キリスト者の短歌より-2000/11
横山 幸子
○印の文は編者(吉村)の感じたこと。
・人生の何おそるべき嵐をも静め給える主とともにいて
○この歌を見ると、聖歌にある「人生の海の嵐」(四七二番)が思い出されます。私たちを吹き飛ばそうとするような激しい嵐であってもなお、それを静めることができる神を与えられていることの幸いを感謝。
すべてを支配されている主がいないのなら、私たちはたえず恐れて過ごさねばならないはず。自分が他人に押し出されるのではないか、無視されるのではないか、将来どうなるのか、結婚、職業は、病気、事故、そして最後の死などなど。不安と恐れの取りまくただなかで私たちの心を静めてくれるものは、いかなる人生の嵐をも静めて下さる主イエスであり、父なる神のみ。
・骨折をせしはいかなる罪ゆえぞ祈れば聞こゆ「わが愛におれ」
○日々の生活のなかで、私たちはさまざまの不可解なこと、苦しみや痛みに出会う。そのたびに、そしてその苦しみが大きいほど、どうしてこのような苦しみに、痛みに会うのかと叫ばざるをえない。キリスト者なら、そんなとき過去き罪ゆえなのではないか、その罪を知らせるため、その罪の大きさを知らせる警告ではないのか、罰ではないのかという思いが心をよぎる。そんなとき、私たちの心を静めてくれるのは、「わが愛にとどまれ」という主イエスのしずかな語りかけである。
・老いて病む独りの吾を思うとき主はかたわらに立ちてい給う
○どんなに健康そのものであっても、年を重ねるにつれて病身となる人が多数を占めている。家族は遠くに去っていくし、配偶者は死ぬ。そのような孤独な状況にあってなお、いっそうの輝きをもってくるのが、主イエスであり、共にいて下さることを実感してさらに感謝が生まれる。
作者の横山幸子さんは、一九二一年高松市生まれ。一九六〇年キリスト教を信じるようになった。一九八六年から朝日新聞で「香川歌壇」などに投稿を始めた。現在も高松市在住。この歌集を贈呈下さったので、一部を紹介しました。
ことば
(107)最もよい時
最もよい時期として思い出に残るのは、しばしば、それに直面しているときには最も苦しく思われた時期である。
というのは、その時期に、われわれは成長をとげたか、あるいは、その苦しみがなければいつまでも残ったであろう自分の欠点を脱ぎすてたからである。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」下 11月14日)
○だれでも、今まで自分が生きてきた中で最も苦しかったとき、危険であっときを思いだし、そこから導き出された経験を持っている人は、このヒルティの言葉に深い共感を抱くことと思います。
単に楽しかった思い出だけでは、人間は深いところに巣くっている欠点を知ることもできないし、したがってそれから離れることもできないのです。二度とあのようなところは通りたくない、と思えるような苦しみの時、いわば死の蔭の谷、涙の荒野というべきところが実は後から振り返ってみるときには、最大の恵みを受ける場であり、時であったと知らされます。
休憩室
○星と盲人
前月に図で示した土星と木星、そしておうし座のアルデバランという一等星は十月にははっきりとした直角三角形に並んでいましたが、一か月経った十一月下旬には、その形がもう直角三角形ではなく、少し平たい三角形のようになって見えます。
一般の人は、全盲の人は星など関心があるはずがないと思っている人が多いのではないかと思います。
しかし、全盲の方も外に出て、目の見える人に指さしてもらって星を教えてもらうことは、宇宙の広大さに触れる思いがするし、神の天地創造のわざの一端に触れる思いがするので、私たちの集会員にも特別な関心をもって夜空の星のことを見ている方もいます。それは、心の目で星を見つめることができるからです。
○フクロウ
わが家の裏山からは、一カ月か二カ月に一度ほどフクロウの鳴き声が聞こえてきます。じっと耳をすますと夜の闇の中から、静まった山の谷間を越えて響いてくるその声は、私たちを昔の自然ゆたかな時代へと引き戻してくれるようです。
この山には子供の頃からいた、フクロウ。以前は何の声かわからなかったのですが、その声には不思議な印象が残っています。
ずっと昔に夜になると鳴いていたもう一つの鳥はヨタカです。クックックッと夕闇の迫る山の方から聞こえてくるヨタカの鳴き声も、心に特別な印象を残している声です。これは子供のときに親しかったものですが、この鳥はもうかなり以前から耳にすることはできなくなり、他の地域や山に行ったときも含め、長い年月聞いたことはありません。
