聖書に示された希望― 詩編より 2004/8
わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。(詩編六二・6)
わが魂は黙してただ神をまつ。わが望みは神から来るからである。(口語訳)
For God alone my soul waits in silence, for my hope is from him.(NRS)
この短い言葉が、旧約聖書における希望の本質を表している。この言葉の前に、「あなた方はいつまで人に非難を浴びせ、傾いた石垣を倒そうとするように、一緒になって倒そうとするのか」という言葉がある。この詩の作者がこのように真剣に神を仰ぎ望み、神を待ち望むのは、この人の周囲に作者を滅ぼそうとする敵意に満ちた状況があったからである。
切実な希望はこうした苦しみや悲しみに打ち倒されそうになっているときに、輝き始める。
本来ならば、望みが消えてしまいそうなときにこそ、聖書における信仰者はその希望にどこまでもすがろうとする。
この箇所で「希望」と訳された原語は、「待つ、熱心に期待して待つ」といった意味がもとにある。この箇所のギリシャ語訳が、「忍耐 hupomone」と訳される言葉を用いていることも、この原語のニュアンスを補うものである。
どのようなことがあっても、神への信頼をやめない、苦しみのなかであっても、忍耐をもって神を待ち続ける心がここにある。
このような揺るがない希望、忍耐とむすびついて待ち望む姿勢は、旧約聖書のなかではとくに詩編にはっきりと見られる。詩編は具体的な地名や人名、時代、社会的状況などのことが分からなくとも、その直接的な言葉によって数千年を経た今日でも私たちの心に近く呼びかけるものとなっている。
深い淵の底から、主よ、あなたを呼ぶ。
主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。…
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええようか。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬う。
わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望む。
わたしの魂は主を待ち望む。
見張りが朝を待つにもまして
見張りが朝を待つにもまして。
イスラエルよ、主を待ち望め。
慈しみは主のもとに
豊かな贖いも主のもとに。
主は、イスラエルを
すべての罪から贖ってくださる。(詩編一三〇編より)
このように、この詩においても、この作者は深い淵に置かれ、希望が消えてしまうような時に、そこから神に向かって叫び、祈り語りかけている。
ここで深い淵とは何を意味しているであろうか。
それはこの詩にあるように、重い罪を犯したということである。人間はだれしも罪を犯している。この世のさまざまの問題は、罪を犯したことにある。新聞やテレビで報道されるような犯罪から国家間の戦争、あるいは、個人の間におけるさまざまの問題、それらの紛糾はみんな究極的には人間の罪にある。
神の前で、真実であり得なかったこと、自分の欲望や人間的な考えのゆえにまちがったことを言ったり行なったりしてしまうこと、そうした罪があらゆる問題のもとにある。
この詩の作者がどんな罪のゆえにこのような、深い淵にいると感じたかは分からない。しかし正しい道から遠くはずれていることに気付いたとき、それが人間関係にも致命的な問題を起こし、もう二度と元にもどらなくなったことがあるとも考えられる。そこからかつてない苦しみと悩み、悲しみの淵に陥っていく。そしてその苦しみの中から、いかに自分が犯した罪が重く深いものであるかを思い知らされていく。
もし健康であり、家庭や職場での人間関係もうまくいっていたり、職業的にも恵まれていたらこうした深い罪の意識は生れなかったであろう。
人間はやはり何かの大きな苦しみや悲しみに出会ったとき、はじめて真剣に自らの問題をも考えはじめるからである。
それは新約聖書においてペテロが、キリストとともに三年間を過ごし、主イエスの数々の奇跡を見たり、教えを実際に身近に聞いていたときには、自分の罪が分からなかった。福音書においてもペテロなど十二弟子たちが主イエスが捕らえられて十字架につけられる時までは、彼等が罪を深く知ったということは、書かれていない。逆に自分をイエスの右左において欲しいといったこの世の欲望と同じ地位の高さを求めるなど、それが罪だということすらわかっていなかった。
