私たちに与えられるもの 2004/12
聖書には、簡潔に神の本質を表している言葉がいろいろある。
神は愛である。(ヨハネ第一の手紙四・16)
これはその中でもとくによく知られたものである。そしてこれは二千年の間、どれほど多く引用され、どれほど多くの人の心を動かしてきたことだろう。
しかし、これはさらに別の真理をも指し示している。神は愛なら、神の最もよい御性質を私たちに分かち与えて下さるであろう。愛とは、最も大切なものを分かとうとするからである。神は愛だからこそ、最も大切な一人子を私たちのために与えて下さった、十字架に付けることで、私たちの罪の罰を身代わりに受けて赦して下さった。
それゆえに、神は愛なら、その愛自体を私たちに与えようとして下さる。そして最終的に、私たち自身が愛でありうるように導いて下さる。
「神は愛である」ならば、究極的には「人は愛である」と言えるように導いて下さる。
また、神は光である。
主イエスも次のように言われた。
「わたしは世の光である。」 (ヨハネ福音書八・12)
とすれば、私たちにもその光を分かち与えて下さるであろうことが、予想できる。
そして確かに、主イエスは言われた。
わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(ヨハネ八・12)
それゆえ、「神は光である」とともに、「人も光である」と言えるようにならせて頂けるというのであり、だからこそ、主イエスは「あなた方は世の光である」(マタイ五・14)と言われたのであった。
さらに、神は不滅の栄光をもっている。それゆえ私たちにもそれを分かち与えて下さる。
わたしたちは皆…、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく。(Ⅱコリント三・18)
罪にまみれ、愛も正義もきわめて弱い程度にしかできていない者であり、たえずつまずいたり、自分中心となったりしてしまう者であるにもかかわらず、そのような人間が、驚くべきことに、主と同じ姿に造りかえられていくという。主は神と同じ姿となっておられるゆえ、私たちは神と同じすがたに造り変えられていくということが言われている。
神は栄光に満ちた存在である、そして私たちもまたそのような栄光に満ちた存在と変えて下さるということになる。
また、罪の赦しということは、旧約聖書以来ずっとただ神だけが赦しの力を持つということは明確に言われている。しかし、ヨハネ福音書には、驚くべきことに、キリストと深く結びついた魂には、罪の赦しの権威すら与えられると言われている。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。 (ヨハネ二〇・23)
また、神は永遠である。人は草のように枯れる、と言われている。
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。(イザヤ書四十・7)
しかし、新約聖書の時代になってから、そのようなはかない存在である人間に永遠の命が与えられて、死んでも死なない存在になると約束されている。
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(ヨハネ五・24)
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ十一・25~26)
このように、人間のはかなさや汚れ、あるいは弱さにもかかわらず、キリストが地上に来られてからは、その取るに足らぬ人間に絶大な賜物が与えられることが約束されている。この世は自然のままでは、次第に持っているものが失われていく。若さ、力、健康、家族、職業、友人等々年齢と共に次々と失われていく。
それはもの悲しく憂いをもたらすものである。
キリストはそうしたあらゆる悲しみや闇に打ち勝って変えていくことを約束して下さっている。聖書はなぜ偉大なのか、キリストはなぜ永遠に続くのか、それは枯れ草のように、あるいは土くれになってしまうものでしかない人間に無限の賜物、神だけが持っていたような数々のよきものを下さるからである。
たしかに新約聖書では、人間にあらゆる良きものを与えて下さるということが記されている。
…すべては、あなたがたのものである。…世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのものである。(Ⅰコリント三・21~22)
こうした箇所はあまりに内容が私たちの予想を越えているために話題にすらならないことが多い。キリスト教というと、何となく押しつけがましい教えだ、実行もできないような教えを持ち出されるなどといってそのような教えがキリスト教だと思っている人が多い。しかし、そのような単なる教えでどうして人間の深い魂の飢え渇きが満たされようか。
キリストを信じることにより、限りなく与えられるゆえにそこから離れようとはしなくなるのである。私自身の経験から照らしても、信じてまず与えられたのは、罪の赦しであった。それまでの憂うつな重い心が軽くなったことである。そこから今日までどれほど多くのものが与えられてきたことであろう。
キリスト教といわれる信仰は、このように、あらゆるよきものをただ、キリストを信じてその言葉に従っていく願いを持っているだけで与えられるという深い内容を持っている。たしかに長くキリストを信じて生き抜いた人ほど、このように次々と与えられていくのがキリスト者としての生活だと実感できるようになる。
…わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に万物をわたしたちに賜らないはずがあろうか。(ローマ八・32)