渇きを満たすもの 詩編四十二編 2003/11
この詩は、詩編の第二巻の最初に置かれている詩である。なぜこれが最初に置かれているのか、そのことを考えるときに、その前の四十一編の終わりの言葉は、第一巻の最後の言葉ともなっているが、「主をたたえよ、代々とこしえに。」という言葉で終わっていることに気付かされる。
こうした締めくくりの讃美の後に、この四十二編がある。その最初に置くべき讃美はどのようなものであるべきか、祈りと熟慮の上でこのように配置されたと考えられる。
詩編の第一巻の最初の第一編の内容が、詩編全体の要約と考えられるものが置かれているように、詩編の第二巻の最初にも冒頭に置かれた意味がある。
涸(か)れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。…
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。(詩編四十二・1~6より)
ここでは、まずこの詩の作者の強い渇き、神への渇きの思いが記されている。この詩の作者は、今から二千数百年以上昔の人であると考えられている。そのようなはるかな古代に生きた人間の魂の最も奥深い部分がこの詩に現れている。この詩の私たちへの意義は、単に、そうした古代の人間の心の状況を知るためだけでは決してない。この作者の経験した苦しみや叫び、そしてそのただなかでの神への飢え渇きこそは、神が背後におられて導かれたことを示している。そこに神のご計画があり、この詩は神の深いご意志が表されているゆえに、こうした詩が人間の詩であるにもかかわらず、神の言葉として旧約聖書に収められているのである。
鹿が谷川の水を求めるというのは、日本とこの聖書が書かれたユダ地方では全く状況が異なっている。日本のような雨の豊かな、至る所で谷川のあるところでは、鹿は必死になって飢え渇くということがない。それゆえ、私たちはパレスチナの状況をまず心に留めておかねば、この箇所にある鹿がいかに必死で水を求めているかを思いみることもできない。
それは命懸けである。広大な領域において、わずかに水が出ているところは数えるほどしかない。木一本もない乾燥した地方で、水がなかったらそのまま直ちに死につながる。ここで水を求めるというのは、死か命か、という二者択一なのである。
人は何を求めているだろうか、人間は、何かに飢え渇いている。それは幼い頃は、母親の愛である。友人の友情である。また認められることである。そして、人間だけでなく、動物にも共通なという意味で最も根源的なのは、本能にかかわる食物や、性に関わる飢え渇きであろう。
私の高校時代を考えてみると、それは成績をあげることに飢え渇いていた。また、スポーツの選手とか企業、政治家などもみんな成績を上げることに飢え渇いている。その度合いがひどくなると、争いとなる。奪い合いとなる。他人の持ち物を奪い、不正な方法によって金を得ようとしたり、他人の配偶者を奪っていこうとする。
また、動物として最も強力な飢え渇きは本能にかかわるものであり、食物と性に関わる飢え渇きはそれを求めて激しい戦いとなることがある。それは、社会的、国際的なレベルとなると、戦争となる。かつての日本は「満蒙(満州と蒙古)は日本の生命線」などといって、他国の領土を飢え渇くように求めて
、その結果、戦争を中国にしかけて太平洋戦争となっていった。
また、現在の深刻な問題の一つは、男女の性にかかわる飢え渇きが不正な方法で満たそうとされていることである。そのために、本来新しいいのちが生まれるという深い意味のある、性ということが、一時の性に対する飢え渇きを満たすために用いられ、それが、人工妊娠中絶という形で胎内の赤ちゃんの命を奪う事態となっている。
十一月に行われた無教会のキリスト教全国集会において、ある産婦人科医が告白したように、ある時期までに、勤務医として、つぎつぎと、堕胎を担当させられて、そのことに耐えられなくなって、スタッフに集まってもらって、祈った。そしてその後は、そうしたことを一切しないようになったという。現在はその医者はキリスト教の病院に勤務している。しかしそれまでに、一千もの胎児の命を奪ってきたという。一人の産婦人科医でもこのようなおびただしい数であるから、全体では恐るべき数となるだろう。実際、人工妊娠中絶で失われていく胎児は、年間で百万人を超えるという。(*)
(*)厚生省発表の人工妊娠中絶件数と出生数という統計報告では、一九九七年の中絶件数は、約三十四万人であった。しかし、闇中絶を望む人が多いので、中絶の正確な実数はつかめていない。中絶に必ず使われる薬の年間使用量から推測すると、数百万件にも及ぶとも言われている。
このように飢え渇きというのが、正しく満たされないときには、戦争や堕胎のように多くの人たちを犠牲とするような不幸な結果を招くことになっていく。