このように、いかに偉大な教師の側でいたとしても、罪を深く知ることはできるとは限らない。奇跡を見たからといってやはり自分の罪を深く知るようには必ずしもならない。
ペテロたちが実際に自分たちの罪を知ったのは、主イエスが捕らえられるときに逃げてしまったこと、ことにペテロが三度も主イエスを知らないと言ってしまったときに初めて深く自分の罪を思い知らされたのであった。
真理や愛、正義などを十分に三年間も直接にイエスから学んでもなお、それまで受けた大いなる導き手であるイエスを全く知らないなどと言ってしまうほどに、人間は自分で自分の罪の深さが分からないのである。
そしてもう二度と元に戻せないような結果を生んでしまう。自分が何年間も絶大な恩を受けた人を全く知らないなどと、いえばふつうはその人とはもうどうすることもできない溝を作ってしまうであろう。
私たちの場合も人生の歩みのなかで、数々の問題や苦しみが生じるのは、たいていはそうした罪の問題があるからである。
罪こそは私たちの歩みの中に、自分や他人に対して落とし穴を作り、脇道を作り、深い淵へと落ち込ませるものである。例えば、ある重要なことで嘘をついたなら、その嘘が重大なものであるほど、双方の人間関係は致命的となって破壊される。罪はこのように、自分の内なるよきものだけでなく、他人との間にある善きものをも壊していく。
こうしたどうにもならないところをこの詩の作者は「深き淵」と言っている。
しかし、このような深き淵にいるのは、この詩の作者だけであろうか。
そうではない。人間はみんなこのような罪を犯したゆえの深い淵にいる。パウロがローマの信徒への手紙で述べているように、
では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるだろうか。全くない。ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある。
次のように書いてあるとおりである。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。…」(ローマ三・9~12より)
こうした見方は私たちの常識ではない。世間の常識では、悪い人、罪人もたくさんいるが、よい人もたくさんいるのであって、みんなが罪を犯しているなどということは全く言われないことである。
たしかに人間的な見方からすれば、そのように言える。しかし絶対的な正しさや無限の神の愛、清さという点から見るとき、人間のなしていることは罪にまみれている。心の奥深いところまでそうした清さや愛で満ちているとか正しさばかりであるなどということは考えられないことである。
人間は自分や他人のこと、社会や世界のことで何が正しいのか、間違っているのかということすら、正しくは分からないのであるから、本当に正しいことを考え、感じ、それを行なうということは本来できないことなのである。
このような罪ふかき本性をもった自分はどうしたらいいのか、そのまま裁かれ、滅びていくほかはないと思われる、それがこの詩の作者の深き淵にいるということである。それは正しい神からどこまでも離れてしまっているという意識である。
しかし、この詩が私たちに告げているのはそのような深い淵から私たちは叫ぶことができる、そしてどんなに深い罪を犯して取り返しのつかないことになっても、それでもそこから叫ぶことができるということである。
聞いてください、私のこの叫びを、罪を犯したこの私を、他人にも取り返しのつかないことをしてしまったこの私をどうか赦してください、と叫ぶことができる。
それは聖書の世界に住むことを許されたもののいわば特権である。
もしこのような叫びをあげる相手をもたなかったら、私たちは犯した罪の重さのゆえにどこまでも深い淵のなかを落ち込んでいくしかないであろう。
主よあなたが罪をすべて心に留めるなら
主よ、誰が耐えることができようか
しかし、罪ゆえに魂が縛られ、深い淵に沈んでしまい、心が前に進むこともできなくなったときであっても、赦しは神にある。赦しによって私たちの心を縛っていたものはなくなっていく。そこに自由が与えられる。それは縛られた魂がたしかに解放されたという実感である。
このような古い時代において、神は私たちの心の最もどうにもならない問題を解決して下さる御方であるということがはっきりと記されていることに驚かされる。
赦しを神から与えられるとき、人間からは依然として評価されず、憎しみや軽蔑を受け続けているとしても、深い安らぎの心が与えられる。それは何にも代えることができない。それはどんな地位や権力、金の力をもってしてもできないことと実感する。
