リストボタン一つになる目的    2004/6

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。
つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
(ピリピ信徒への手紙一・2730より)

「キリストの福音にふさわしい生活をせよ」この日本語の訳を見るだけでは、ごく当然のことを言っているようにみえる。 しかし、「生活を送れ」と訳されている原語(*)は「市民として生きる」という意味であって、ここでは、天の国の国民(市民)としてふさわしい生活をすることが求められている。
同じフィリピの信徒への手紙の少し後の方で、次のように書かれている。

私たちの本国は天にあります。
(フィリピ三・20
(口語訳では、「私たちの国籍は天にある。」と訳されている)
この本国とか国籍と訳された原語(**)は、さきほどの「生活を送る」と訳された言葉とよく似ている。新約聖書では、この箇所だけに使われている言葉であり、さきほどの「生活を送る」と訳された原語もこの箇所以外には使徒言行録で一度だけ使われている言葉である。
このような新約聖書ではめずらしい言葉があえて使われている理由は、私たちは天の国の民であり、国籍は天の国にある。そこからこの地上に派遣されていると言える状況なのである。だから、私たちは天の国の人間らしく生きるように、というのがこの箇所でのパウロの意図であっただろう。
外国に行ったとき、そこではたった一人の日本人であっても、その人の行動で、日本全体のイメージが変ることがある。
私たちのキリスト集会に、一年ほど参加された南アフリカの方があった。それまで集会の多くの人にとっては、遠い南アフリカのイメージというのはほとんどなかったと思われるが、参加していたその二人の人を通して南アフリカのイメージを抱く傾向ができる。
そのように、私たちキリスト者は天の国の民なのであって、周囲の人たちも私たちを見ることで天の国を類推することになる。

*)ポリテュウオマイ(politeuomai)という語。これは、都市とか町を意味するギリシャ語のポリス(polis)から作られた言葉で、「市民として生きる」という意味がある。
**)ポリテュウマ(politeuma)といい、「国」の意。


それではその天の国の市民としての生活の具体的なあり方とはなにか、 それは、一つの霊によって、一つの心になって、共に戦うことであった。その戦いは、人間や組織に対するものでなく、その背後にある悪の霊に対する戦いである。ここにパウロの強調点がある。
キリスト者とはなにか。それは信徒同士、また他者に対しては互いに赦し合うこと、互いに仕えあうということが第一に言われている。それとともにもう一つ重要なことがある。それがここで言われている、一つの心、一つの霊となって固く立ってともに悪の霊と戦うことなのである。
キリスト者の生活にこうした点がどれほど意識されているだろうか。私たちの相互の愛はうっかりするとなれあいになる。自分の気に入った者同士の「愛」に終わってしまう。しかしそれでは、通常の人間の愛と同じような次元になってしまう。
キリスト者の愛は、まず弱い者や滅びようとするものに向かうべきだし、さらに敵対する者や悪しき者にまで及ぶのがキリスト者としての愛だと言われている。
そして、そこからさらに、ともに戦うという姿勢が生じる。自分の気に入った者だけと仲良くするという次元にいる者はとても、共同して悪に対して戦うというところまでいかないだろう。それは自分の内なる自我、人間的な感情に負けているからである。
パウロはこの手紙において、「共に戦う」という言葉を繰り返している。キリスト者は、哲学的に深く自分が理解できたからそれで解決したとかあるいは仏教的な悟りを得たとかいうのでなく、救われた者はほかの同じように救いを受けた人たちとともに、一つになって、悪そのものとの戦いに加わるのがあるべき姿だからである
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