ことば 2004/9
(192)私が今死ぬことになれば、私の死後、友たちがみ言葉を熱心に求めることしか彼らには勧めない。
なぜならまず神の国を求めるべきであり、私たちは自分が死ぬときに、妻や子どもたちのことを心配すべきでないからである。
「これらのものはみな与えられる」とある。神は私たちを決して見捨てない。(「卓上語録」 ルター著 教文館)
・ルターは最期のときであっても、周囲の人々に対して「み言葉を熱心に求めよ」というのが願いであったのがわかる。まず家族のことでなく、まず周りの人たちを支える神の言葉を求めるべきとした。現代の私たちも同様に言える。まずみ言葉を求める、それは生きたキリストから直接に与えられる霊的な言葉であるとともに、聖書に書かれた神の言葉をも意味する。
(193)… 稲光がするどく光った。こだまする雷鳴の響きで
天には神がいまして、神が創造した世界を支配していると思わせられた。
その時、かつて聞いたことのある、天の正義の話しを思い出して、
悩む心も、なごみ和らぎ、朝まで平和の眠りについた。
(「エヴァンジェリン」ロングフェロー作 (*)岩波文庫版48P )
Keenly the lightning flashed;and the voice of the echoing thunder
Told her that God was in Heaven,and governed the world He created;
Then she remembered the tale she had heard of the justice of Heaven;
Soothed was her troubled soul,and she peacefully slumbered till morning.
・エヴァンジェリンが、悩み悲しめるときに雷鳴がひとときの平安を与えた描写。重荷をかかえた心にとっても、ときにこのような稲妻と雷鳴が神の力と支配を思い起こさせる。そしてその苦しみを鎮める働きをする。自然は不思議な力をもっている。多くの人にとっては単に恐れでしかないような雷の現象や、そのほかの様々の自然のすがたや現象も、神に向かうまなざしを持った者には、新しい啓示や神からのメッセージとして実感する。この詩は私が三十五年以上も前に読んだが、そのときに美しく静かな自然描写、そして人の心の動きに強い印象をうけたのを思い出す。
(*)ロングフェローは、一八〇七年アメリカ生まれ。「エヴァンジェリン」は十八世紀の半ばから終わりにかけて、イギリスとフランスが新大陸の支配を争った時代の長編詩。フランス系の移民村の若き女性エヴァンジェリンは生き別れとなった夫の跡を尋ねて広いアメリカのあちこちをさすらった。著者のロングフェローは、ハーバード大学で教鞭をとった学者であったが、アメリカの生んだ最初の大詩人として知られている。この詩は私が三十五年以上も前に読んだが、そのときに美しく静かな自然描写、そして人の心の動きに強い印象をうけたのを思い出す。
(194)…私は今度のマラッカ(*)への旅に、神が絶大な恵みを与えて下さることを希望している。どうしてかというと、私をあの国々に送るのは、神ご自身であることが私には示されたが、そのとき、私に深い平安とあふれるばかりの慰めを与えて下さったからである。
私は神が私の魂に示して下さったことを、必ず実行しようと固く決心している。…
万一今年中に船がマラッカに行かないようならば、敵対するような者の船に乗ってでも、あるいは不信の者の船に乗ってでも出発する。またもしここから今年中に出発する船が一つもなく、ただ漁師の小さい舟しかないとしても、神の愛のためにのみマラッカに行く私は、その小舟に乗ってでも行こうと考えている。
それほど私は神に絶大な信頼を置いている。なぜなら、私の希望はことごとく神にあるからである。(「フランシスコ・ザビエル書簡抄 」上巻210P 岩波文庫 」)
(*)マラッカとは、マライ半島南部の町。これは日本に初めてキリスト教を一五四九年に伝えたフランシスコ・ザビエルがインドから書いた手紙の一部。ザビエルがどのような気持ちではるかヨーロッパから、アフリカを周り、インドなど東洋にまでキリスト教を伝えようとしたかがうかがえる。使徒言行録におけるパウロのように、ザビエルは自分を遣わしたのは神であるとの確信を持っていたのが分かる。そしてそのゆえにインドから、三千キロ近くも離れた遠い地(マラッカ)へと、どんな危険が伴おうとも、その神の言に従おうと決心している。神への愛のために前進し、神にすべてを委ね信頼して進んでいくキリストの使徒としての姿が浮かび上がってくる。