出会い 2004/8
私たちが小さいころから実に多くの人に出会ってきた。第一の出会いは母であり、その体内に10か月ほども住んでいたのである。そして生れてからはまず、両親、医者や看護師たちと出会う。
それから無数の人々と出会いつつ、大人になっていく。
しかしその間、いったいどれほどが私たちの魂の成長によい影響を及ぼしているだろう。
いじめをする同級生もある、そうした人間に出会って、一生が変わってしまう人もいる。
私たちはそうした無数の出会いがありながら、自分の魂にいつまでも印象に残るよい影響を与えたという出会いは、数えるほどしかないであろう。
私は小学校時代には心に残る出会いはあまり思い出すことができない。しかし、中学のとき、国語の物静かな先生が、ヒルティの「眠れぬ夜のために」という本を紹介して、自分が眠れないときにこの本を読むのです、と言ったことが今も頭に残っている。
そして大学に入学してからは、たくさんの学生との出会いがあったなかで、同じ理学部のある友人とは特別に親しくなり、なんでも話せる間柄となった。当時激しい活動が繰り広げられていた学生運動や政治社会的な問題についても、専門の学びについても下宿に相互に行っては長時間語り合った。彼の異性の友人のことなども話されたし、一緒に何週間もかけて、隠岐島に滞在、山陰の大山登山もしたりした。しかし、後に私がキリスト信仰を持ったとたんにそれまでの親しさにもかかわらずたちまちその友人とは話しが合わなくなってしまった。
大学三年のとき、私は激しい学生運動に次第に関心を深めて行ったが、そのとき、一人の同じ理学部化学科の学生運動にかかわっていた一人の女子学生Mさんから熱心に理学部学生自治会委員になって欲しいと頼まれた。彼女が継続してやりたいのだが、病気がちになってどうしてもできなくなった、それで私にぜひともなって欲しいというのであった。
私は当時のまじめな理学部の学生に多かった民青系でも、その他の左翼系でもなく、当時の学生としては珍しくギリシャ哲学に傾倒しつつあった学生なのにどうして私に繰り返し依頼してきたのか不思議であった。彼女はそれまでの、学生間のいろいろの議論や討議での私の発言などに関心を持つようになっていたようだ。
私はアルバイトと奨学金で学生生活を送っていたから、実験や勉強の時間がほかの学生と比べていつもかなり少なくなっていたので、時間がなく、そんなことはできないと断ったが、何回も、しかも何時間もかけて話しをもちかけられた。彼女は左翼(民青系)の学生でその真実な姿勢が心に残っている。私は彼女のその熱意によって1年間だけ、自治委員として学生運動にかかわることになった。なお、Mさんは理学部卒業の後に、法学部に入学していまは弁護士となっている。
こうして私は学生にも教授たちにも本当の出会いがなく、心の出会いのある真の友を求め続けていた。そのとき私は主イエスに出会った。その当時はしばしば左翼系の学生と議論しなければならないので、マルクス主義関係の本も読んでいたのだが、そのとき、「マルクス主義とキリスト教」という本をたまたま古書店で見出した。その著者が矢内原忠雄であった。そのとき初めて矢内原という名を知った。その名を覚えてしばらくしてやはり本を探していて古書店でたまたま同じ矢内原忠雄の小さい「キリスト教入門」という本を何気なく手にとっていくつかのページを何の気もなく立ち読みしていたとき、十字架のキリストのことを書いたわずか数行で私はキリスト者になった。
私の魂に突然なにかがひらめき、不思議なインスピレーションともいうべきものがあったのである。 私は当時、キリスト教とか宗教全般にわたってまったく関心もなく、学生や教授たちも誰一人キリスト教のことを話題にするものなどいなかった。
マルクス主義など無神論の洪水のような状況のただなかで、私はそれと真っ向から対立するキリスト信仰に出会い、神を信じるように呼び出されたのであった。
あのMさんが私に嵐のような混乱のただなかの学生運動をリードする自治会委員になって欲しいと不思議に思うほどに嘆願してきたのは、なぜだったのか、ずっとわからなかった。
しかし、現在ではそれらもすべて驚くべき神の御手によってなされていたのだということを感じるようになった。
こうして私はまもなく、今も生きておられる方であることを確信するに至った。
そしてそのキリストを伝えるべく、高校教員となって生きたいと願うようになった。それまでは人類の将来と科学技術の問題がどうしても頭にあって将来をどう考えたらよいのかわからなくなって悩み抜いていたのであった。
それからさまざまの信仰の人に出会い続けて今日に至っている。
キリストは出会いをあたえて下さる御方である。
私は高校教員として、定時制高校(昼間、夜間)、全日制高校に勤務し、また導かれるままに盲学校やろう学校などの教員ともなって、さまざまの障害者とも出会いが与えられ、同僚の教員や生徒たちにもキリスト信仰を中心としてさまざまの出会いが与えられてきた。
キリスト信仰を与えられるまでは、いくら求めても真の出会いはなかったのに、神を信じるようになってから、求めずして次々と与えられていった。
まず神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものは添えて与えられる、という主イエスの約束はこのような方面においても真理なのである。
そして身の回りの自然においても、以前には感じなかった出会いを、感動を与えられることが続いている。自然との真の出会いは、その背後におられ、それらの自然を創造された神とのいっそう親密な出会いにもつながっていく。
そして最終的には、私たちは万物の根源であり、あらゆるよき人間や美しい自然の根源である神とキリストに顔と顔をあわせてお会いできるということが約束されている。