はこ舟 2003年2月号
内容・もくじ
祈りをもって見る
愛が冷える
私たちを担って下さる神
イエスのまなざし
主があなたの永遠の光となり
ことば
休憩室
返舟だより
祈りをもって見る 2003/2
ある方からかなり長い文を頂いた。そこには興味深いことも書かれていた。しかし、なにかが流れていない感じがあった。それはそこに祈りの心がないからだと気付いた。祈りなき心は自分や人間しかみることができない。そこには人間の感情や意図しかなく、狭さがあるばかりで、清い世界がない。彼方の永遠の世界に向かって流れているものがない。
人間はみな小さいものであり、何かにいつもつまずいている存在であっても、祈りを知らされているときにはその人からどこか永遠につながるものを感じる。祈りとは遠くを見つめるまなざしである。大空や山のさまざまのもの、草木など自然の世界はその永遠につながっている実態をまのあたりに見せてくれている。私たち自身が狭く限定された存在であっても、私たちの魂が無限の世界である神を見つめるとき、その魂には永遠的な何かが与えられる。
人を見るときでも、祈りなくば、好きか嫌いか、傾倒するか、見下すか、もしくは無関心かといった心で見ることになる。しかし、祈りの心があれば、そうした感情のいずれでもないところから見つめることができる。それは使徒パウロが繰り返し語っている、「主にあって」見つめることである。主イエスの心を頂いて見つめるとき、どんな人にも好きとか嫌いとかでなく、また無関心でもない心で対するようにと導かれていく。そのときにはみんな罪をもった弱い人間だということが見えてくる。
神を信じないとき、理性的存在としては人間しかいないことになり、人間だけを見つめることになる。そうなると人間には、じつに大きな差があるというのが見えてくる。ある人は素晴らしい能力や力を持っているが、別の人は、見るも無惨な生き方をしていたり、何一つ仕事もできないほどに体も弱いとか能力もない、というように見えてしまう。そして自分が何とか上になりたいというような欲求が伴ってくる。
しかしキリストの父なる神をいまも生きておられると信じるときには、その無限の愛や真実、広大さ、万能の力などの前には、どんな人間の力も無に等しいほどのわずかなものでしかないし、その力や能力すらも、神がその人にある期間委ねているにすぎない。それは死によって、すべて失われる。
大空や星たち、山の渓流のせせらぎの音、風の音、野草や樹木たち、それらが私たちの心を広げ、深めてくれるのは、それらが祈らずして神と結びついているからだ。
私たちもたえず祈りによって神を仰ぎ、神と交わりつつ生きるとき、この小さな存在から広がり、永遠の御国へと流れていく存在と変えられていく。
わたしたちはみな、…主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。(Ⅱコリント三・18)