それらの飢え渇きが満たされないときには、不満や怒り、また妬み、不安などいろいろな感情が生じる。さまざまの社会的な不正、汚職、犯罪などは、すべて、人間の本能を満たしたい、上になりたい、認められたい、力をふるいたい、安楽な生活をしたい、といった飢え渇きを間違った方法で満たそうとするところから来る。
宗教の世界でも、上になりたいという飢え渇きは、キリストに三年間も従った弟子たちですらそれに打ち勝てなかったことが記されている。主イエスがもうじき、自分は十字架につけられると予告しているのに、弟子たちはだれが一番えらいかとか、イエスが王となったときには、自分たちをその右左において下さいなどと願う始末であった。それは、いかに人間は、信仰をもってもなお、人の上に立とうとするような、飢え渇きから自由にはなれないかを示している。
そうした間違った飢え渇きがいやされたのは、キリストの復活のあと、聖霊が注がれることによってであった。聖霊が注がれなかったら、彼らのそうした飢え渇きはいやされることがなかった。
正しい飢え渇きとは何か。それは、神に、神の愛や、清さ、そして神の真実や、義に飢え渇くことである。
義とは、正しいことである。しかし、人間はすべて正しさを持っていない。使徒パウロが述べているように、絶対的な正義である、神の前では正しいものはいない。一人もいない。
…次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。(ローマの信徒への手紙三・10~12)
自分自身を振りかえってみても、確かに正しい者でなかった。しかし、キリストを信じることによって驚くべきことに何も正しいことができてなくとも、神の前に正しいとして下さるのだと知らされた。
主イエスが言われた、「義(正義)に飢え渇く者は幸いだ」とは、どういうことだろうか。それは、ふつうなら、「正義」を行う人間は、幸いだ、というだろう。しかし、主イエスは、そうはいわれなかったのである。義に飢え渇くということは、自分は正しいことができずとも、正しいことを心からねがうことであり、自分自身が、汚れていても、その汚れ、罪が清められて正しい者とされたいという強い願い、飢え渇くを持っていることである。
また、自分の家族、また集会、職場の人たちや組織、さらには日本や世界、それらが神の前にて正しいものとされるようにとの飢え渇きである。
新聞やテレビのニュースを見ると、数々の犯罪が行われているのがわかる。それを私たちはどう見るか。単に驚いたり、おそれたり、あるいは嫌悪感を持つだけで終わるのでなく、そこに神の国が来ますようにとの飢え渇きをもって、祈りをもって見つめるのが正しいあり方だと言えよう。
義に飢え渇くとは、神の正しさを飢え渇くように求める心である。それは、言い換えれば神の国に飢え渇くことである。神の国とは、神のご支配である。神が私たちの魂の罪を支配することで、私たちは清められる。また神の国が私たちの家庭や集会に来ることによってそこは清められる。
ここから、主イエスがなぜ、たえず祈るべき内容として、「御国が来ますように」との祈りを教えられたかがわかる。この祈りは神の国に飢え渇く心があればあるほど、日毎の祈りとなる。
また、主イエスが教えた内容でやはり重要なものとして、山上の教えというのがある。そこではキリストの教えのエッセンスが記されているが、その冒頭に「心の貧しいものは幸いだ!」というのが記されている。これは、飢え渇く心とは、心の貧しい状態に他ならないからである。心が自分の安楽や誇り、自分の力に満足していれば、それはここでいわれている、心の貧しい状態ではない。心貧しいとは、心に飢え渇きをもっている状態である。自分は何一つ持っていない。しかしそのなかに、神の力や神の清さを心から求める渇きがある。
ダビデはかつて、サウル王のねたみのゆえに、王から追われて命をねらわれているときには、必死で神にすがり、そこから多くの詩も作られた。その詩が数千年の歳月にわたって、無数の人間の魂をうるおし、力づけ、また預言ともなってきた。
しかし、そのようなダビデであったが、国を平定し、支配領域が広大となるにいたって、慢心し、昼頃起き出すという状況にすらなったとき、バテセバという女性の美しさに惹かれて大いなる誘惑に引き込まれた。ダビデは最も恐るべき罪を犯して、しかもその罪の重さには、その女性が妊娠して子供を生んだあと、ナタンという預言者によって直接に指摘されるまで気づかなかったというほどであった。
飢え渇く心は、当然のことであるが、いろいろなことが満たされているときには生じない。ダビデも安全なく、孤独でさまようときに最も神の力を、神のはげましを飢え渇くように求めていた。
キリストの第一の弟子であったペテロは、自分は殺されることがあっても、イエスに従っていきますと、力強く約束したのであったが、いざ、イエスが捕らえられていくと、他の弟子とともに逃げていき、その後三度もイエスなど決して知らないとちかくにいた人に誓って言ったほどであった。それほどまでに自分というのが弱く、もろいものだと思い知らされ、自分の罪を深く知らされた。その罪をイエスによって赦され、イエスが「約束された聖霊を祈って待ちなさい」という命令に従って、ほかの人たちとともに真剣に祈り、待ち続けた。そこには、必死に神を求めて飢え渇く心があった。こうした飢え渇きの心に応えて、主イエスは、聖霊を注ぎ、裏切ってしまったペテロを再び立ち上がらせ、キリストの死後最初に、キリストの復活の福音を宣べ伝えるものとならせたのである。
