預言者の孤独 2004/7
預言者とは、その字のように神の言葉を預かった者、神の言葉を受けた者のことである。神の言葉は黙って受けとるだけのために与えられるのでなく、外部に語るように絶えず仕向ける力を持っている。
預言者エレミヤは、今から二六〇〇年ほど昔の人であるが、そのような古代の人間の心、考え、気持ちが旧約聖書を見るとありありと伝わってくる。
人間が話をするのは、自分が話したいからであり、自分のことを聞いてもらおうと話す場合が多い。
老人になると昔のことを繰り返し同じ言葉であっても長々と話す傾向が強くなる。老人でなくともたまった何かを発散したいかのように、何時間もとりとめもないおしゃべりをする場合もある。
しかし、同じ言葉であっても、預言者の言葉はそのような、自分が話したいから語るといったものとは本質的に違っている。
エレミヤはまだ若いときに、いかなる人間の意見とも、考えとも異なる、真理そのものを語るために、神から特に呼び出されたのであった。そのとき、彼はそのような特別な使命を直ちに受けるということは到底できなかった。それはエレミヤの次の言葉によく表れている。
わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知らないのです。
わたしはただの若者にすぎないのですから。」(エレミヤ書一・6)
このように言って神からの使命を辞退しようとした。
しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。
わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。
彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。(エレミヤ書一・7~8)
このような厳しい言葉であったが、エレミヤは自分の考えでは到底神の言葉を、当時の社会的な地位がある人、国王や高官たち、宗教家たちに向かって語り、彼らの誤りを直言するということはできなかった。しかし、神からいわば無理に呼び出され、そして神の言葉を与えられ、神によって後押しされて語りはじめたのであった。
そういう意味で、ふつうの人間が自分が話したいから話す、といった人間的な言葉とはまったく異なるのがよくわかる。
これと同様なことは、旧約聖書で最大の人物といえるモーセについても記されている。
今、行きなさい。わたしはあなたをファラオ(エジプト王)のもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」(出エジプト記三・10~11)
このように、モーセも自分の考えや思いでエジプトで奴隷労働を強制させられている同胞を助け出そうとしたのではなかった。むしろそのようなことは言われても到底できない、考えられないということであった。それで神がモーセに語りかけてエジプトに赴かせようとされるが、モーセは従おうとはしなかった。
それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」(出エジプト記四・10)
このように神に反論して、自分にはどうしても行けそうもないこと、人々の前で語ることは全くできないと強く辞退した。
それゆえ、神はモーセに特別な奇跡を行なう力を授けたのである。そしてその奇跡が実際に起こることを眼の前で見せた。しかし、モーセはなお強く辞退した。
主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。
さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」(出エジプト記四・10~12)
このように、預言ということは自分がしたいからとかしゃべりたいからしゃべるといったのと全く異なるのがわかる。それは場合によっては非常な苦しみや孤独が襲いかかってくるからである。
そのような状況にあっても神のうながしによって強い力が臨み、モーセも最終的には神の力によって導かれ、エジプトから同胞たちを救い出すという仕事に着手することになっていく。
神の言葉はこのように、自然のままの人間には到底語ることができない。
学問的なこと、技術的なことは、自分中心の考えで生きているような人間でも優れた業績をあげることは可能である。自分の名声のために研究をするということもよくある。現にある有名な学者は、競争心がなかったらこのような業績をあげることはできなかったと言ったことがある。
原爆は完成までに数十年もかかると当時の世界的な物理学者が言っていたし、日本の科学者たちも開発をはじめようとしていたが、あまりの技術的困難さから不可能としたほどであったのに、アメリカが巨額の費用を注ぎ込んで、ノーベル賞を受けた科学者を十名ほども含む優秀な研究者を多く集めて開発に前例のないほどのエネルギーを注ぎ込むとわずか数年で完成してしまった。このように学問とか技術なども費用と時間を注ぎ込めば結果はえられる。
しかし、神の言葉を語るということは、そうした金の力や人間的な権力による強制などによっては全くできない。
ただ、自分や周囲の人間を超えた神の力が注ぎ込まれて初めて可能となる。
地上で最も完全な人間として神から送られた主イエスも同様であって、三〇歳になるまではそうした力が与えられていなかったようである。三〇歳になって天からの聖霊が注がれて初めて神の言葉を語る者となった。
パウロも同様であって、彼はキリスト教に心惹かれていたどころか、キリスト教そのものを滅ぼしてしまおうという激しい意図をもって、それに情熱を燃やし迫害をする人たちの急先鋒となっていたのである。
そうした彼の意志とは全く逆の神の意志によって突然、天からの光と復活したキリストの呼びかけによってパウロは神の言葉を宣べ伝える人に変えられた。その後も、パウロは自分の希望とか考えでなく、生きて働くキリストにうながされ、聖霊によって神の言葉(福音)を伝え続けていった。
「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。」(Ⅰコリント九・16)
しかし、このように神に呼び出されたような人間であったら、ずっと神の言葉を伝え続けることはできるのだろうか。
神の力によってのみ神の言葉は語られる。それゆえその神の力が取り去られるとき、いかに力強い働きをしていた者といっても、ふつうの人間と同様に弱いものとなる。
旧約聖書の預言者のなかでも、とくに驚くべき力を発揮したのがエリヤという預言者であった。偽りの預言者たちを集めて、真正面に対決し、民衆の前にて彼らに神の言葉を告げ、さらに天からの火を呼び出して偽りの預言者たちを滅ぼしてしまうという他に例のないような驚くべき神のわざをなすことができた。
しかし、悪意に満ちた王妃によって追われ、命の危険が間近に迫ってきたとき、エリヤはそれまでの大胆な神の僕という姿とは想像もできないほどに力を失い絶望的になってしまった。
