リストボタン導きの星 2004/12

十二月はクリスマスと結びついた月である。クリスマス(*)とは、キリストへの礼拝の日であり、二千年あまり昔に、キリストが地上に来られたことを記念し、さらに現在の私たちのところにも来て下さっていることを感謝し、さらに現在の世界のあらゆるところにキリストが来て下さるようにと祈り願う日である。
このような本来の意味においては、キリストが来て下さることを祈り願うことはキリスト者の絶えざる祈りであるので、十二月だけでなく、一年を通して、クリスマス(キリストへの礼拝)の意義は生きていることになる。
主よ、来てください!という願いが実は、クリスマスの中心にあるのであって、単に過去にイエスが生れたことをお祝いするのではない。どんな人間が過去に生れてもそれが現在の私たちに直接にかかわっていないなら、それを祝ったところで大した意味もない。クリスマスが現在の私たちにとっても、大きな意義を持つのは、イエスが家畜小屋で生れたということは、現在の私たちの最もくらいところ、汚れたところ、人が目をそむけようとするところにもイエスは生れて下さるということである。
さらにこの、「主よ、来てください!」という願いは、旧約聖書の預言書からはじまって、新約聖書全体を貫いているきわめて重要な願いとなっている。
こうした願いはクリスマスの讃美歌にも表されている。

久しく待ちにし 主よ疾く来りて
み民の縄目を 解き放ち給え
主よ主よ み民を 救わせ給えや

明日の星なる 主よ疾く来りて
お暗きこの世に 御光を賜え
主よ主よ み民を救わせ給えや (讃美歌九四番より)

この讃美歌は、中世から歌いつがれてきた讃美であって今から千年も前から歌われてきた。それは単にイエスの誕生を祝うというのでなく、今、来てください、はやく来てください!という切実な願いであり、祈りである。
こうした祈りと願いは、聖書の一番最後の黙示録の最後の部分にも現れている。
主よ、来てください!(マラナ・タ)
がそれである。

*)英語では、Christmas と表記し、 クリスト(キリスト)のマス(英語で mass ミサ)という意味。ミサという語は、プロテスタントでは使わないで、礼拝というので、クリスマスとは、キリストへの礼拝 というのが、その語の表している意味と言える。

キリストの誕生のことは、二つの福音書で見ることができる。家畜小屋で生れたこと、羊飼いたちに初めて知らされたことなどはルカ福音書に記されている。
それともう一つの記事は、マタイ福音書にあるもので、東方の博士たち(*)が不思議な輝きの星を見て、はるか千キロを越えるところからやってきたのが記されている。星に導かれるという非現実的に見えることが実はさまざまのことを暗示しているのである。ここでは導きについて考えてみたい。

*)原語は、マゴイ(magoi) で、magos の複数形となっていて、ここでは特に星のことについて研究している人であったと考えられるので、新共同訳では、「占星術の学者」と訳されている。口語訳、外国語訳では、英語訳は多数が、「賢者」wise men と訳しており、一部が 原語をそのまま採用した、magi を用いている。ドイツ語訳でも、同様で「賢者」die Weisen の訳が多数であるが、新しい訳である Einheits Ersetsung では、「占星術師」Sterndeuter と訳してある。

