ことば 2002/8
(今回は、去る八月に京都桂坂で行われた、無教会のキリスト教合同集会において、一部の人たちと読んだテキストから選びました。いずれも内村鑑三の「聖書之研究」の巻頭言からです。)
(136)信仰の道
信仰は第一に誠実、第二に信頼、第三に実行である。
これら三者のうち、どの一つを欠いてもその信仰は、本当の信仰ではなくなる。人は信仰によりて救わるというのは、このような信仰によりて救われるという意味なのである。このほか別のかたちの信仰や救いがあるのではない。信仰の道というのは、大空に輝く太陽のように明らかである。(一九〇八年六月)
・神に対して真実な心をもつこと、そして自分の抱えている問題や悩みを神に信頼して委ねていくこと、さらに聞き取った神の言葉、神のご意志に従って日々を歩んでいくこと、これらの三つが確かにキリスト信仰の基本姿勢となっている。
(137)逆境の感謝
逆境を嘆くことをやめよ、この曲がった世にあっては順境こそむしろ嘆くべきものである。我ら世に逆らって立った者にとっては、逆境は我らのあらかじめ予想したところである。我らはかえってこれを歓び、昔のキリスト信徒とともに「イエスの名のために辱め(はずかしめ)を受くるに足る者とされたことを喜び」て神に感謝すべきである。使徒行伝五章四十一節。(一九〇八年十月)
・キリストは世に逆らって生きていかれた。それゆえにわずか三年で捕らわれ、十字架刑に処せられた。私たちもそのようなキリストに従う限りは、この世では評価されず、また程度の多少はあれ、キリストの御名のために苦しまねばならないことは当然のことなのだ。
(138)完全なるこの世
この世は不完全きわまる世であると人はいう。確かに自分の快楽を得ようとするためには実に不完全きわまる世である。しかし神を知るためには、そして(神の)愛を行うためには、私はこれよりも完全なる世について考えることができない。
忍耐を鍛錬しようと、寛容を増そうとして、そして愛をその極致において味わおうとして、この世は最も完全な世である。私は遊ぶ所としてこの世を見ない。鍛錬場としてこれを理解している。ゆえにこの世が不完全であるのを見ても驚くことはしない。ひとえにこれによりて私の霊性を完成しようと考える。(一九〇九年二月)
・この世は悪がひどく力を持って働いている。どこに神がいるのかという疑問はしばしば聞いてきた。しかし、自分が神からの罪の赦しを受けて、苦しみや悲しみのときに励ましを受けて新しい力を受けるときには、確かに神はおられるというのを確信するようになる。また、ひとたび主と結びつけられるとき、少しながらも、神から頂いた愛を行っていくことができるようになり、そのとき、この世は愛という最も重要なものを行う機会で満ちているのだとわかる。このことについて、興味深いことにヒルティもほとんど同様なことを書いている。
(139)ひとたび完全に愛の国に入ってしまったら、この世はどんなに不完全であっても、美しくかつ豊かなものとなる。なぜなら、この世はいたるところ愛の機会にみちているからだ。(ヒルティ 眠れぬ夜のために上 十月七日)
・自分が愛してもらおうと思ったり、楽しもうと思うとこの世は妨げに満ちている。しかしひとたび、神からの愛を頂き、それをこの世で用いようとするときには、至る所でそうした機会に満ちていることに気付く。最も重要なよきものを生かして使うことが至る所にあるという点では、この世は不思議なほどによく創造されているのがわかる。
(140)私が理想の人
善き人は必ずしも私の理想の人ではない。わが理想の人は勇者であることが必要である。真理と正義のために情と闘い、慾と闘い、友と闘い、家と闘い、国と闘い、世と闘う者であることが必要である。私は自分のをもって多くの善き人を見た。しかし勇者を見たことはきわめて稀だ。私は完全なる人を求めない。厳しい戦士を求める。
私の理想の人は、世と相対してひとり陣を張る者である、終生の孤立に堪えることができる者である。
・やさしい人、知識を多く持っている人、能力のある人、いろいろと神は用いられる。けれども、内村が理想とするのは、「戦う人」であった。キリストはやさしい人、奇跡をする力のある人、旧約聖書に通じた知識にも豊富な人であった。しかし世が重んじている権力者や指導者などをも全く意に介せず、神の真理のみを語り続けた。いかに敵対する人がいようとも、それに決してひるむことなく勇気を持って語り続けたお方であった。
(141)庭園の奇蹟
過去の奇蹟についての議論は教会に譲ってよい。私には他の奇蹟がある。ガリラヤ湖畔においてではない。私の家の狭い庭園において大なる奇蹟は行われつつある。
黒い土から野百合は白き花びらを織り出し、ダリヤは赤い衣裳を紡ぐ。ビヨウヤナギは黄金色に輝き、ナデシコに紅白が織りなされる。神は私の庭園におられるのである。私は教えてもらうための教師を要せず、花の間を歩き巡って直ちに神に教えられる。(一九〇九年七月)
・自然に親しむこと、日常出会う自然を見つめるとき、そこに尽きることのない、神のわざに触れる思いがする。ことに日本はこの点では、四季折々に樹木や草花はつぎつぎと異なる姿を見せ、山々も緑一色から紅葉の季節、冬枯れ、そして雪景色などじつに多種多様である。
こうした自然のたたずまいに触れて、その繊細さや美しさを味わうだけでなく、その背後の創造主たる神の御心にふれ、神の万能と広大無辺に触れる窓口となる。