しかし、そうしたペテロであったが、初期のキリスト教指導者としての地位が確立されて、安定したためか、キリストの福音の根本問題で大きなつまずきをして、後からキリストの弟子となり、伝道者となったパウロに面と向かって叱責されたほどである。
このことも、神への飢え渇きがなくなったときに、人はいかに信仰を持っていたとしても、神からの新鮮な命が注がれなくなって、大きなまちがいを犯し、誤った道へとはまり込むということを示している。
神への飢え渇きは、終わりがない。神とは無限の愛や深さ、清さ、正しさに満ちたお方であるゆえに、もう自分は十分にそんなものを持っているという人はあり得ない。
アッシジのフランシス(イタリア語読みでは、フランチェスコ)という人がいる。(*)彼はとくに学問もなく、権力もなく、姿も美しいわけでもないのに、世の多くの人が従おうとする。それはなぜなのかと、一人の弟子が尋ねた。そのとき、フランシスは、つぎのように答えた。
「あなたは、世の人が私の後を追うわけを知りたいのか。それはどこにおいても、善悪をごらんになる、神の目によるのである。その聖なる目は、罪びとの中でもわたしより悪い、わたしより役立たぬ、わたしより罪深い者を見出さなかった。
主はご計画のふしぎなわざを実現するのに、わたしより悪い被造物がないのでわたしを選び、世の貴い人、偉大な人、美しい人、強い人、賢い人を恥ずかしめ、それによっていっさいの力と善とは、主から出て被造物からは出ず、また
何ものも主のみ前には優れたことのないことを、悟らせてくださるのである。
まことによきものを与えられた者は、主によってそのよきもの(栄光)が与えられて栄えるのであって、すべての栄えと誉れは永遠にただ主ひとりに帰せられる。」(「聖フランシスコの小さき花」第九章より
)
このように、後の時代に、キリストにとくに似た人と言われて、聖人と言われた人であるが、自らは、最も低い者にすぎないというはっきりとした自覚を持っていた。これは、パウロがキリストの事実上最大の弟子であったが、罪人の頭であるとまで言っていることに共通している。
このように自分を低く実感すること、それは神のまなざしを与えられていてはじめてできることであろう。人間的な目で見れば、人間の優劣とか上下などが大きいものと見えてくる。しかし神の目を与えられるとき、そうした人間的なものは消えていく。そして自分の小さいこと、弱いことがはっきりと見えてくる。それによってその貧しさを満たして下さる神を切実に求めるようになる。同時に、神の無限の豊かさがありありと示されてくる。
このように、聖人とまで言われて特別なへりくだった心にされて、神の豊かな賜物を受けた人とは、決して生まれつきそうであったのでも、人間的な努力でそのような聖性を獲得したのでもなく、ただ自分の小さきことを深く知って、そこから他の何ものにもまして、真剣に神を求めた人なのであった。そのような飢え渇きに応えて、神がご自身の持っておられる無限の豊かさを与え続けたのだといえよう。
パレスチナの荒野では、水を求めるのは命がけである。見渡すかぎりどこにも木も草も生えていないような砂漠のようなところで、水がなければそのまま死に至る。日本では、どこにいっても、谷に水が流れているのとは全く異なる。魂にいのちをもたらす、いのちの水は、ただ聖書で示されている神のところにしかない。それのみが命を支えるのであって、ほかは精神の荒野が見渡す限り広がっているのである。
そうしたことをはっきりと知らされたとき、私たちも一頭の鹿のように、全力をあげていのちの水を持っておられる神を探し、キリストを求め続けていきたいと思う。
(*)今から八〇〇年ほど昔の人で、フランチェスコ修道会の創立者。イタリア中部アッシジ生れ。謙遜と服従、愛と清貧の戒律によって修道生活の理想を実現した。アッシジの聖フランシスと言われる。アメリカの大都市、サンフランシスコとは、聖(サン)・フランシスコという意味で、彼の名前がその都市の名前の起源になっている。ここに引用した「小さき花」は、彼の弟子が記した伝記で、小鳥への説教など、フランシスコの生涯の驚くべきことも記されている。
求めよ、さらば与えられる、という有名な言葉は、もし私たちが正しい方向に、神とキリストに求めていくならば、こうした魂の飢え渇きが必ず満たされるということである。それはルカ福音書に示されているように、聖霊が与えられるときには私たちは満たされる。そのことは、ヨハネ福音書にとくに印象的な言葉で記されている。それは永遠の命であり、満ち満ちているものからくみ取ることであり、私たちの魂からいのちの水が流れだすことである。