。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
これらの言葉をごく日常の言葉として読むならば「血を飲む」とか「肉を食べる」とか、気持ちが悪いだけかも知れません。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやいて、多くの人がイエスから離れ去ったと記されています。
しかし、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と言われているように、イエスの言葉もまた霊の言葉であることを覚えて、その表面ではなく、そこに込められた真意を汲み取らなくてはなりません。
少しでもイエスに近づくために、心を静めて、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」という言葉にじっと聴き入っていると、そう言われるイエスのお心が迫ってきて感嘆せずにはおられません。「血を飲み、肉を食べる」、それ以上に深い関係があるでしょうか。同じ釜の飯を食べたというだけで、人は親しみを感じます。この人といつも一緒にいたいと願うとき、多くの場合、人は結婚という関係を結びます。でも、どんな関係も、その人の「血を飲み、肉を食べる」というほどの関係は、人間同士では生じません。人は愛する者のためにお金や物、時間や労力、精一杯の気持ちや心を与えて励ましたり慰めたりすることはできても、イエスの言われる肉や血、すなわち命そのものを与えることはできないのです。いや、現代では輸血をすることも、臓器移植もすることができるという人に、イエスは言われます。「命を与えるのは`霊`である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」
ある人はこのイエスの言葉を信じ、ある人は決して信じようとしない。なぜそのように人は分かたれるのか、そのことをイエスは「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」という不思議な言葉で言われています。
目が遮られて、イエスの言葉が分からなかった当時の権力者たちは、イエスは神を汚す者であると断罪し、ついにポンテオピラトの手をかりて十字架につけて殺してしまった。ところが三日の後、イエスは復活されて、ご自分こそ「天から降った生きたパンである」ことを実証され、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」という命の道を開いてくださったのでした。
「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」と言われるイエスの究極の愛の言葉が、私たちの日毎の糧でありますように。
朝目が覚めて、近くの田んぼ道を歩いてきました。霜が降りて、土の道や草も、畑に植えてある野菜も白く、でも雪のような白さではなく、ああこれがよく言う「シモフリ」かと納得しながら、美しい霜降り道を歩きました。東の方を見ると、右が金剛山、左が葛城山、その間が水越峠ですが、葛城山の向こうから太陽が昇ってくるのが分かります。葛城山のバックが金色に輝いていて、息をのむ美しさです。歩いてほんの数分のところに、こんな美しい景色があるなんて。
いえ、昨夜は、数分も歩かないで、数歩歩いてベランダに出て、夜空を仰いだとき、あのなつかしいシリウスの光。私はやっぱり星の光が一番好きなのだとドキドキしながら、オリオン座のリゲルとシリウスをつないで次々に6角形に並ぶ星を見つけ、冬のダイヤモンドに見入りました。遠くに行かなくても、私たちはみんな、こんな美しい世界に包まれているんだと嬉しくなります。
でも、もっと近くに、もっと素晴らしい世界がある。「聖書」は一歩も歩かなくても、手に持って開くだけで、私たちに天の国まで見せてくれるのだから驚きです。黒い表紙の、薄汚れたずっしりと重い聖書、一見すると色も香りもない、喜びも楽しみもない、堅苦しく古臭いもののように見えますが、それがなかなか。この一冊の中に、世界中を旅しても見つからない宝が隠されており、親子、夫婦、恋人、友人の愛をはるかに超える愛があり、今を生きる私たちに永遠の世界を開いて見せて、信仰と希望と愛を与えてくれるのです。
