リストボタンことば    2004/7


189)苦難のとき
私はいっさいの人間的なものを見る冷静な目を、だが、その人間的なところから人間を高めるものを見る目をも、失わないでいたい。しかし、いずれにせよ、私は恐れを和らげてくれる最後の力を知っている。
大きな彫像のように、聖書(詩編)の言葉が心に浮かんでくる。今、それがかつて思いもよらなかったほどに意義深いものとなって現れてくる。
「陰府(*)に身を横たえようとも、
見よ、あなたはそこにいます」(旧約聖書 詩編・一三九・8
心静めている厳粛な時に、私は周囲の友にこの言葉を言い、さらにつぎの別の言葉を添えた。
「しかし、私はつねにあなたと共にある。」(詩編七三・23
(「ドイツ戦没学生の手紙」108頁 一九五四年 高橋健二訳 新潮社発行)

*)陰府とは、旧約聖書で、死者が行くとされていた所で、地下にあり、闇にあるとされていた。旧約聖書には後期に書かれたもの以外には、復活するという信仰はまだなかった。

これは、第二次世界大戦において、ドイツとソ連との戦争のときにドイツ兵として戦場に向かい、捕虜となって衰弱していくなかで妻に宛てて書いた手紙である。この一年後に死亡。戦後になって帰還兵によって妻のもとに届けられた。
この兵士は従軍した医者であった。自分の最期が近づいてくる深い闇と絶望的な状況にあっても、どっしりとした彫像のように浮かび上がってくるもの、それが聖書の言葉であった。ほかの一切がもはや頼りにならないとき、そのような時にいっそう眼前に揺れ動くことなきものとして見えてくるのが神の言葉なのである。
死においても、どのような状況に置かれようとも、神は私たちと共にいて下さるという確信がそこから再び強められる。

190)アシジのフランチェスコの平和の祈り

主よ、私をあなたの平和の道具とし、
憎しみのあるところに愛を
傷つけあうところに、赦しを、
誤っているところに、真理を
疑いのあるところに、信仰を、
絶望のあるところに、希望を、
暗闇に、光を
悲しみのあるところに、喜びを蒔くものとして下さい。
聖なる主よ、慰められるよりは、慰めることを、
理解されるよりは、理解することを、
愛されるよりは、愛することを、
私が求める者となりますように。
なぜなら、私たちが、受けるのは与えることによってなのです。
私たちが(神から)赦されるのは、(人を)赦すことによってなのです。
そして私たちが永遠の命に新しく生れるのは、死によってなのです。

(これは、フランチェスコの名と結びつけられて伝えられた祈りであり、彼の精神をよく反映しているとされる。この祈りは、直接のフランチェスコの書いたもののなかには見られないということであるが、第一次世界大戦中の一九一五年にこの祈りが見出され、以後、「フランシスコの平和の祈り」として広く引用されるようになった。原文を次に掲げておく。)

Lord make me an instrument of your peace
Where there is hatred,
Let me sow love;
Where there is injury, pardon;
Where there is error, truth;
Where there is doubt, faith;
Where there is despair, hope;
Where there is darkness, light;
And where there is sadness, Joy.

O Divine Master grant that I may not so much seek to be consoled
As to console;
To be understood,as to understand;
To be loved, as to love.
For it is in giving that we receive,
It is in pardoning that we are pardoned,
And it is in dying that we are born to eternal life.

89)幼な子のように

神の国は
幼児のごと、己を低くして
信頼一途
受くる者ならでは入ること能わない

人はこれ所詮幼児にすぎず
思いわずらい嘆くは止めて
信じ委ねてただ受けん哉
神は必ず善きものを賜う(内田 正規著「帰りなむ、いざ」17Pより キリスト教図書出版社)

内田 正規(一九一〇~一九四四)は「祈の友」を起こした人。三三歳で召されたが教派を超えた「祈の友」という集まりは今も続いている。「帰りなむ、いざ」とは、今から一六〇〇年ほど昔の中国の詩人の、陶淵明の言葉であるが、内田はそれをキリスト者として、天の国、魂のふるさとに帰ろうという意味で用いている。結核の重い患者として、日毎の病気の苦しみ、家族への負担、将来の不安などさまざまの悩み悲しみに包まれているただなかで、まっすぐまなざしを神に向け、神の万能に信頼していこうという著者の心がここにある。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。