失敗と成功 1999/11
失敗と成功という言葉はだれでもわかっていると考えているだろう。
大学入試に失敗したといえば、誰でもわかるし、また野球などで、盗塁に成功した、失敗したなどとよく言っているから、子供でもよくわかっている気になっている。こうした単純なことなら、たしかにだれでもよくわかる。
人生で失敗するとは、また成功するとはどんなことだろうか。
事業がうまくいって、有名になったらだれでもそれは成功したというだろう。
しかし、キリスト教の視点からよく考えてみると、そんなに単純なことではないのに気付く。
例えば、主イエスは、神の国の福音を宣べ伝えることをもって生涯の目的とされた。しかし、彼はわずか三年にして捕えられ、十字架にかけて処刑されてしまった。そのとき、わずかな弟子たちすら、裏切って逃げてしまい、民衆は、重罪人より、イエスを殺せと叫んだのであった。
これだけを見ると、イエス・キリストの生涯は完全な失敗であったということになる。たった十二人の弟子たちにすら、最後まで従うことを教えられなかったのだから。
しかし、主イエスの仕事は歴史上のいかなる人の働きよりも、どんな事業よりも、天才の研究とか発見よりも、比較にならない絶大なはたらきを、以後二千年という長い間にわたって続けることになった。そして無数の人々に神の国の福音は受け入れられ、数しれぬ人たちがキリストの弟子となり続けている。
これをみると、主イエスほどその仕事が成功している者はいない。
成功とは、永続であり、失敗とは、ある事柄が壊れ、消えていくことである。
真理に私たちが結びついているとき、私たちは決して、壊れたり、朽ち果てたりする存在ではなくなるがゆえに、自ずから成功する。たとえ生きているときに世間の人がに評価されず、見捨てられることがあろうとも。
真理に結びついているならば、そして私たちが神の国の建設のために働いているならば、神がその働きを続け、その人の死後も別の人にと受け継がせていく。そこには失敗はない。
成功か失敗であるかの鍵は、結果でなく、いかに私たちが永遠の真理に結びついているかということである。