海と風を静める 2003/11
聖書において、海というのは特別な意味をもっている。
新約聖書で、「海」と訳されている原語は、サラッサ(thalassa)というが、これは、一般的な海を表す言葉であるが、地中海や、紅海をも指すこともある。また、広大な水のひろがりをも意味するので、湖にも用いられる。
海であっても大きな湖にしても、嵐が生じて波が激しくなると船も人をも呑み込んでしまう。ひとたびそれに呑み込まれるならば、二度と帰って来ないのがほとんどで、どこまで深いのか昔は全く分からなかったし、深い海の底は真っ暗な闇が包んでいるということから、海はラハブという悪魔的なものが住んでいると思われていた。旧約聖書で、次のような箇所は、それを示している。
…あなたは海の荒れるのを治め、その波の起るとき、これを静められる。
あなたご自身が、ラハブ(*)を殺された者のように打ち砕き、あなたの敵を力ある御腕によって散らされた。(詩編八九・10)
(*)ラハブとは、古代の神話に出てくる海に住む怪獣で、神に敵対する悪の力の象徴として言われている。
また、黙示録では、「私はまた、一匹の獣が海の中から上ってくるのを見た。…頭には神を冒涜(ぼうとく)するさまざまの名が記されていた。…竜(サタン)はこの獣に自分の力と王座と権威を与えた…」とあって、海に悪魔的なものが住んでいることが暗示されている。そして黙示録においては、つぎのように記されている。
…わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。(黙示録二十一・1)
このように、特に海も存在しなくなっていると記されていて、ここにもサタン的なものの住む海が新しい天と地には存在しないことが示されている。
海の持つ力、それは人間を捕らえ、闇に引き込んで滅ぼしてしまう力の象徴である。そうした闇の力に打ち勝つのが、神であるということは、すでに引用した箇所が示している。
…あなたは海の荒れるのを治め、その波の起るとき、これを静められる。(詩編八九・9)
これは、単に自然現象としての海の荒れた状態を静めるということにとどまらず、海の荒れた状況は、そのままサタン的な力を表していて、それをも神は支配し、静めることができるということである。
そしてこのような、神の力を全面的に受けてこの世に来られたのが主イエスであった。
それゆえ、主イエスもこの詩編の引用文にあるように、海で象徴される闇の力、悪の力を支配するお方であることが記されている。つぎの箇所はそうした例である。
…その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
イエスは起き上がって、風を叱り、海に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や海さえも従うではないか」と互いに言った。(マルコ福音書四・35~40)
主イエスが共にいても、嵐は生じる。突然に突風は吹いてくる。これは、当時のキリスト者たちの実際の経験であった。このような嵐で激しい波が生じ、かつ風に吹きあおられて、弟子たちも大声で叫び、慌てふためいている。
すべての弟子たちが、はげしい波に襲われて、舟が転覆して、今にも死ぬかもしれないという動転した気持ちになっているのに、主イエスはなんと眠り続けていたという。これは私たちなら、眠り続けるなど到底考えられない状況である。
これは、荒海にたとえられるこの世において、まさに沈んでしまおうとするほどに、困難な状況を示している。そして弟子たちは必死で主イエスに助けを求めて叫んでもイエスは眠っている。
このことは、現実のキリスト者たちの置かれた状況をよく表している。この福音書が書かれた時代にすでにキリスト者たちは厳しい迫害を受ける状況となっていた。その困難は、激しい突風が起こり、船は波をかぶって水浸しになり、波にのまれそうになった状況にたとえられる。そして弟子たちは「主よ、助けて下さい。舟が沈んでしまう!」との叫びをあげる。そうした追いつめられたなかで、必死に助けを求めるとき、主がようやく起き上がって、彼らを脅かしていた、風と海を叱った。するとたちまち静まったという。
ここに、キリスト者たちを襲ってくるさまざまの迫害の嵐や心の激しい動揺の嵐において、必死で主に助けを求めて叫ぶときに、主イエスの力が働いて、悪の力が退けられ、そこに大いなる平安が訪れたことを暗示している。
また、もう一つの海の力と弟子たちの動揺に関する記事がある。
それは、「海(湖)の上を歩く」として知られている。
夜が明ける頃、イエスは海(湖)の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。…イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。(マタイ福音書十四・25~32より)
ここにも、海の力を支配し、その上を歩くイエスの姿がある。世の中に働く悪の力がいかに大きくとも、その上を歩まれるのが主イエスなのであり、それゆえ、弟子たちももし主イエスに従って、ただ主イエスのみを見つめていくなら、この世の力に引き込まれて沈むことなく歩むことができるということなのである。
