神のわざ 2004/6
この宇宙を創造し、いまも生きて働いておられる神が存在するかどうか、このことは人間にとって最大の問題である。
生きて働いている神とは、弱い者への愛に満ちた神であり、求める者に力と愛を注いで下さる神である。そして死の力や悪をも支配し、最終的に悪を滅ぼす力をもった神のことである。そのような神がいるか、それともいないのかによって、私たちの人生は全く違ってくる。
そのような神などいないと信じる人生はなんと味気ないことであろう。それは人間しかいないということであり、人間の愛や真実しかよいものはないということである。しかし、人間が持っている愛など、いかにもろくはかないことであろう。いかに真実そうにみえる人間もふとしたことからどんなに心のなかで不信実な思いを抱いたり、実際に不信実な言動をしてしまうことか。ことに、重い病気、死の近づく状況にあって一体人間に何ができるだろう。
そのようなことは、自分の心のなかを見つめるだけでわかる。人を愛するなどといっても、数知れない病人や苦しみのただなかにある人がいる。自分の周りにもいろいろといるが、もっと広くみれば日本のどこにでも、また世界では食べ物もないような飢えている人が何億人もいる。そのようなすべてに私たちが愛を抱くなど到底できないことである。
それどころか、苦しむ人や死に近い状況の人にそれがたった一人であっても、どれほどの心からの愛を抱いてなすことができるか、を考えても人間の愛の無力さを思い知らされる。
神がいないなら、人間はどんなに努力してもよいことをしてもみんな死に呑み込まれていくのであって、要するにすべては消えていき、空しい。
けれども もしすでに述べたような生ける神がおられるなら、それは全く異なってくる。万能でしかも愛に満ちた神がおられるなら、いかなる状況に陥っても私たちが心から神の助けを求めて叫ぶとき、必ず顧みて下さる、死がおそってきても死を超えた命をあたえて下さって、神のもとに導いて下さるのである。
神を信じられないという人は、よく周りの悪のはびこった状況をいう。こんなに世界に悪があるのにどうしてそんな神がいるのかと。神のわざなどどこにもないと言うのである。
たしかに私たちの周囲や新聞のニュースなど、目にみえる状況を見るだけではどこに神がいるのかと思う。
しかし、一度神を信じるとき、そのようなただなかにおいても、たしかに神は私たちの魂に近づき、私たちの心にほかでは与えられない平安を与えられ、支えられる。ことに私たちの弱さ、醜さなど私たちの罪への赦しを実感した者は神のわざを疑わなくなる。
神のわざは私たちが信じて、その方向に進めばますます明らかに示される。踏み出さない者にはいつまでも分からない。しかし、神を信じないなら、何かよいことをしても、心の奥では自分がしたのだという誇りのようなものが生じてしまう。そして他人の評価を求めてしまう。しかし、キリストを信じてキリストと結びついているとき、初めて私たちは自分の弱さを深く知っているために何かよいことができてもそれは神の助けによると実感するようになる。そのような主に結びついた心でなすとき初めて、神のわざが身近なところになされているのがわかってくる。