憎しみが消える道 2004/1
テロとは憎しみである。その憎しみを滅ぼす方法を世界は考えているはずだ。そのための方法として、テロを武力で攻撃することが最善だとアメリカや多くのアメリカに加担する国々は考えている。
そして日本も、人道支援だなどと表面をとりつくろって、そのアメリカに率先して協力してきた。
そしてそうした日本の行動を首相や自民党が強く推進している。自民党のなかでも、イラク派兵に反対するかつての有力者を、党内の結束を乱すとして、非難する動きが強まっている。
特定の考え方に従わない者を糾弾し、排除しようとするのは、とくに、戦争にかかわる場合はその傾向が強まる。
戦前には、政府の方針に逆らう者、平和主義を主張するものを、危険思想と称して弾圧していった。戦争を推進する考えこそ、測り知れない人々の命を奪うものであり、それこそ最大の危険思想であるのだ。
今回もすでにマスコミに報道を自由にさせないようにしようとする動きが見られる。
石破防衛庁長官が陸上自衛隊先遣隊のイラク派遣を命じた九日、防衛庁は主だった報道機関に対し、自衛隊に関する現地からの報道を「可能な限り控えるよう」申し入れた。続いて十三日には、自衛隊の三幕僚長による定例の記者会見を廃止する意向を明らかにした。
このような相次ぐ動きは何を意味するだろうか。戦地での活動となると、敵とみられる相手への武器使用、あるいは自衛隊員の被害などで、国民の監視があると都合が悪いようなことが生じる可能性が高い。もし、そうなると、イラク派兵への反対が強くなる。それは政府や自民党など派兵を推進した側への批判となり、つぎの選挙での影響が大きくなる。こうした観点から事実から目をそらせようということなのである。
これは、戦前には重大なことにつながっていった。国民に真実を知らさず、大敗を喫しているのに、勝利だとかまったくの嘘の報道を繰り返ししていった。そして国民を欺きつづけ、ついにおびただしい犠牲を生んでいったのである。
このような戦前の動きの後を追っていくようなことが続いている。国民も次第にイラク派兵の危険性を思わずに、慣れていく傾向が生れるであろう。
しかし、イラク派兵とは要するにアメリカの軍事攻撃、イラク戦争の後始末の一環にすぎない。全体としてアメリカの戦争行為を支持し、加担していくことである。これは今回の戦争が開始されたとき、首相はいちはやくそれを支持したことからもわかる。
このような戦争行為やそれを支持する活動によってテロはなくなるのか。それが根本問題である。はじめに述べたように、テロとは憎しみが根源にある。テロとの闘いとはそれゆえ、憎しみとの闘いである。それならば、憎しみは、武力攻撃という憎しみによってなくすことができるだろうか。決してそうでない。かえってその憎しみに火をつけ、一層憎しみを先鋭化し、内にこもらせていくだけである。
それが、イスラエルとパレスチナのテロと武力攻撃のの応酬や、現在も止むことなきイラクでのテロに表れている。
憎しみを滅ぼすことは、決して武力ではできない。一時的に武力で押さえつけることはできよう。しかしそれは憎しみを滅ぼしたのではない。新たな憎しみの種を蒔いたのであり、さらに新たな憎しみに点火したのにすぎない。
憎しみを消すには、憎しみとは正反対のものによってしかできない。それが武力をとらないでする方法である。そのことを日本の平和主義憲法は指し示しているのである。
平和を主張する憲法のおかげで、日本は過去六十年近くどこの国をも武力で攻撃をもせず、また攻撃もされなかった。そして日本は世界的には、この六十年近く、他国を武力攻撃するようなイメージはなかったと言えるだろう。科学技術が盛んな国、経済の豊かな国、独自の文化を持つ国としてイメージではなかったか。そしてそうした、平和主義の憲法をを六十年近く持ってきた国、その間どこにも軍隊を派遣したことのない国、平和を目的とする国連を資金的に強く支えてきた独自の平和主義を実践する国として浸透してきたのではないか。だからこそ、目にみえない守りの壁が世界のなかで作られてきたと言えるだろう。
そうした世界的な信頼を今回のイラク派兵によって投げ捨ててしまったと言えよう。日本独自の平和主義を世界に指し示し、実践していくことによって目に見えない平和の砦をつくるという道があったのを、今の首相や与党はいとも簡単に打ち壊してしまったのである。
しかし、真理は真理である。そしてキリストの時代から真理は世の多くの人たち、ことに権力者には受け入れられないという実態がある。その意味では現在の首相や自民党などの動きは目新しいものではない。
こうした状況において、多くの人が受け入れないとしても真の道は聖書とくにキリストやパウロの言葉のなかにあることを繰り返し主張していかねばならないと思う。