また、この世は海のように、サタンが支配しているようにみえる。そしてどんなに叫んでも神は何も助けてくれないというようにも見える。しかし、ひと度神の力が発揮されるならば、荒れ狂う海の力はただちに治められるということである。
海とは、イザヤ書や詩編などに見られるように、聖書の民にとって、また広く世界的にも恐ろしいもの、底知れないもの、闇などといったものを象徴的に現すものとみなされていた。
そしてこの世が、動揺し混乱に陥るのは、そうした悪が働いている業であるとの見方がある。しかし、神は、そのような闇の力、混乱を起こし、この世を悪の支配に呑み込もうとする力を、打ち砕き、静めることができるという確信がここにある。
新約聖書の主イエスが、波を静め、吹きすさぶ嵐をとどめる力があるのは、このような旧約聖書の預言の完全な成就者であるということが示されているのである。
この世とは、海に象徴される、サタンが働いているところである。そこから私たちを揺り動かし滅ぼしてしまおうとする力がある。じっさい、マタイ福音書では、嵐と訳された言葉は,セイスモスと言って、もともとは、セイオー(揺れ動かす)という言葉の変化形なのである。この世はたえず揺れ動かすものに満ちている。そのただなかで、イエスはまったく沈黙して、眠っているかのごとくである。しかし、それは決して私たちを放置して、滅びにまかせるためではない。
マルコ福音書五章において、主イエスは一人の人間と出会った。その人は、精神的には極限状態に追い詰められていた人であった。その人とは、
この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。(マルコ福音書五・3~5)
これを見てもいかにこの人が驚くべき悲惨な状況にあったかがわかる。
心の働きが全く破壊されていて、自分で自分を打ちたたき、足枷でつながれ、鎖で自由を奪われてもなお、それを断ち切ってしまうほどの異状な力をもっていた。しかしその力は悪から来ていたので、どんな人もこの人を静めることができなかった。そのような人でも、かろうじて生きていたのは、誰かがこの人に水や食物を与えていたからであったろう。それはおそらくは親であったと考えられる。そのような異状な状況に置かれてしまった人間を親以外には誰も継続的に面倒をみることはしなくなるだろうからである。
このような生きていてももはや死んだような人間、それゆえにこの人は墓場を住まいとしていたと書かれているが、そうした人間に主イエスは真正面から立ち向かわれた。
そしてそうした恐るべき状況になっていた人が驚くべきことに、主イエスに対して、「神の子」と言っていることである。神の子というのは、単に神が創造したというのでなく、神と同質であるということである。それは弟子たちですら、なかなかわからなくて、嵐や海を静める御方だと分かってもなお、「一体、この御方はどういうお方なのか?」(マルコ四・41)と驚きと疑問の声を発したほどである。
そしてもっと後になって、主イエスが、私のことを何と思うか、預言者エリヤとかヨハネの生まれ変わりだとか言っているが、あなた方は何と思うか、との問いに対して、ペテロが「あなたこそは、神の子です。」と言ったとき、それは、人間の知恵や考えではそのことはわからない。父なる神の直接の啓示によって、そのことが示されたからわかったのだ。と言われたことがある。
そのように弟子たちですら、主イエスのいろいろの奇跡や力を見て、またその教えを知って、ようやくイエスが神の子であると知ったほどであるのに、この心の病にとりつかれていた人は、一見してただちに主イエスを、神の子だと見抜いたのである。このように、サタンは独特の鋭さをもって神の世界のことを見抜く。そして見抜いたうえで、その力を振るおうとするのである。
しかし、ここでは、悪の霊は主イエスの力に恐れをなして、どうか豚の中に逃がしてくれと頼んだ。主イエスがそれを聞いて許可すると、悪の霊は一斉に豚の中に入り込んで、海になだれ込んだ。これは不可解な記事であるが、ここで言われているのは、悪の霊が退けられてサタンのいる場である、海に戻されたということである。
そしてその悪の霊が追い出されたとき、その人は、それまでとはまったく打って変わって見違えるようになった。かつての混乱と激しい異常行動、叫び、わめくような行動がすべてなくなった。そして静まった。
これは主イエスの驚くべき力であった。主イエスは、いかなる混乱や闇の力をも静める力がある。人間の手では回復はあり得ないという絶望的状況にあってもなお、そのただなかに力を注ぎ、そうした悪を支配している力をとどめ、退け、静める力がある。
そのようにして与えられた、静けさこそ主の平安である。これこそ、主イエスが最後の夜に、弟子たちに約束したことであった。
現代の世界も、外においても、内においても大いなる混乱が満ちている。若い人たちの心にも、至るところに悪がはびこり、混乱が満ちている。そうした悪の力を静めるのは主イエスの力であり、主イエスの言葉であり、主イエスの御手による他はない。そしてその御手の働きを心から待ち望む者には、必ず主の平安が与えられる。
そこから私たちの本当の人生が始まる。