しかしフクロウは今も時折、その声を響かせては、私の心に、ある波紋を広げてくれるのです。
○別の文で書きましたが、秋は少し里山に入るといろいろの野草、葉の紅葉、草や木の実などに出会います。植物、とくに野草の花は病気の人も健康な人もどこか心に安らぎを与えてくれるものがあります。
ペットをいくら愛好する人でも病院に持っていくわけにはいきません。
その点、植物は単調な入院生活をしている人にも新鮮な何かを感じさせるものがあります。都会はその点ではまことに残念なことに、自然のすがたそのままの野草には出会うことができません。人間の心の荒廃はこうした静かな自然とのふれ合いが断たれていくことにも原因があると思われます。私はそうした都会の人にもせめて、思い浮かべることによってでも、自然の姿に触れてもらいたいと願って、自然ことに野草などの植物にかかわることを書いています。
返舟だより
十一月三日(金)、「祈の友」四国グループ集会が愛媛県南部の北宇和郡の日本キリスト教団岩松教会で行われました。徳島からは二名の参加で、愛媛県を中心として終わり頃に参加された方も含めると十九名が集いました。
祈りは教派とかに関係なくできることですので、近くの人、遠くの人ともに毎日の生活のなかで、祈り合うというただそれだけの集まりですが、祈りによって主といっそう強く結ばれ、遠く離れた人とも新しく主にあってキリストのからだの一員とされるのは幸いなことです。そこに神が共にいて下さって、初めての人、久しぶりの人とも祈りを合わせることが与えられてよき集まりとなりました。愛媛県の「祈の友」、会場の教会の方々に感謝です。
○十一月四日、五日は東京でのキリスト教全国集会(無教会)に参加。今年は、徳島からは三名の参加。その他私たちの集会との関係の深い大阪狭山市の宮田
咲子姉が発題者の一人として参加され、かつて徳島の集会に参加されていて、今は東京在住の看護婦のKさんも参加されていました。
全国集会は、一年に一度の集まりで、だれでも参加できるものです。今年は子供のための日曜学校も併設するという新しい試みもありました。考え方や信仰的な傾向のちがうさまざまの集会からの代表者と話し合いを続けて全国集会を実施するのはたいへんなことだと思います。しかしそうした労苦は主によって用いられていると思われます。私は今回の全国集会においても、初めての方や何年ぶりの方とも会って信仰に関わる交わりを深めることができたこと、感謝です。
○「はこ舟」にはわかりやすい言葉を使うことをいつも心がけています。それは、キリスト教とか聖書に初めての人にも読みやすいようにと考えているからですが、その他にも理由があります。
この「はこ舟」は、他の内容などとともにテープに録音されています。それは、集会員の綱野悦子さん(全盲の方です)が作成している「アシュレー」というテープ雑誌です。これは、視覚障害者を中心として希望の人たちに送付されています。
それと別に、「はこ舟」の内容はインターネットによって送り、視覚障害者(全盲、弱視)の一部の人たちにもパソコンによって朗読させて聞いてもらっています。
その際、音読してわかりにくいような言葉は、それがもし重要な言葉であれば、テープやパソコンを用いて聞いている人にとっては、意味不明になったり、別の意味にとってしまったりするからです。そのためにも、音読してだれでもわかるような言葉を選んでいるわけです。
○徳島聖書キリスト集会のホームページ
私たちの徳島聖書キリスト集会のホームページの内容そのもの選別は私(吉村)が担当し、それらのレイアウト、配色その他ホームページの実際の手数のかかる作成は集会員の数度勝茂兄が担当しています。数度兄は視覚障害者(弱視)でもあり、背景の色、レイアウトなどはわかりにくいところもあるので、必要なときには何種類かの案を送付してもらった上で、それらをもとに変えたり、追加してもらうなどしながら作られています。
徳島聖書キリスト集会のホームページのアドレスは次の通りです。
なお、以前の「はこ舟」の封筒に印刷してあったアドレスが次のように変わっていますのでご注意下さい。
http://pistis.jp/
http://pistis.jp/textbox/default.htm
ホームページの用い方はさまざまと思いますが、先日、次のようなメールが送られてきました。
ずっと 貴ホームページを拝見しています・・
