心の平和と社会的平和 2002/11
だれでも社会的な平和を望む。戦争が生じたらあらゆる悪がつぎつぎと生じていく。大量殺人はその最たるものであり、家庭の破壊、人間を障害者にして生涯にわたって苦しめる、略奪、人権無視、差別、支配、自然の破壊…、戦争とは最も悪いことであるはずの人を殺すということを国家が肯定し、それを讃美するところまでいってしまうことであるから、当然であろう。
だからこそ、戦争をしてはならない、戦争はどんな性質のものであっても始めるべきものではない。キリスト者の戦いは武力によるものでなく、目には見えない霊的な戦いであると聖書には明確に記されている。
しかし、他方で戦争がなかったらそれで人間はよくなるのかといえば現在の日本を見てもわかるように、決してそうは簡単にはいかないのである。太平洋戦争が終わって五十年以上が過ぎ去った。そしてその間、日本は他国に戦争をしかけることもなく、平和が続いている。
それで、日本人の心は本当によくなっているだろうか。多くの人はそうは思わないだろう。
人間の心がよくなるためには、単に戦争をしないというだけでは十分でないのである。人間のからだも、病気になることなどだれも願っていない。できるだけ健康でいたいというのは万人の願いである。しかし健康であっても心はよくなるとは限らない。かえって、冷たい心、傲慢な心、不真実な心など、からだの健康な人にもいくらでも見られる。そして病気がちの人やからだの障害をもって苦しい生活をしている人のほうが、最も大切な他者の苦しみに敏感に感じたり、その苦しみへの配慮を持っていることも多い。
それは戦争があってもなくても、また健康であってもなくても関わりなく存在する人間の一番深いところの問題であり、真実なものに従えない心の弱さ、自分中心に考えてしまう醜さ、他者を愛することができないということ、キリスト教でいう罪というものが除かれないかぎり、人間の問題は解決しないのである。
社会的に平和のときにも、苦しみのとき、例えば自然の災害や飢饉、戦争のときであっても、地上のものでない心の平和を与える道をキリストは過去二千年の間、指し示してこられた。
それが「主の平和(平安)」である。
キリストによる罪の赦しをうけ、キリストの愛を感じ、この主の平和を少しでも味わうときには、これこそが永遠の真理だと確信させる力を持っている。私たちはまず、そうした主の平安を与えられてから、職業におけるはたらきや、社会的な平和運動など、それぞれが置かれている場で力を注ぐことが求められている。