はこ舟 2004年8月 第523号
内容・もくじ
主の慈しみ (詩編百三編より)
出会い
委ねる
聖書に示された希望― 詩編より
人間の力の過信(原子力発電のこと)
ことば
返舟だより
主の慈しみ (詩編百三編より)
わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって
聖なる御名をたたえよ。
わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
Praise the LORD, O my soul; all my inmost being, praise his holy name.
Praise the LORD, O my soul,
never forget all his acts of kindness.
この詩は、百五十編が収められている旧約聖書の詩集(詩編)のなかでも、とりわけ印象的な詩の一つです。
まずこの詩の作者が冒頭にて言っていることは、神への讃美で、自分自身に呼びかけて、主を讃美せよ、主をたたえよという短い言葉の中に、作者の気持ちが凝縮されています。
主を讃美することこそ、私たちの人生の目的と言えます。主を讃美できるということは、自分の現在の生活において、不満がいろいろとあったら到底できない。身近な家族のこと、あるいは職場のこと、自分の病気のこと、将来のこと、また、自分が置かれているところでの人間関係の悩み等々…さまざまのことで私たちは問題を持っています。それらが心を占めているときには、到底神を讃美したりできないことです。
讃美とは、心から満たされているときに生れるものであって、魂の深いところでの満足を神が与えて下さったと実感しないかぎり、神を讃美することはできません。
この詩の作者は、そのさまざまの経験のなかで、最終的にこのように神への深い感謝とすべてが神によってなされたこと、いろいろの苦しみや悲しみもそれらが転じて善きことにつながっていったことを深く実感することができたことがうかがえます。それゆえにこそ、このように、自分の歩みを振り返り、
それらによって神への讃美の心がわき起こってきたのだと分かります。
そのことは、
「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
(そのすべての恵みを心にとめよ)」
という言葉にもうかがえます。神が自分に対してして下さったこと、それは限りなく多くあり、それを一つ一つこの作者は思い起こし、それらがすべて神の大いなる愛の御手によってなされたことを感じているのです。
ここには、使徒パウロが述べた有名な言葉と同様な信仰的経験があったのがわかるのです。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマの信徒への手紙八・28)
一つ一つの出来事が、偶然であるとか単に運がよかったとか悪かったと考えているかぎり、このような大きな感謝や讃美の心は生れてきません。過去を振り返り、そして現在を見つめてなお、数々の困難や苦しみにもかかわらず、それらの一つ一つの背後に神の深い愛の御手があると実感できるようになることこそ、私たちの最終的な到達点だと言えます。
そのようなところを目指していたがゆえに、使徒パウロも、繰り返し次のように書いたのです。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、神があなた方に望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ五・16~18より)
このようなパウロの言葉のもとにある神への感謝の心は、それより数百年以上も昔に、すでにこの詩の作者の心にもあふれていたのだと分かります。神が私たち人間に望んでおられることは、ずっとそれ以来数千年を経た今も変わらないのです。
主はお前の罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。
この作者は、信仰において最も重要なことを述べています。それは、つぎの三つに要約することができます。
罪の赦し、病のいやし、復活の命。
自分が正しい道からはずれているということ、過去に犯してしまった罪のこと、どうしてもあるべきすがたになれないこと、それは罪ということです。その問題こそがすべての根源にありますが、この詩の作者はそのことを深く見抜いていたのがうかがえます。そしてこのような罪と、病気と、死という人間の直面する最大の問題において神こそがその根本的な解決を与えるものであると知っていたのです。
この詩は、キリストよりはるか昔、数百年以上古い時代に作られたものです。 そのような時代にあって、はやくも信仰の上で最も重要なことが体験として記されていることに驚かされます。この作者が神に感謝し、神を讃美できるということは、この三つのことにおいて神が働いて下さった、そして今後も働いて下さるという確信があったからだとわかります。
この作者がまずあげているのが罪の赦しです。キリストが来られたのも、罪の赦しのためであると記されており、聖書全体を通じて深く流れていることだといえます。
心の問題の根源は、人間がすべて罪を持っているということであり、また体の苦しみは病気であり、最終的な闇は死ということです。これら三つのことはこの世のあらゆる苦しみや悲しみ、人間関係の悪化の根源にありますがそうした最大の問題のただなかに神がきて下さって解決の道を与えて下さったというのがこの詩の作者の実感であったのです。
