愛国心 2004/7
以前から教育基本法の改定の重要な内容に、愛国心とか伝統、文化を重んじるということがある。
そもそも国を愛するとはどういうことなのか。
愛という名が付けば、何でもよいことだと思う人が多い。だから国を愛するというと、その内容をよく考えることなく、当然だという主張が出てくる。
しかし、人間同士でも、特定の人間を愛するというとき、そのほかの人間には全く関心がないということがよくある。例えば、自分の子供を愛していると思っていても、他人の子供には全く関心がないということも多いし、社会的な地位もなく、貧しい子供、勉強のできない子供などになるとまるで相手にしないことが多いと思われる。
特定の異性を愛するというときも、その愛が強くなるほど他の人間には関心がなくなってしまうし、相手が心がわりするととたんに憎しみに変ってしまうことが多い。要するにそれらの愛に共通しているのは、自分中心ということである。
自分の好きな人間を愛する、そしてその愛のお返しが欲しいのである。相手を愛するといいながら、実は自分を愛しているのであって、自己愛の変形にすぎないと言えよう。
これと同様なことが、国を愛するということにも見られる。
日本を愛するというが、最も日本で愛国ということが強調された戦前の時代は、最も日本が自国中心になった時代であって、朝鮮併合などにみられるように、他国を自分の領土としたり、中国への戦争を始めて、おびただしい犠牲者を出したりした。
それは国を愛するとは、国を武力で守ることだとされ、相手国が攻撃してもいないのに、こちらから攻撃をしかけて、それは日本を守るため、祖国愛のためだと教えてきたのである。このように、
愛国心と戦争とは深い関わりをもってきた。特に日本では、愛国と天皇への崇敬とが結びつけられてしまったのである。
そしてこのようなまちがった「愛」は祖国によいものをもたらすどころか、日本においても、主要な都市が爆撃され、数百万の人間の命が奪われ、あるいは爆撃による火災や崩壊のため体がそこなわれて病気となったり、生涯にわたって手足がなくなったりする苦しみを持つ障害者が生じたし、外国では日本よりはるかに多く、一千万をはるかに越えるほどの膨大な犠牲者を生み出した。
このような残酷なことが、国を愛するという美名のもとに行なわれた事実を見るとき、現代において愛国心というものを声高にとなえる人たちが再び日本をかつてのような大きな過ちへと引っ張っていこうとしているのではないかという危惧を抱かざるをえない。
最近は天皇讃美の歌である「君が代」を有無をいわせず強制的に歌わせようとする傾向がますます強まってきた。そのようなことをして子供たちの心を天皇に結びつけようとしているのである。戦前はそれを極めて強圧的に行い、愛国と天皇への崇拝を結びつけ、ふつうの人間にすぎない天皇を現人神だといって神の地位にまでまつりあげた。
そして愛国ということも強制的に教え込み、その上で戦争を推進していった。
現在の君が代の強制も、戦前のあの大きな間違いを再び犯そうとしているようにみえる。
正体不明の愛国心が強調され、軍備をますます増強しようとし、外国へ軍隊を派遣することに力を入れ、そうした方向に反対するものへの圧力を強めていく。
これは人間にもともとある、自我欲の変形であり、自分中心の考えが「愛国心」という衣をかぶって肥大していったものである。
本当の愛国心とは何か。国を愛するというとき、例えばスイスを愛するというとき、その国の自然の美しさを愛するという気持ちの人もいる。しかし、人間への関心がなくては、国ではなく単にその地方の自然を愛するということでしかない。
現在愛国心ということで言われているのはそうした自然を愛するとか、そこに住む人間への愛とかでもなく、単に国の支配の組織に従えということなのである。
愛とは本来、自発的な心の動きであり、慈しむ感情である。だから罰をちらつかせて命令通り従わせてそれで国を愛する心ができているなどというのは、まったく意味のないことである。
「君が代」を強制的に歌わせることが国を愛することになるなどという主張は、要するにそうした命令をだす組織、文部科学省や政府の方針に黙って従えということなのである。
どんなに違った意見を持っていてもそれを出さずに、ただ命令通りに従うとそれが国を愛しているとみなされるから、「戦争は人を殺すことだ、だから悪だ」、と主張すると、国を愛していないと決めつけられる。
こうした事実をみても、国を愛するといっても、実は強制と盲従によって生れたものにすぎないのであって、実体はない。
それゆえ、なにかあるとたちまち瓦礫のようにそのような愛国心は崩れ落ちてしまう。それは、太平洋戦争が終わるとあれほど日夜強調されていた愛国心はたちまち消え失せていったのを見てもわかる。
ロシアの大作家であって思想家でもあったトルストイはこうした、愛国心の本性を鋭く見抜いて次のように述べている。
… 愛国心とは、その最も簡単明瞭で疑いのない意味では、支配者にとっては、権力欲からくる貪欲な目的を達成する道具にほかならない。
また、支配されている国民にとっては、人間の尊厳や理性、良心を捨ててしまうことであり、権力者への奴隷的服従にほかならない。
愛国心とは、奴隷根性である。…(「キリスト教と愛国心」トルストイ全集第十五巻 428頁 河出書房新社刊)
人間を愛するというとき、まったくの偽の愛と真実の愛がある。映画などでいう純愛などというのは特定の人にだけ集中するような心であり、他人はどうでもよいという本質を持っているのであって、みんな偽りの愛、もしくは実体を持っていないという意味で、本当の愛の影のようなものでしかない。
同様に、現在言われているような、愛国心というのも、本当の愛とは似ても似つかないものである。本当の愛、キリストが言われたような愛は、まず人間を大切にする。ことに病気やからだの障害のために弱っている者、傷ついた者、罪に悩み悲しむ者、孤独な者といった人への真実な心である。
そうした弱っている者を慈しみ、そこに上よりの力が注がれるようにと願う心である。
国を愛するというその愛が本当のものであるかどうかは、この面から考えるとわかる。だれかが日本という国を愛するというとき、その愛が本当ならやはり日本の貧しいひと、苦しむひと、弱い立場にある人たちへの深い関心を持つであろう。そのような人間への無差別的な愛があるなら、当然その人間たちをはぐくむ自然をも愛するであろう。
そしてそうした愛の心は、当然日本だけでなく、外国の同様な人たちへの関心ともなる。真の愛は当然自分の国だけに限られたものでなく、政府や天皇に盲従する心などでなく、祖国に住む人への人間愛である。
そのような祖国愛の心は、どうして自分の国の利益だけを考えて、他国に戦争をしかけたりするだろうか。
真の祖国愛は人間への愛に基づくゆえに、戦争などは決して推進しない。しかし、偽の祖国愛は、愛とは似ても似つかない権力への盲従があり、中身のないものであるゆえに、権力者の命令によって簡単に戦争への道を歩んでいく。
現在の政府、自民党などはこうした空虚な愛国心を強調しようとして、教育基本法の改定を計画している。
しかし、真に必要なのは、聖書にあるところの真の人間愛であり、それは神から与えられるものであってこれこそ、人間や国家、社会などあらゆるところでその基礎になるべきものである。