私は物事を大げさに言い過ぎる癖があるようですが(要反省)、聖書のことだけは、その素晴らしさをどんなに言っても言い過ぎということはありません。私が言う千倍も、万倍も素晴らしいことは請け合いです。なぜなら、聖書が山のように高く、海のように深い内容を持っているとして、私はほんの山すそを歩き回り、砂浜で貝殻などを見つけて、それだけでも生きる力と希望が湧いてくるからです。
こんな素晴らしい聖書が、なぜあまり読まれないのか。それはやはり、さっと読んだだけでは分からないからだと思います。人間中心の書物なら人間の知恵や知識だけで分かるでしょうが、聖書は人間の思いを超えた神様からの語りかけですから、聞こうとする者の心の低さと真剣さが問われるようです。新聞や雑誌を読むように、お茶を飲みながら気楽にと言うわけにはいきません。でも、求める者に答えてくださる神様は生きておられます。
求めつつ読み続けるなら、目が開かれて、「聖書の神こそ真の神」、「キリストこそ私の救い主」と告白する日が必ず与えられると信じます。ある時は一人で、ある時は何人かで、ある時は講話を聞いたり参考書を読んだり、でも、自分で聖書を読むのがいつでも基本。
私も分からないながらも、疑問に思ったり、味気なく感じても、それでも聖書を読み続けて良かった。本当に良かった。人にも自分にも、誇ることも語ることも何一つないようなごく平凡な人生で、でも、ほんの少しでも自分で聖書が読めるようになり、聖書の言葉から力を受けることができるようになった。これは何億円の貯金通帳とも比べられない財産だと実感です。
「詩編145編」
今朝は詩編145編を読みました。
わたしの王、神よ、あなたをあがめ
世々限りなく御名をたたえます。
大いなる主、限りなく讃美される主
大きな御業は究めることができません。
昨夜の星空を思い、今朝歩いた美しい白い道を思い、「憐れみある人々」という文書に記されていた、「失望したければ人を見よ。絶望したければ己を見よ。希望を持ちたければ十字架上の主イエス・キリストを見上げよ」という言葉を思い、心の底からアーメン、アーメン(その通りです)と言わずにはおられません。
主は恵みに富み、憐れみ深く
忍耐強く、慈しみに満ちておられます。
主はすべてのものに恵みを与え
造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
ああ、何とうれしい! 神様は、すべてのものに恵みをあたえ、造られたすべてのものを憐れんでくださると。神様が造られたすべてのものを憐れんでおられるのに、この私が「この人は良し、この人はダメ」などと、ゆめゆめ分け隔てしてはならないと、肝に銘じます。
主は倒れようとする人をひとりひとり支え
うずくまっている人を起こしてくださいます。
福音書に描かれている主イエスさまのお姿を思い、胸が熱くなります。
お正月に届いたメールに、「1月1日はルカ福音書5章、イエス様が『らい病を患っている人をいやす』箇所を学びましたが、その礼拝に参加したYさんが、らい病の人たちがいかにつらかったかを学んで、泣きながら感話をしていました。自分も、人々と真に痛み分けができる心を持ちたいと願います。聖書を読むたびに、内容を覚えるのではなく、常に新しい革袋に新しいぶどう酒をいれていただきたいです。生きた信仰が持てるように。」とあって、福音書を読むとは、単に読むのではなく、想像力を働かせて、その事が起こっている場に身を置いて、そこにいる人と同じように感じ取ることが大切なのだと教えられました。
主を呼ぶ人すべてに近くいまし
まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし
主を畏れる人々の望みをかなえ
叫びを聞いていてくださいます。
主は「わたしを呼べ、わたしに向かって叫べ」と今も待っていてくださる。「神さま」「イエスさま」と呼ぶとき、すぐ側にいてくださる。幼い子供のように素直に、この言葉を信じて、主を呼び求め、主がすぐ近くにいてくださるという、何にもまさる喜びを共に味わい知ることができますように。
主を愛する人は主に守られ
主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。
本当に、その通りです、主よ。日々の生活の中で、あなたに逆らってしまうことも多い者ですが、でも、その度にあなたのもとに立ち帰り、立ち帰り、心の限り、力の限り、神を愛し、人を愛し、この新しい年もあなたと共に歩ませてください。
この日本国あなたのもとに立ち帰ることができますように、祈りを合わさせてください。