長らえる限り、良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにして下さる
私たちが聖書を手にするとき、しばしば感じるのは、戦争や病、また敵対する者たちなどに絶えず悩まされ苦しめられているそのただ中にあったにもかかわらず、このように「良いもので満たされる」という実感が記されていることです。
有名な詩編二三編においても、
主はわが羊飼い
私には何も欠けることがない
主は私を緑の野に伏させ
憩いのみぎわに伴われる…
私の敵の前であっても
私の杯をあふれさせて下さる。(詩編23より)
これは、深く満たされている魂のすがたです。この地上の生活で、一体誰が何事もすべて思いのままになり、満たされていると言えるでしょうか。どんな人でも絶えず不満や足りないところを感じています。多くの人が望む生活の安定にしても、これで満ち足りているということはなく、絶えずさらなる安定や豊さを求めてやまないものです
。金や権力があっても、さらに上を望み、またそこでは絶えず争いや地位の奪い合いもあります。
そうした地上の生活において、これらの詩にあるように、「生きている限り良いもので満たされ」、「欠けることがない」というような実感は、驚くべきことです。すでにキリストより千年ほども昔からこうした深い満足を与えるのは、神であるという事実を知っていたのです。
主はすべて虐げられている人のために
恵みの御業(義)と裁きを行なわれる。(*)
主はご自分の道をモーセに
御業をイスラエルの子たちに示された。
(*)ここで、「恵みの御業」と訳されている原語は、ツェダーカーで、従来の訳では「正義、義」と訳されていた。新共同訳ではじめてこのように「恵みの御業」と訳された。しかし、英語訳でも righteousness、または justice (いずれも 「正義」の意) と訳されているのが多数を占めている。この箇所は日本語の口語訳、新改訳も「正義」と訳している。 なお、ドイツ語訳も同様で多くは「正義」を意味する訳語が用いられているが、中には新共同訳のように訳しているのがある。Der Herr vollbringt Taten des Heiles,(主は救いの業をなし遂げる)( Einheitsubersetzung )。
当時から今に至るまで不正は至るところにあり、ことに古代のように人権とかが認められていない時代にあっては、人間の差別、権力や武力による抑圧、不当な裁きなど、現代よりはるかに不正が横行していたと考えられます。
にもかかわらずこの詩の作者は、神が虐げられ、圧迫されている人を正しく扱い、不正を裁くお方であると確信していました。なぜそのような信仰を持つことができたのか、それは歴史の流れを見るときに正義の神の姿がはっきりと示されてきたのだと言えます。
それゆえ、この言葉の後に過去の歴史への記述があるのです。一つ一つの出来事や個々の人間をみているだけでは分からないが、歴史の流れを通して見るとき、全体として神は弱き者、圧迫されている者を守り、導いてこられたのを感じているのです。
現在においてもこうした圧迫されている人たちが正しく扱われているのか、という問題は常に心にあります。この問題は、死後のことを考えて初めてたしかに解決がされるので、地上の生活だけを見ているならばどうしても、弱い者たち、圧迫されている者たちが正義をもって扱われているとは思えないことになります。
その意味においても、死後の生活、また地上の命が終わった後における裁きというものがないならば、不正が横行しているだけだという感じが残るのです。
しかし、キリストの時代以降においては、神の本性をもって地上に来られたキリストが目に見えるかたちで弱い者、圧迫されている人たちのところに来られ、そのような人たちに救いを与えてこられたのがわかります。
そして実際にそのような弱い苦しむ人たちが力を与えられ、新しい命を受けてよみがえったようになって歩み始めたという事実が生じました。
その意味で、この詩で言われている言葉は、キリストの時代を預言するものともなっていて、キリストよりはるか昔から神の正義とは弱い者のためになされるものだと言われています。
神の愛の本質は、私たちの過失や欠点、罪全体に対しての赦しだというのをこの詩の作者は深く実感していました。
それはつぎの言葉を注意深く見るとわかってきます。「罪に応じてあしらうことなく、私たちの悪に従って報いることもない」というのは、まさに罪の赦しにほかなりません。
主は憐れみ深く、恵みに富み
忍耐強く、慈しみは大きい。
永久に責めることはなく
とこしえに怒り続けられることはない。
主はわたしたちを
罪に応じてあしらわれることなく
わたしたちの悪に従って報いられることもない。
主は憐れみ深い、何に対してか、それはさまざまのことに対してですが、とくに私たちの罪、本来なら責めて罰せられるような罪に対してです。それゆえ「永久に責めることなく、怒り続けることはない」とあります。
さらに、この詩の作者が神の赦しの愛をいかに深く実感していたかは、次の言葉に鮮やかに表されています。
天が地を超えて高いように
慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
