詩 水野源三 1999/8
讃美し語りたい
もり上がる入道雲
わき出る泉のごとく
心のあふれる言葉をもって
とどろき渡るかみなり
はげしく落ちる滝のごとく
力のかぎり大きな声をもってまことの御神の愛とみざを
讃美し語りたい
○入道雲やとどろく雷の音に心が引きつけられる人は多いだろう。しかし、そのようなものを見て、それらが神の言葉を語り、讃美したいというその願いを託して見つめるということは、ほとんどだれも考えたことがなかったのではないだろうか。
長い間、寝たきりであって、言葉を語ることすらできなかった、水野源三であったが、神の真理と神の愛を語りたいという切実な願いがいつも胸いっぱいにあったのがこの詩でうかがえる。
かれのその願いはある意味において今日、かなえられている。彼のその入道雲のようにわき上がる神への讃美と神の言葉は、彼が地上からいなくなっても、なお、日本のあちらこちらで語りつがれている。それほどに彼の語る「声」は大きかったのである。それほどに彼の神を語る言葉は泉のようにわき出ているのである。
仰いだ時から
主なるイエスを仰いだときから
行きなれた道にかおる白い花
みどりの林に歌う小鳥さえ
私に知らせる御神の慈愛を
主なるイエスを仰いだときから
見慣れた消えゆく夕ばえなる空
屋根ごしに光る一番星さえ
私に知らせる御神の力を
主なるイエスを仰いだ時から
ききなれた窓をたたく風の音
夜更けの静かに降る雨の音さえ
私に知らせる御神の恵みを
○キリストを知った人が感じるのは、自然というものが、一段と深い意味をもってくるということである。神を信じない人、キリストを受け入れていない人も自然を愛する人はいくらでもいる。
しかし、愛の神を信じ、その神からの励ましや罪の赦しを受けるようになったとき、以前から親しかった自然が、そうした神の愛を表すものとなり、神がその愛でもって語りかけてくるものとなってくる。万能の神を信じないとき、自然も死のかなたにあるものを教えてはくれない。しかし、神を信じるときには、青空や雲、夕日や野草の花などの自然が私たちに死のかなたにある永遠の命を暗示するものともなってくれる。