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イエスに対してなされた美しいこと  99/8

イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。

イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いこと(美しいこと)をしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。

はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコ福音書十四・3〜9)

 この高価な香油を捧げた女性の記事は、少しずつ内容に違いがありますが、四つの福音書にすべて記されています。それはこの出来事の重要性を指し示すものといえます。

 しかもこのような美しい行動をなしたのが、ルカ福音書では、社会的にも非難されるような罪を犯した女であったと記されています。

 この記事の直前には、つぎのような記事があります。

さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。

彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。(十四・1〜2)

 このように、祭司長とか律法学者といった、当時の宗教的指導者たちが、主イエスに対して、反感を抱くという状態にとどまらず、殺そうとまで考えるようになったと記されています。このような殺意と、三節以降のナルド(*)の香油を注いだ女と、さらにその女の行いを非難した弟子たちを含む周りの人たちと、この三者がはっきりとした対照に置かれているのです。

(*)ナルドとは、サンスクリット語(古代インド語)で、 nalada (香りを放つ)という言葉から来ている。ナルドは植物名で、ヒマラヤ原産のもの。オミナエシ科の植物で、その根茎からとれる香油は香りが高く、非常に高価であった。

この女性が主イエスに注いだ香油というのは、三百デナリオン以上の値打ちがあったと記されています。当時の一日の給料が聖書の別の箇所(*)の記述によって一デナリオンほどであったことから、これは、現在の日本でいえば、大体三百万円ほどにもなる大金です。一方では、弱い人たちを救い、すべてを神の愛の御心をもって生きておられたイエスに対して、殺そうとまでするほどの深い憎しみを持つ地位の高い人たち、そして他方では、最も身分の低いような、また汚れたような女性がイエスに示した深い敬意と、あまりにも鋭い対照に驚かされるのです。

(*)「主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。」(マタイ二十・2)

なぜ、この女は、このような高価な香油を持っていたのか、どうしてこの香油を壷の口から注ぎ出すことをせずに、一度に壷を壊してまで、イエスに注ぎ出してしまったのかといったことについては全く記されていません。

 そのような高価なものがあれば、それを売ったら立派な家土地、または人を雇って豊かな生活ができたかもしれないし、女性は当時働くことがたいへんであったから、老後の生活にたくわえておいたらずっと生活の安心ができたはずです。

 しかし、そうしたすべてのことを考えないで、一挙にその高価な香油をイエスに注いでしまったのです。しかも、その香油の一部を主イエスに注いだというのでなく、その石膏の壷を壊してまで一度に注いでしまったとあります。

 これは、常識では考えられないことでした。しかし、自分のことは考えないで、すべてを主イエスに捧げることの美しさがここに示されています。

 私たちの本当の美しさは化粧とか生まれつきでは決してありません。それらは人間の肉的な気持ちを引き寄せることはあっても、そこからは本質的によいものは何も生じないのです。それはただ健康というだけでは、よいものを生み出すことはできず、その健康によって悪いことをするということもたくさんあるのと似ています。世の中の犯罪はほとんどみな健康な人たちによってなさているのであって、病弱でずっと入院している人たちとかではありません。

 この女の行動に対して主イエスは、「(この女は)私によいことをしてくれたのだ」と言われましたが、その「よいこと」というのは、原語(ギリシャ語)では、「美しい(kalos)」という意味を主として持っている言葉が使われています。(*)

(*)この言葉は、思想的方面でみると、ギリシャ語としては、最も重要な言葉の一つで、ギリシャ哲学者の代表的存在であるプラトンは著書のなかでその言葉を驚くほど数多く用いており、外形的な美しさだけでなく、内面的な美、魂の美しさといって意味にも多く用いています。

 なお、新約聖書でもこの言葉は百回ほど用いられていますが、日本語訳聖書では「美しい」という訳語が用いられていないために気付きにくくなっています。しかし、英語聖書では、原語のニュアンスを生かして「美しいこと」と訳してあるのもあります。例えば、アメリカの英語訳聖書として広く知られてきた改訂標準訳(RSV)、また新国際訳(NIV)、モファット訳、フィリップス現代英語訳なども、この箇所の「よいこと」をbeautiful thing(美しいこと) と訳していますし、現代英語訳聖書(TEV)では、 fine and beautiful thing(すばらしく、美しいこと)と強調して訳してあります。