東が西から遠い程
わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
ここには、人間の慈しみ(愛)と、神の愛がいかに無限にかけはなれているかが印象的な言葉で記されています。天は地より無限に高い、そのように、神の慈しみ(愛)は、人間のあらゆる思いや背きを越えて無限に高いというのです。この意味がわかりにくいなら、人間同士の愛がいかに低く、限定されているかを考えるとこの詩の意味がはっきりとしてきます。人間の愛は、肉親とか好きな人や気の会う人といった特定の相手にしか及ばない上、相手を独占したいという欲と結びついていることが多いし、ちょっとした一言や、態度でも簡単に冷えてしまい、憎しみに変ったりするものです。それはいわば、地面にくっついているような低い感情です。それに対して神の愛はいかに人間が背いてもまた気付かなくとも、また、どんなに小さい存在であって弱く病気などで人から無視され、退けられているようなものにも、変ることなく注がれているものです。それは主イエスがたとえたように、太陽のようなものです。万人に無差別的に注がれています。そのような愛だからこそ、それは天が地を越えて遥かに高いのと同様だと言われているのです。
そして神の愛がそれほどまでに測り知れない高さと深さを感じさせるのは、この詩の作者が自分の深い罪が赦されたということがもとにあったのです。主イエスはつぎのように言われました。
少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。(ルカ福音書七・47)
このことから、深い愛を持っている者は、多く赦されている者だと言えます。罪の赦しのことを、東が西から遠いほどに赦されていると表現したのは、それほどの深い赦しの実感があったのだということです。罪を遠ざけて下さる、それはあたかも罪などなかったようにみなして下さるということです。このような深い罪の赦しの実感は、はるか後になって、キリストが十字架にかかって万人に開かれたのですが、それよりはるか昔にすでにこのように、罪が完全に赦されたという体験を深く味わっていた人の証しがここにあるのです。
それほどに人間の汚れや闇が洗い流され、清められたときには、そこに神の新しい力と祝福が注がれてきます。人間は本来は、土のように汚れた存在、そして聖書の書かれた地方においては、砂漠地帯がすぐ側にあり、草が乾燥した初夏の熱風にたちまち草も枯れてしまうように、人間もごくかんたんなことで死んでしまう。そんなに取るに足らない存在であるにもかかわらず、神は測り知れない慈しみを注いで下さる。しかも永遠にそれを注ぎ続けて下さる。
人間のはかなさに比べていかに神の慈しみは無限であるか、永遠的であるかを深くこの詩は告げています。
そのように神の永遠を知った者は、その神の支配の力が全世界に及んでいるのに気付くのです。
主は天に御座を固く据え
主権をもってすべてを統治される。(19節)
悪のはびこるこの世にあって、権力や武力をもったものが支配しているかのように見えるにもかかわらず、この詩の作者は、その背後に神が厳然と支配の力を保持して、全世界を支配されているのを知らされたのです。
それゆえ、この詩の作者は、自分の罪の赦しという極めて個人的なところから出発し、そこから歴史のなかにおける神の導きと慈しみ、さらにその神の愛の無限に高く広いことへと導かれ、全世界の支配をいまもなさっている神を知らされていくのです。
そして人間の最後のあり方ともいえる、神への感謝と讃美へと導かれていくことでこの詩が結ばれています。
御使いたちよ、主をたたえよ…
主の万軍よ、主をたたえよ(*)
御もとに仕え、御旨を果たすものよ。
主に造られたものはすべて、主をたたえよ
主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。
この最後の部分に見られるように、この詩の作者は、世界のあらゆるものに向かって主への讃美を呼びかけています。それはこの世の被造物のすべて、夜空の星々や太陽、地上の草木や山々、空の雲や大空などいっさいが神への讃美を歌っていることを作者が何らかのかたちで実感していたからだといえます。
それらが単なる物体だとか思っているときには、このような神への讃美を呼びかけるということはあり得ないことです。天地のさまざまのものが、この詩の作者と魂が響き合い、通じるものがあり、すでにこの作者が宇宙万物が神への讃美を歌っていることをほのかに実感していたからこそ、このように呼びかけることができるのです。
闇と悪のただなかの現実の世界にあってこのように、真実なる神への讃歌を歌うことができるのは、まことに神がこの作者の魂のなかに深く入り、その罪を赦し、それを純化し、神への讃美の霊を注いだからだといえます。
現代に生きる私たちにおいても、この作者と同様な歩みが与えられることが可能であり、それゆえにこそ、この詩編は永遠であり、神の言葉だと言われているのです。
(*)万軍とは、万象(あらゆる事物)とも訳される。天地のすべてのものを表したり、天使たち、または夜空の星々なども表す言葉。万軍の主という表現は旧約聖書では255回も使われている。これは、軍という言葉があるために、なにか軍隊にかかわるかのような誤解をまねきやすいが、「宇宙の万物を創造し、支配されている神」という意味。