ことば 2002/9
(142)人間がその身体で、善と真とを健康に益あるものとして感じ、反対に悪や偽りや不純を、それがたとえどんなに快いかたちをしていても、気づまりや不健康なものとして感じるようになったとき初めて、その人はまさにあるべき通りの人間に、また最良の場合にありうる通りの人間になったのである。
それまでは、どんな立派な原則に従って生きようとも、いぜんとして悪の影響のもとにあるのだ。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」 第一部 四月十七日の項より)
・このように、心とからだ全体で、善きものや真実なものを心惹かれるものとして感じるとき、たしかに悪をも直感的に嫌悪を感じて退けることができると思われます。そしてこのためには、そのような善きものの根源である存在(キリスト)が私たちのうちに住んでくださることがぜひとも必要なのです。
(143)始めることを忘れなければ、人は老いません。七十五歳を過ぎてこそ始める必要があるのです。…
志(こころざし)は高く、暮らしは簡素に。
生活習慣の大切さに早くから配慮した人の人生は実りも大きく、侮った人の人生はむなしいものになるでしょうね。(「朝日新聞」二〇〇二年二月二五日」より日野原
重明氏の言葉)なお、日野原氏は九〇歳、聖路加国際病院の理事長など六つの財団のトップを務めている。現在も医者として診察を続けており、この朝日新聞の記事も、移動の車中でようやく実現したとのことです。現在も国内各地だけでなく、外国にもしばしば講演に出かけている。聖路加とは、ルカ福音書を書いた、聖ルカのこと。
・老年になっても新しいこと、良きことを始めるには、内にそのようにうながすものをもっていなければそうした心は生じません。そのようなものがなければ、もし初めても永続できないと思われます。死が近づいてもなお、日々新しくする力を持って、新しい心を与えるもの、それは死を克服されたキリスト以外にないと信じます。
「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する。」(コロサイの信徒への手紙三・10)
この「新しい人」とは、いまも生きて働くキリストであり、聖霊を日々受けることを意味しています。
(144)伝道と十字架
伝道は人を救うことである、救いのためには、犠牲は不可欠である、犠牲がなくして救いはない、救いにつながらない伝道は伝道でない。伝道は単なる説教ではない、また著述ではない。
伝道はひとのために、あるいは人に代って苦しむことである。
十字架を負うてキリストの後に従うとは、ただに自分に臨んだ艱難に耐えることではない、ひとに代ってその罪を担うことである。
伝道は十字架である、犠牲をもって人を救ぅことである。(「聖書之研究 一九一三年四月号」)
・最大の救いを人類に与えて下さったキリストは、全くの無実であるにもかかわらず、最大の犯罪人として十字架で釘付けられたことを思います。私自身は、一冊の本でキリスト教信仰を与えられましたが、その背後にそれを書いた著者が信仰によって多くの苦しみを担って来られたことを後で知らされました。キリストの福音が伝わる背後には、つねに誰かがどこかで苦しんだ跡が刻まれています。