神の言葉 2002/10
私たちが最も必要としている言葉は、人間の言葉でない。人間を越えた存在から語りかけられる言葉である。だれでも高い山に歩けば心がすがすがしい気持ちになる。眼前に広がる海の雄大な波音を前にしても心は清められるような感じがする。
それはそれらの自然を通して、その自然を創造した神からの私たちへの言葉が伝わってくるからである。山々の力強い連なりや、渓流の水の流れや、野草や木々のたたずまい、波音も、風の音、真っ白な波の寄せる姿や、青い海原や大空、白い雲などもみな、一種の神からの言葉だからである。
しかし、神の言葉は決してそれだけでない。私たちの理性によって理解できる神の言葉がある。
「心に何も高ぶりとか誇るものをもたない人たち、
すなわち心の貧しい者、悲しむ者が幸いだ。
その悲しみのなかから神を仰ぐときには、
神によって力づけられ、慰められる。
その人たちには、神の国が与えられるのだから」(マタイ福音書五より)
このような言葉は、風の音をいくら聞いていても与えられることはない。私は台風の近づいている風の強い日には、しばしば裏の山に登る。そこで聞き取る木々の風音はからだ全体に力が注がれるような不思議な感動を与えられることが多いからである。
にもかかわらず、さきほどのような真の幸いについての言葉とか、罪の赦しが十字架のキリストを仰ぐことによって与えられるといった経験は、そうした自然との交わりだけでは与えられない。それには、やはり理性で受け止める言葉によって語られなければならないのである。
聖書はそのためにある。聖書を詳しく、深く学ぶにつれてそれは世のあらゆるベストセラーとかマスコミなどで話題になる人物の言葉と全く異なる内容を持っているのに気付かされていく。学ばないときには、わからない。浅い理解のままになる。
確かに聖書は単に信ずべき書物にとどまらず、学ぶべき書物なのである。そこから泉のように真理が私たちの心に届いてくる。そのように聖書の言葉の意味の深さを学ぶとき、自然のさまざまの風物から与えられる神の言葉もいっそう私たちの心に深く入ってくる。
そうしてそれがまた、書かれた神の言葉である聖書の意味をいっそう深めるということになり、聖書と自然はたがいに働き合って神の言葉をより深く知らせてくれるのである。