政治と信仰 2003/11
先頃の、無教会の全国集会で、平和憲法を守るといったことは、政治問題か信仰の問題かという議論があった。政治の問題はキリスト教の全国集会では取り上げるべきでないという人もいた。しかし、そもそも政治とは何か。一般的には、衣食住の問題が中心にあるように思われている。しかし、本当は、政治とは人々の集団を正しく導くことでなければならないのであって、単に衣食住を整えることであってはならないはずである。しかし、実際には、食べさせること、政治とは、要するに国民を食べさせること、経済問題だといった意見もよく言われるし、今回の総選挙で、一番の関心事は、年金問題とか経済の問題であったといわれるのもそうしたこととつながっている。
しかし、現在の日本は食物も有り余るほどである。しかし、国民全体が、とくに若い世代の心が善くなっているとはほとんどの人が感じていないはずである。
経済問題がうまくいくとは、要するに十分な衣食住があるということだ。日本は世界では最もその方面ではうまくいっているといえる国の一つである。アジア、アフリカなどを中心として世界には飢えに瀕している人たちが八億にも達するとも言われている。そうした状況に比べるなら、日本の状況は彼らにとっては信じがたいほどの豊かさである。
しかし、そうした豊かさがあれば、それでよいのか。現在の日本のとくに精神的状況は、暗雲が漂っている。今月号でも触れたが、ことに若い世代の人たちの性に関する乱れとその結果としての、人工妊娠中絶が年間百万件にも及ぶという状況は、何を意味しているのだろうか。それは、人間が闇の世界に落ち込んでいることを如実に示している。殺人とは最も重大な悪であることは誰もが認めている。しかし自分たちの快楽を楽しむために胎内の生命を断つことは、殺人と全く関係のないことであるかのように、現在は公然と行われている。しかし、現実に胎内の顔も、手足もある赤ちゃんが取り出され、それを目のまえにして、その命が抹殺されていくのを見て、平気でいられる人はほとんどいないであろう。
これは、いくら食物が十分であっても、今後の日本は人間の最も大切な部分で崩壊していくのではないか。
そしてこのようなことは、いくら軍事力を増強しても、どうすることもできない。軍備を整備したところで、また、何らかの方法でテロを抑止させることができたとしても、やはりこのような人間の深い内面の崩壊は止めることができない。
また、経済問題がいくら向上してもこうした問題には何ら改善することはできない。
それは、政治の根本は、経済問題や安全保障問題でなく、国民を正しく導くということだということが忘れられているからである。
この点で、今から二五〇〇年ほども昔の中国の思想家(*)が、「政とは正なり」と簡潔に述べているのは印象的である。(**)
人間が正義にかなったものとなるのが本来の姿であるから、自らがまず正しいことを求め、そこから他者を正しく教え、導くこと、それが「政」の根本だというのである。
また、つぎのようにも記されている。
もし、不正な者を殺して正しいことを守らせるようにしたらどうか、と問われて、孔子は答えた。「政治をするのに、どうして殺す必要があるのか。あなたが善くあろうとするなら、人民も善くなる。上に立つ者は風であり、人々は草である。草は風にあたれば、必ずなびくものだ」(「論語」顔淵第十二)
(*)孔子(前551~前479)中国、春秋時代の学者・思想家。その言行録は「論語」に記されている。
(**)政治の「政」という漢字の左部分は、「正」であり、右の部分は、「打ちたたく」という意味をもっている。この漢字そのものが、「政」とは、「正しく打ちたたく」という意味を持っているのがうかがえる。
罰を厳しくしても悪そのものはなくならない。政治にかかわるもの、上に立つ者がまず善を求めていくなら、自ずから人々もそれになびくという。
テロについても、相手がテロをやったから、こちらもテロの一種ともいえる武力攻撃をやるのだということでは、よくなるはずがない。これは悪には悪をもって対するということだからだ。
論語に書かれているような考えは、聖書には一段と深い視点から、よりいっそう明確に記されている。この孔子が生まれる五十年ほど前に、ユダの地で、祖国が滅びようとするときに現れた預言者がエレミヤである。彼は自分の国が外国(バビロン)の攻撃を受けて滅びようとしているときに現れ、それが単なる軍事的な装備や経済問題で滅びるのでなく、国民の心が真実の神から離れて、まちがったものに結びついているからだと示された。
つぎにエレミヤ書の中から、国家の災いは、真実な神に背くことによって生じるということが、神からの言葉として、繰り返し告げられているのを示しておく。
…「立ち帰れ、イスラエルよ」と主は言われる。
「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」
もし、あなたが真実と公平と正義をもって
「主は生きておられる」と誓うなら
諸国の民は、あなたを通して祝福を受ける。(エレミヤ書四・1~2より)
…エルサレムの通りを巡り
よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか
正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。(エレミヤ書五・1)
…主はこう言われる。ユダの王の宮殿へ行き、そこでこの言葉を語って、
言え。「ダビデの王位に座るユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、ここの門から入る人々も皆、主の言葉を聞け。
主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。…
もしこれらの言葉に聞き従わないならば、この宮殿は必ず廃虚となる。」(エレミヤ書二十二・1~5)
聖書においては、個人としての人間、その人間の集合体の国家も、滅びるのか祝福されるのかは、まったく同一の原理、すなわち真実な目に見えない存在たる神を第一に重んじるかどうかなのである。
そしてこれは現在においても、いっそう切実な問題となっている。
政治においても個々の人間においても、原理は同じである。人間の集団だからといって、どうして正しいこと、真実なことがないがしろにされていいか。個人において悪であるならば、個人の集合である国家においても悪であることは必然的である。例えば、嘘をつくこと、盗むこと、殺すことなど、個人が行えば、犯罪である、それならば、国家が行っても同様に悪である。
聖書はこうした基本をじつに明確に述べている。人間が真実な神を求めるべきであるなら、国家も同様なのである。人が、まず神の国と神の義をもとめるべきならば、国家も同様だというのである。
このように考えてくれば、信仰と政治ということは決して別々のことでないことは、明らかである。エレミヤ書などはまさに、信仰と国家、社会の政治がいかに不可欠に結びついているかを一貫して述べている。
私たちは、憲法問題にしても、永遠の真理に照らして考えるとき、はたして武力を増強させ、海外にも自衛隊という武力を派遣していくことが日本や世界にとって、真によきことに結びつくのか、熟慮せねばならない。
そうした道とは全くことなる方法によって、国民の正義に対する感覚を鋭くし、その感覚の上に立って、世界の福祉や平和に貢献し、それによって自ずから世界の国々に信頼されること、それが最も国を守ることになるのである。
神は万能であり、人間や国家の根本がまちがっていたら必ず何らかの方法をもって裁きを与えるお方である。私たちは世の風潮に揺り動かされることなく、千年、二千年の歳月をも生き抜いてきた真理に従いたいと思う。
「まず神の国と神の義を求めよ、そうすれば衣食住のことはそれに添えて与えられる」と主イエスは言われた。神の国とは、愛と真実の神の御支配をもとめることであり、敵のために祈れる心をもとめることでもある。この言葉は、個人にとっても、国家にとっても変わることなき永遠の真理なのである。