それゆえに、神への畏れはここから生じる。神の絶大な力を実感することがなかったら、神への畏れは生れない。ここでいう神への畏れとは、恐怖とは全くことなる感情であって、絶大な力を持つ御方への深い敬意と愛の溶け合った感情である。魂の最も深いところでの出来事がなされてはじめてそのような感情が生れる。
そして罪の赦しという深い体験から、どのようなことに対しても希望を持つ心が生れる。罪の赦しこそは、人間が神の力を実感する最も深いものであるからである。それゆえ、この詩にはつぎのような強い希望の心が繰り返し記されている。
わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望む。
わたしの魂は主を待ち望む。
見張りが朝を待つにもまして
見張りが朝を待つにもまして。
私たちが弱くつぶされそうになったときにも見捨てないで、赦し、力を与えるという神の愛を本当に知ったとき、私たちには希望が生れる。この世はたしかに闇があり、苦しみがあり、どこに行っても悩みがある。そして最後には病気や死が待ち構えている。
そこには希望が次々と壊れ、消えていくしかないように見える。そのただなかに神は希望を見出すようにして下さっている。
いかなることがあっても壊れないような希望、それはこのように罪赦されたという実感から自然に生じるのである。
これは通常の希望といかに異なっていることであろうか。ふつうの希望は、自分のうちなる深みからでなく、外側をまず見ることから生じている。友達をもちたい、容姿がきれいになりたい、パイロットや野球の選手になりたい、いい大学に入りたい、健康とかよい結婚への希望などなど、それらはみんな自分の心の深いところとは関係なく、外側のものを見てそれをたんにほしがるという気持ちなのである。
しかし、外側のそうしたものは時間が経てば消えていくし、たいてい自分の手の届かないところにある。またそれらは偶然や他人の意志で変わってしまう。
しかし、罪赦されたところから出発する希望は、自分という最も身近なところから出発するゆえに、強固なものとなる。
罪を赦すような愛、万能の力それを自分にもまた他人にも豊に与えられるようにとの願いが生じる。そしてそのような万能の神が自分の直面する病気や人間関係、また将来のことなどさまざまの問題についても希望を持つようにとうながしてくれる。
他人のこと、世界のことについてもその万能のゆえに希望を失うことがない。それゆえこの詩の作者も、自分の罪赦された経験から、他者へとその心が広がっていく。
イスラエルよ、主を待ち望め。
慈しみは主のもとに
豊かな贖いも主のもとに。
主は、イスラエルを
すべての罪から贖ってくださる。
自分の同胞にも、豊かな罪の赦しを与えられる神を待ち望め、と呼びかける心が生れる。それは深き淵にいて、もう絶望的な苦しみにあえいでいた魂といかに異なる状況であろう。
深き淵、それはこうした罪のゆえでない場合も多くある。病気や事故、あるいは家族の離反、そして職業上での困難や、人間との対立などなどである。
ことに病気が重くなってくればそれは耐えがたい苦痛と将来への不安、すべてが失われるという悲しみ、他人に大きな負担をかけるという心の重さなどが幾重にも取り巻くことで深い淵に落ちていくように感じることであろう。
こうしたとき、本当に神への叫びをあげるときに主は聞いて下さる。
しかし、そのときでも、そのような苦しみを通して自分の罪を知ることが求められている。
主イエスも、中風で寝たきりの苦しい生活をしてきた人が担がれて主の前に、家の屋根をもはいでつり降ろしたとき、意外にも「あなたの罪は赦された」と言われた。彼等は自分たちの仲間が中風で苦しんできた、もう絶望的なほどの苦しい生活のゆえに必死でイエスを信頼して遠くから運んできた、そこには彼等自身の罪の意識はなかったであろう。しかし主イエスは彼等の主イエスへの信頼のゆえに、彼等自身も気付いていなかった人間の根本問題に御手を触れて下さったのである。
また、サマリアの女が井戸のそばでイエスと話して、永遠の命の水を下さいと求めたとき、主イエスは彼女の過去の罪を明らかにされた。罪を犯してきたということに立ち返ることなしに、いのちの水は与えられないからである。
私たちがいかに深い淵、暗黒の淵に置かれようとも、主は必ずその愛する者のためにそこから引き戻してくださる。そのとき、私たちが自分の罪を深く知れば知るほど、そこに与えられる赦しをもいっそう深く感じ、そこから生れる希望も揺るぎないものとなるのである。