人間の力の過信(原子力発電のこと) 2004/8
関西電力の原発、美浜三号機の配管破断事故で、死者四人、負傷者七人という日本の原発史上最大の事故が生じた。そうした事故はアメリカで、一九八六年にすでに生じており、美浜三号機と同様に、配管が破断して高温の蒸気が噴出し、四人が死亡、八人がやけどをしたことがあった。
しかし、その後関西電力は報告書で、「日本の原発では徹底した管理が行なわれており、そのような事故は生じないと考えられる。また、配管が磨耗して薄くなってしまっているかどうか膨大な箇所の検査をした」という内容の報告書を国に提出していたという。
かつて、阪神大震災のときにも、その一年程前にアメリカのロサンゼルスでの大地震で高速道路の橋桁が崩壊したとき、日本の技術者は、日本ではあのようなことは決して起きないと自信にみちた調子で語っていた。しかし、現実にはそれよりはるかに大規模に高速道路の橋脚が倒壊し、橋桁が落下して甚大な被害が発生したのであった。
今回の原発の事故に、アメリカのスリーマイル島原発の事故のように、さらに別の安全システム上の事故が重なったなら、重大事故である炉心溶融(*)ということにまでつながりかねない重要な事故であった。
このように、科学技術への過信は場合によっては取り返しのつかない事態を招くことになる。
多くの科学技術者や、それを用いる政治に関わる人間たちは、人間のすることはすべてきわめて不完全であるという基本的な認識ができていないことがしばしばある。今回の破断事故も、破断したところが点検リストに入っていなかったということであり、ほかにもそうした点検リストからもれている箇所が多数見つかっている。
厳密に正しく検査をしようとすれば、膨大な数の点検をしなければいけないのであって、それらを完全にするかどうかは、下請けの会社の誠実さにもかかわっている。いくら電力会社の首脳部や技術者が命令したところで、最終的に保守点検をするのは人間であり、その人を動かすのも人間であり、その人間は疲れも生じるし、勘違いもある。またときには嘘もつくし、安楽を求め、楽に収益を得ることを考える傾向がある。
それゆえ、どんな精密な科学技術であっても、個々の人間のなかに宿るそうした不真実な本性があるかぎり、今後もいかに検査などを徹底すると言ってみても、絶対安全などということはあり得ないのである。
このようなことはごく当たり前のことであり、だれでもわかっているはずのことであるが、いつのまにか、「絶対安全」だとかいう言葉が発せられるようになっていく。そして事故が起こってからいろいろの間違いや手抜き、嘘などが発覚する。
もしも、日本の原発でチェルノブイリのような重大事故が生じたら、日本では人が狭い国土に集中しているために、死者や病人がおびただしく発生し、国土は放射能で汚染され、大混乱に陥って農業などの産業、経済や交通などにも致命的な打撃が生じることが予想されている。
また、日本ではロシアのように別のところに大挙して移住するところもなく、住むところもなくなる人が多数生じるという異常事態になるであろう。
だが、日本ではそんなことは生じないなどと、何の根拠もないのに、断言するような電力会社や科学技術者、政治家もいる。しかし、過去の原発事故の歴史や、今回の事故を見てもそのような断言は虚言に等しいといえる。
そうした綱渡りのような危険な原発を止めることを真剣に取り上げ、そのためにはどうすればよいのかということを真剣に考えていくべき時なのである。
人間の弱さがこうした社会的な問題にもその根底にあり、その弱さや不真実、利益、金第一主義といった本性をいかに克服できるのか、それが根本問題である。
このような人間の奥深い性質に関わることは、どんなに科学技術が発達しても少しも変えることはできない。
社会的な汚れと混乱を声高(こわだか)に非難してもそれを言う人自身のなかにも同様な汚れ、罪がある。
現代の科学技術は、はるか数千年の昔に書かれた創世記にある、バベルの塔を思い起こさせる。
彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。」(創世記十一・4より)
この素朴な言葉を表面的に読むだけでは、単なる神話か、昔の空想的物語にすぎないと思う人が多いだろう。
しかし、創世記は随所に以後数千年にわたって真理であり続けるような内容が、それとなく秘められている。
ここでも、数千年前のメソポタミア地方で最も貴重な技術的産物が、大きな塔であった。それがバベルというところにあったために、バベルの塔というように言われるようになった。
当時の技術がすすんで、石の代わりに、自然にある土を用いて建築材料とするレンガを造り出し、アスファルトをも得て、高い塔を作り、天にまで届かせようと考えたという。
現代でこれにあたるのは、科学技術のさまざまの産物であり、それらは、人類を破滅に導くような核兵器や、、クローン人間を造るとか、自然界にない動植物を造り出すことなど、危険なものも今日では数多く現れている。人間の精神まで、科学技術が進んだら左右できるのではないかなどということすら言われている。
しかし、そうした科学技術とその産物はいかにもろいものであるか、また人間がそうした科学技術の産物に頼り、それらは絶対安全だなどと言い出したとき、人間がみずからの醜さ、弱さや無力を忘れて、何となく神の座に座っているのと同様である。
私たちはつねにまず第一の出発点は私たち自身にあることを知り、私たちの内部のそうした不純、罪を赦され、清められ、そこから新しい力を受けるという原点に立ち返ることこそが、基本になければならないと思う。
キリストが来られたのは、まさにこの最も困難な問題の解決のためなのであった。
自分自身がまず、そのようにして内部の罪から解放され、神の国のために生きるようになっていくこと、それが私たちのなすべきことであり、また信仰によってなすことができることである。
この世の全体としての状況は、最終的には神ご自身が導かれるのであってそれを私たちは信じて生きることが求められている。
キリストが人間の罪の赦しため、罪の力から引き出すために地上に来られたという意味は、現代の世にあってますますその意義を深めているのである。
(*)炉心の核燃料が融点を超えて溶融する原子炉の重大事故。一九七九年三月に米国スリーマイル島2号機で起きた事故では、原子炉炉心の約半分が溶融した。さらに一九八六年にソ連のチェルノブイリ原発で起こった原子炉の炉心溶融(メルトダウン)は、全ヨーロッパに放射能をまき散らした。この事故以降、この原発周辺の広大な地域で、数万人が放射能に関係のある病気で死亡している。この事故によって生じた甲状腺ガン患者は二千人近いと言われている。またこの原発事故により広島原爆の六〇〇倍ともいわれる放射能が北半球全体にばらまかれ、日本の国土でいえば五〇%にも及ぶ広大な地域が汚染され、数多くの人が放射線を受けることになった。被災三国(ベラルーシ、ウクライナ、ロシア)だけでも九〇〇万人以上が被災し、四〇万人が移住。六五〇万人以上が汚染地に住み続けている。
福井県の原発で炉心溶融のような大事故が生じると、京阪神の大都会をすぐ近くに控えていることから、ロシアのチェルノブイリ事故をはるかに上回る死者と、一〇〇万人を越えるガン患者が生じるとも想定されており、その場合の被害の甚大さは、阪神大震災などとは比較にならない。