私たちは、はじめは親によって導かれて生きる。自分自身では何もできない。起き上がることはもちろん、立つことも歩くことも、考えることもできない。自分で食べものを獲得することもできない。親がすべてを導いていく。何をしたら危険であるか、どんなところがよいか、食べ物は何がいいのか、また保育園とか幼稚園、学校に行くことも自分で判断して入園とかの手続きをするなどという幼児はいない。すべて親またはそれに代わる大人によって導かれていく。
それからだいぶ年齢が大きくなると、今度は自分の考えで行動したり、親以外の友達や先生の考えによって導かれるようになる。
そしていろいろの遊びや世の中のこと、また昔の歴史や科学の知識、文学や社会の知識を得るようになる。さらにもっと成長するといっそう自分の考えがしっかりしてきて、他人の導きでなく自分の考えで生きようとするようになる。
そしてこのことの重要性は繰り返し言われる。自分で考えて行動しなさい、と。それは当然のことで、他人の考えのままに動かされて生きるのであれば、それはロボットのようなものであり、あやつり人形のようなものである。人間と動物との根本的な違いの一つは、考えることができるということであり、それゆえにこの自分で考えて生きるということが重要視されるのである。
しかし、このことは果たして人間の最終的なあり方であろうか。数々の頭脳の優秀な人間たちであっても、時と状況によってはいとも簡単に他人の考えに動かされてしまうことを私たちは周囲の出来事や歴史上の事実によって思い知らされている。
例えば、ある自動車会社が本来は届けねばならない技術上でのミスを隠し、それを会社の方針としたために、それがもとで重大事故が次々と生じ、その結果そうした隠蔽の事実が発覚して会社に甚大な被害をもたらすことになった。これも一部の人が考えたことに、その他の会社の首脳陣も盲従してしまったのであって、自分で考えることをしなかったためである。
さらに、今から六〇年余り以前には、一部の人が天皇を現人神だと強調し、それを利用して、アジア各地への侵略戦争へと駆り立てていった。全く間違った戦争であったのに、それをこともあろうに聖戦だと主張し、数々の中国などの人々を殺したり傷つけたりしたことを、最大の喜ばしいことであると、学校教育でも指導するという、驚くべき間違いがなされていた。
これも、政治家や軍人、そして学者や国民たちがみんな自分で考えることをせずに、一部の人たちが主張することをそのまま信じていったからであった。とくに大多数の国民には真実が知らされず、上層部の人たちが、偽りを発表し、それをマスコミも伝え、国民も欺かれていった。
いずれにしても、いかに人間は自分の考えに従うといっても、それが頼りにならないか、もろいかをはっきりと示すことになった。
このような歴史的な大きな出来事でなくとも、私たちの身の回りの至る所で自分の考えでなされていないのを見聞きすることができる。自分の考えと思っていたことが、実はそれは他人の考え、他人が書いた新聞や雑誌、あるいはテレビなどの意見や考えをそのまま信じ込んでいるにすぎないことが多い。
また、いかにしても、自分で考えて証拠をつかむとかできないようなこともたくさんある。
例えば、科学技術に関する知識など、ほとんどはだれもが自分で考えて、その証拠をつかむことはできない。地球がまわっているとか、月も地球と同じような物質でできていると言われてもそれをほとんどの人は自分の考えで確証することはできない。だからこそ、人類が始まって以来、何千年もそのことはいかなる天才も気付かなかったのであり、ようやく技術的なことが進んで、望遠鏡の制作と観察の技術などがすすんだために、月や天体も地球と同じような物質であろうと推測されるようになったのである。
すべての緑色植物の葉で行なわれている極めて重要な化学反応である、光合成についても同様である。普通の温度で、しかも小さな葉のなかで、本来なら広大な科学工場でもできないような複雑多様な化学反応が行なわれているということも、個人の力でそれを考えて見出すなどということはできないことで、そのしくみが判明したのも、多数の科学者たちの研究の積み重ねがあったからである。そしてそのようなことは個人の考察では到底できないことである。
このような例にとどまらず、私たちの科学技術や歴史、あるいはその他の知識など、自分の考えだけで確証するなどということはたいていできないことである。特別に能力のある人が考え、実験し証拠を積み重ねていって初めて判明していったからである。
このように、人間はどんなに自分の考えで判断するなどと言ってもその考えるもとになる事実はどこから得たかというところまでさかのぼっていくとたいてい、他人の考えた結果によっている。
このように考えていくと、いかに私たちは、自分の考えや人間の考えで生きていくことができないかを知らされるのである。
これは、人間の生き方の領域についても同様である。私たちがどんなに考えても、明日のことすら分からないのである。明日も多くの人たちが交通事故などで命を落とすだろうし、突然予想もしていなかったガンの末期だと宣告されて非常なショックを受ける人もいるであろう。しかし今日はそのようなことをだれも予想できないのである。
自分が正しいと信じてやっていることがどのような結果を招くかも分からない。何が、一番大切なのかということも、自分で考えてもしばしば間違っている。
このように、人間は自分の考えで生きようとしても、とても確固たる歩みはできない。職業や結婚にしても、いくら自分の考えで好きな人と結婚したらいいと思っても、実際に結婚したら、たちまち相手の本当の性質が分かっていなかったと思い知らされて、まもなく離婚するといった人も多い。
このように、自分の考えで生きなさい、と言われてそのように試みたとしても、とても自分の考えだけでは生きていけないし、間違ってしまうということに気付いてくる。
そうなると、私たちは一体どうしたら間違わない生き方ができるのだろうかと疑問になる人もいるだろう。
そこから私たちは人間を超えた存在によって導かれる必要が生じてくる。
意志の強いしっかりした人は、自分の力で生きてきたというように言うことが多い。自分で判断し、自分で選びとり、自分で耐え忍び、道を切り開いてきたというのである。
たしかにそのような人もいるだろう。しかし、その人は、自分で考えるということ自体が、他の無数の人々の考えたことや、考え方を知らずしらずのうちに用いているのであって、それらに導かれてきたのである。
そして考えるもとになっている、知識、書物、人間関係、また世界の状況などもすべて自分で獲得したというが、それらの知識も本などから導かれて知るようになったということなのである。
聖書に現れる信仰の人々は、私たちの得ることすべては、神から来るということを確信していた。 それゆえに、聖書は一貫して自分の考えとか意志で生きることの空しさと、その限界を強調し、人間が本当に生きる道は、神のご意志に従って生きること、神に導かれることを強調している。聖書で記されてている神こそは、いかなる汚れも、またその限界も持たない永遠の真理だからである。
キリストの誕生のときに、星が昇り、それによって新しい王が生れたと確信した博士たちが、はるばると千㎞を越える遠いところから砂漠地帯を越えてやってきた。そしてエルサレムに到着したがどこで生れたのか分からないので、人々に尋ねたところ聖書学者たちからベツレヘムで生れると預言されていたことを知らされる。
彼等は当時の王、ヘロデにも会った。その王は、新しく生れた王に会うことができたら自分に知らせてくれ、拝みに行くと言った。しかし、それはその赤子の命をねらう目的があったからである。
王のところを出たとき、驚くべきことに東方で見た星が再び現れて博士たちを導き、イエスの生れたところでその星はとどまった。それを見て長い命がけの旅がようやく終り、新しい王として生れた方に会えるとの大いなる喜びが博士たちを満たした。
この喜びは、マタイ福音書では特別に強調されている。原文のギリシャ語の表現をほぼそのまま訳したつぎの英語訳でもそれがうかがえる。