彼は王妃を恐れて、遠く砂漠地帯へと逃げて行った。
…エリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバ(*)に来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野(**)に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。
彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。
「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」(列王記上十九・3~4)
(*)砂漠のなかにあるオアシス。
(**)「荒れ野」といっても、日本でいうような、畑として利用されていない放置された荒れ地とか、草木が生い茂っているようなところでなく、草木もほとんどない砂漠状態の場所を指している。
特別に神の力を受けた預言者として旧約聖書全体でも重要視されているエリヤであるが、ここに見られるように、もう死にたいと願い、死の寸前までいっていたのである。
この地域のような砂漠地帯で水も食物もない状態でいれば、激しい直射日光と暑さ、乾燥した大気によって人の命はすぐに失われる。彼はもう生きていけない、力は尽き果てたという疲労感と挫折感に襲われていたのである。
この記事の直前でエリヤがいかに神の僕として著しい力を受けていたかが詳しく記されていたので、そのすぐ後に書かれているこの記事との落差に驚かされる。
聖書は人間崇拝を許さない唯一の書であると言われるが、このようなエリヤの記述はエリヤを過度に重視したり、その人間に注目することでなく、背後でエリヤを動かしている神に注目させるという意味がある。
どんなに勇気ある人間のように見えても、またいかにあるときに力強く働いているように見えても、またどんなに能力に満ちた有能な人間だと思えるような働きをしていたとしても、人間はみんな例外なく弱い存在であり、支えがなくなればたちまち生きていく力を失ってしまう。
エリヤはこのようにして、死の直前にまで追いつめられたがそのぎりぎりのところで、神の奇跡的な力によって命を支えられ、再び立ち上がる力を与えられた。
このことによってエリヤは自分の力では何もできない、神の言葉を語ることも生きていくことすらもできないということを痛切に思い知らされたのであった。
そして彼はまた深い神との一体感によって生きていたが、それは他方では深い孤独の中に置かれていたということでもある。エリヤは、繰り返し一人になったことをのべている。
民に対しては、「私はただ一人、主の預言者として残った。」(列王記上十九・22)
と述べ、神に対しても次の言葉を繰り返し強調している。
「私は神に情熱を傾けて仕えてきました。しかしイスラエルの人々は神との契約を捨て、預言者たちを殺してきたのです。私一人だけが残り、彼らは私の命をも奪おうとしているのです。」(同10節、14節より)
こうした孤独は神の言葉を受けた人の担うべき重荷だといえよう。それはその孤独のなかで神の言葉の鋭い意味とその深さを真剣に神に求め続けていかねばならないからである。
この点については、初めに記した預言者エレミヤ(エリヤより三百年ほど後の時代に現れた)も同様であった。彼もまた、神の言葉を与えられ、著しい孤独のなかで神の言葉を語り続けていった。それは一般の人々に対してだけでなく、国の支配者階層に対しても向けられた。
神がエレミヤを呼び出し、特に神殿の門に立って、神の言葉、真理の言葉を語れと、命じられた。当時の神殿とは、人々の信仰の中心であり、多くの人たちが多方面から集まってくる最も重要な場であった。そのような、支配者たちや社会的な地位のある人、また一般の人々が集まる場において、次のように語れといわれた。それは驚くべき厳しい言葉であり、単刀直入の言葉であった。そのような厳しい言葉はだれも語ったことがなかったし、たちまち世の指導者たち、地位の高い人たち、権力者たちの憎しみをかって、捕らえられるということは予想されたことである。
神はエレミヤに次のように命じた。
主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。…主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。…
そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地に、永遠に住まわせる。
…わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。(エレミヤ書七・2~11より)
エレミヤはたった一人で、人々に向かって当時の人たちの不正を指摘し、真正面からそれを神の権威をもって叱責し、真の道を指し示した。
地位の高い人々から低い人々までだれもが、最も重要な宗教施設としてみなしている上、多くの人々が出入りしているその神殿の門に立って、このような厳しいことを単独で言うということがどんなに大変であったかを知らされる。
「主の神殿…という空しい言葉」とは、人々が、神殿があるから他国に侵略もされない、平和が保たれるといって形式的、儀式的な宗教にとどまることで偽りの安全を説いていたことを指している。
宗教家たちが、神聖な場としているところを、エレミヤは、「強盗の巣」と言った。しかもそれは神がそのように告げたと大胆にも述べたのである。
強盗の巣といえるほどに、神殿が本当の神への信仰の場でなく、礼拝の場でもなく、人々の心を神に向かって引き上げ、清め、正しいことへと立ち返らせる働きもせず、かえって、集まる人々からの献金や捧げ物などをふところに入れて自分たちの安楽や権力のために用いている状態であった。
そうした長年の不正と堕落をだれもが何も感じないほどに正しい感覚が麻痺していたときに、エレミヤは神からの言葉を受け、また神からの力を与えられて真理を述べたのである。
主イエスもまた、そうした深い孤独のただなかで神と交わり、神の言葉とその力を受けていた。
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ福音書一・35)
このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。(ルカ六・12)
このような記事によってイエスは十二弟子たちと共におられたが、その魂の深いところにおいていつも神とともにある単独を保っておられたのがうかがえる。そして、最後の十字架の刑を受けるに至るまでも、弟子たちも周囲のだれもその意味がわからず、主イエスただ一人の全く孤独な歩みを続けられたのであった。
このように、神の言葉は数でなく、それがゆだねられた少数の人によって苦しみと孤独のただなかで保たれ、その力が発揮され、伝えられていったのである。