実は、 毎朝オフィスに誰もいない時間に着き、まず私の部屋(個室があるので)で貴ホームページを開き、賛美歌を一曲 聴くのです。一日の働きを祈りをもってはじめるのに 最善の助けとさせていただいています。
インターネットにはこんな使い方(効能)もあるわけです。クリスチャンにはインターネットに消極的なことを言われる方が多いようですが、新しいものに前向きに取り組むことも必要だと考えています。
良い賛美歌を作られる方がおられるのですね。
愛聴者がいる、とお伝え下さい。賛美歌を追加する、とありますが、それも楽しみに待っています。(九州の方より)
○杣友豊市文集のこと
去年発行した杣友(そまとも)豊市文集を最近になって読み始めた方からの来信です。
・(いろいろと事情があり)・・やっと杣友先生の文集を読むときが与えられ、朝の雑念が入らないうちに日課としている内村鑑三の「一日一生」と「はこ舟」とともに少しずつ読み進んでいます。短い文章のなかに、光るように真理がこめられ、純粋な信仰に打たれております。さっと読み進むのはもったいなく、噛むように少しづつ読み味わわせて頂いております。今、「永遠の生命を求めて」の文を読み終えたところですが、すばらしい回心、新生で感動しましまた。(中部地方の読者より)
・先日お送り下さいました杣友兄の文章、まことに有り難く拝読さしてもらっています。伝道の書、イザヤ書、エレミヤ書など分かりやすく、要点がすばらしく書かれていて大事に読ませてもらいます。妻にも日曜日に話して聞かせます。礼拝のときにもイザヤ、五十二~五十三章はくわしく学んだ所でしたので手に取るように読みました。(中国地方の読者より)
○前号にダンテの「神曲」のことに触れましたが、読者の方からの来信です。
・若干のグループに加わっていてそこで、ダンテ「神曲」を学んでいて、今は、「煉獄編」の後半です。また、中村勝巳「近代文化の構造・キリスト教と近代」(講談社学術文庫)も読んでいます。これはぜひ皆様が読むべき本ですね。全体の進路と様子がわかるからです。また、矢内原忠雄の「嘉信」旧号も少しづつ読んでいます。(関東地方の読者から)
・ダンテの神曲は一度は読まなくちゃと思っていたのに、今まで果たせませんでした。けれどこの際、果たそうと思います。全く今までなまけてきたことを感じます。今回聖書に触れるようになりましたのも、偶然ではなかったように思います。・・何となく生まれ変わったような感じがするのは本当です。(最近聖書を読むようになった方から)
・ダンテの神曲は深い内容が込められているといっても、やはり注解書がなければその内容は十分にはわからないものです。私たちの集会の読書会では十年ほどをかけて、神曲を終えましたが、そのときに私が用いたのは、矢内原忠雄の土曜学校講義の「神曲」講義、生田長江訳や、河出書房からの口語訳、それに寿岳文章訳「神曲」など種々の日本語訳に付けられている注釈を参照して教えられました。
なお、海外のものでは、発行されている多くの注解書のうちで、とくに「DANTE The Divine Comedy 3Vols (OXFORD UNIVERSITY PRESS)」という三巻の注解書や「La Divina Commedia Annotated by C.H.Grandgent(Harvard University Press)」、「The Divine Comedy (Modern Library College Edition)」などの各歌のはじめに書かれてある簡潔な注解などがとくに有益でした。英語が読める人はこうした外国の注解書を求めて参考にすることができます。
徳島聖書キリスト集会集会案内
・場所は、徳島市バス中吉野町4丁目下車徒歩四分。
(一)主日(日曜日)礼拝 毎日曜午前十時三十分から。
(二)夕拝 毎火曜夜七時三十分から(旧約聖書を学んでいます)
・なお、毎月最後の火曜日の夕拝は移動夕拝で毎月場所が変わります。
(現在の移動夕拝は、板野郡藍住町、徳島市川内町、麻植郡山川町、徳島市国府町の四箇所を移動しています。)
☆その他、土曜日の午後二時からの手話と聖書の会、日曜学校(日曜日の午前九時半から)が集会場にて。
また家庭集会は、海部郡海南町、板野郡北島町、徳島市国府町(「いのちのさと」作業所)、板野郡藍住町、徳島市住吉、鳴門市などで行われています。
また祈祷会が月二回あります。問い合わせは下記へ。
・代表者(吉村)宅電話(FAX) 08853-2-3017