リストボタン成功と失敗    2004/6

私たちはよく成功したとか失敗だったという言葉を耳にする。
自分の思い通り、あるいはそれ以上にものごとが進んだときには、成功というし、自分の予想通りにならなかったときに失敗という。それは表面的な結果に基づいて言われることが多い。人々の評価や自分自身の気持ちをもとにしていうのである。
キリスト教の伝道においても、成功と失敗ということが言われる。たくさん人が集まったら成功だと思われている。たしかに、せっかくの特別集会をして、ほとんど人が来なかったら失敗だと思うのは簡単だ。
しかし、だからといって多く人が集まったらそれだけで成功とかいう言葉を使えるだろうか。新約聖書には、新共同訳、口語訳、新改訳など代表的な日本語訳のいずれにも「成功」という訳語が一度も使われていない。
だれでも、うまくいくか、結果が悪いかは大きい関心であるにもかかわらず、新約聖書の四〇〇頁にもなる文書ではそうした言葉が出てこないのは、新約聖書の著者は「成功」といった世間の人たちが最大の関心事とすることと全く異なる考え方を持っていたからである。
人間の計画や事業については、成功か失敗かということがいえるが、神の事業ならば、失敗というものはなく、すべてが神の御計画通りにすすんでおり、最終的には、次の聖書の言葉で記されているように、すべてはキリストのもとに一つにまとめられる。

神はこの恵みを私たちの上にもあふれさせ、秘められた計画をわたしたちに知らせて下さった。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる。 天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのである。
(エペソ信徒への手紙一・910より)

私たちも信仰によってなすとき、それは神の事業と変えられる。たとえ悪人であっても、悔い改めて、信じるだけで正しい人間であると認めて頂けるのと同様である。
キリストはどうであったか。
わずか三年の伝道の働きは最後は大多数の人によって見捨てられ、あざけられ、極悪人同様の刑罰を受けた。
主イエスは、ハンセン病や盲人をもいやし、死人すらよみがえらせた。そのようなめざましいわざをしたにもかかわらず、だんだん地位の高い指導者的人物から嫌われ、憎しみを受けて神を汚すという重い罪を犯したとして十字架刑にされた。
三年間ずっとそばにいてイエスの働きを見続け、その奇跡を目の当たりにした弟子たちもみんな逃げてしまった。そうした状況を見るとき、イエスの伝道は成功などというものとは全く異なるものであり、だれが見ても失敗としか言いようがないような出来事であった。
しかし、そのような失敗と見えるただなかに、神の勝利があった。それゆえに主イエスは息を引き取るときに、
「すべてが全うされた」と言われたのである。そして以後二〇〇〇年にわたって、イエスのなされたことは全くの勝利であり、神ははじめからイエスの働きが「成功」となるようにと計画されていたのである。
このように、新約聖書においては、成功か失敗かでなく、勝利かそれとも敗北かということが問題とされている。
神に結ばれているものは、いかなる事態が生じようとも、必ずすべてが最善になされる、言い換えれば勝利となる。だから、それはどんなに失敗のように見えても「成功」なのである。
この世的には全くの失敗として見えるようなことであっても、霊的にはまったき勝利でありうる。あの、十字架でイエスとともに釘づけられた重罪人も、彼の人生は全くの失敗であっただろう。しかし、息を引き取る間際にイエスを信じて悔い改めたことによって、それ以後今日に至るまで、ずっとキリストの証人として世界に知られるようになり、勝利の人生と変えられたのである。
私たちもこの世的には失敗と見えようと、神の勝利を与えられてこの地上の生活を歩みたいし、また、最終的には、そこから御国へ必ず入れていただけるという希望が与えられている。
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