 主イエスへの深い信仰と敬愛の心は、美しい行動を生みだし、それはそのときまだ誰も見抜いていなかった主イエスの死を見抜くことにもつながったといえます。イエスの死は人間すべての罪のためのあがないの死であって、終わりでなく始まりでありました。そのような重要なイエスの死に対する洞察を持つことになったことが強調されています。

 主イエスが殺される直前に、一人の女性によっておきたこの不思議な出来事、高価な香油を注ぐということは、どこで生じたのでしょうか。それは、意外なことに当時から、比較的最近にいたるまで、二千年ちかくもの間、最も恐れられていた病気であったハンセン病(ライ)の人の家であったのです。

 ハンセン病になると、おそるべき肉体の苦しみと変形だけでなく、家族からも周囲の人からも切り放され、宗教的にも汚れたとされあらゆる苦しみや悲しみが襲ってくる病気でした。主イエスは、自分が最期を迎える直前に、そのような闇を象徴する人の家にいたということは、キリストがどんなお方であるかをよくあらわしています。

 また、そのときの主イエスの周囲には、殺そうとまで考えていた、宗教的指導者たちの敵意と憎しみがありました。

 さらに、その女性がきわめて高価な香油を主イエスに捧げたことに対しても、そばにいた人々が、怒って彼女を厳しくとがめたというのです。マタイ福音書によればこの人たちは弟子たちであったと記されています。弟子たちですら、この女の主イエスへの信仰と捧げ物をまったく理解できなかったほどに、主イエスがもうまもなく捕らえられて殺されるということを考えてもいなかったのです。

 しかし、この女だけは、そうした主イエスの間近に迫った死を直感的に見抜き、彼女にとってすべてであったといえる高価な香油をすべて注ぎ尽くしたのです。主イエスの死はそれによって万人の罪を身代わりに担い、信じる人をすべて罪の重荷から解放するというきわめて重要な出来事でした。そのような重大な死ということに、この名も記されていない女性が最も切実な関心を持っていたということなのです。

 祭司長、律法学者たちのイエスへの敵意、そしてライ病人の家、さらに女の主イエスへの献身の心をつよく非難した人々の心、そうした闇のなかにこそ、強い光が輝いたのです。いかに闇が強くてもそのなかにかえって神は、いっそう強い光を輝かせるのです。

 キリスト教の二千年の歴史において、神のため、イエスのための美しいことというのは、数かぎりなく行われてきたのがわかります。

 何が神のための美しいことなのかについて私たちに考えさせることを主イエスは教えています。

 これはつぎの聖書の箇所を思い起こさせるものとなっています。それは、世の終わりのときに、人々を裁かれるときがある、そのときに、ある人々を右において永遠の祝福を受ける者とし、ある人々を左において滅びのなかに入れるという内容です。

そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。

いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ福音書二十五章より)

 世から無視されているような最も小さい者の一人にしたこと、しかもそれを他人に認められるためとか、人に見せるためでなく、それをした本人もそのことを覚えていないほどに自然になされたとき、そのような行いこそ神から祝福されるものであって、それは主イエスに対してしたことと同じなのだと言われています。

 このようなことこそ、神のため、イエスのための美しいことだと言えます。

このことで思い出すのは、マザー・テレサがあるとき、「神様のために何か美しいことを・・」(Now let us do something beautiful for God)と言ったことです。(*)

(*)この言葉は一人のあるイギリスのジャーナリストの心に深く残り、彼はその後この言葉を題名とする本「Something beautiful for God」を出版した。日本語訳の書名は「マザー・テレサ すばらしいことを神さまのために」。

 彼女の関わった多くの仕事は、「神のための何か美しいこと」であったのがわかります。 そして、そのマザー・テレサのさまざまの活動と本質的におなじことが、ここであげた聖書の高価な香油を主イエスのために捧げ尽くした一人の女の行動に表されているのに気付くのです。

 主イエスの言葉として、「私につながっていなさい。そうすればあなた方はゆたかに実を結ぶことができるようになる」というのがあります。

 私たちにとっての高価なもの、大切なものを神のために捧げることができるためには、この主イエスの言葉に言われているように、何よりも神にしっかりと結びついていることだとわかります。そのとき、初めて私たちもそれぞれの置かれた場において、何かを喜んで、神のために捧げ、神のための何か美しいことをなすことができるのだと思われます。
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