When they saw the star, they rejoiced exceedingly with great joy.
Revised Standard Version
(直訳すると、「彼等が星を見たとき、彼等は、非常な喜びをもって、この上もなく喜んだ」。)

このような特別な表現はほかの聖書の箇所でも見られないものであって、この福音書の著者がいかに喜びが大いなるものであったかを特別に強調したかったのがうかがえる。それはその著者の背後にあって導いた神のご意志でもあった。
すなわち、星に導かれ、イエスに出会うということが最大の喜びなのだと言おうとしているのである。
しかし、たいていの人はこのような記事を見てただちにこんな昔話のようなことは到底信じられない。単なる子供向けの話だろうなどと思ってしまう。
そのような読み方しかしないで聖書の深い意味をさぐろうともしないのが一般的である。
しかし、神は万能の神であるゆえに、万能ということをそのまま信じるときにはこのようなことも当然可能だと信じることができる。そんなことはあり得ないというのは、神を信じるといいながら万能の神を信じていないからである。天地宇宙を創造した神、現在もその天地宇宙を支配しておられる神、万有引力の法則とか数知れない科学上の法則などもすべて創造された神が、奇跡的なことを起こせないなどというのは、人間の狭い判断で神をそうした万能の神だと信じないで、人間の理性とか科学的な思考という狭い枠内にはめ込んでしまうからである。私たちの周囲では現在はそのようなことは見られない。だから過去にもそんなことはなかった、あり得ないというのは人間の判断や考えを神という無限の存在にあてはめるという間違いをしているのである。
私自身もずっと以前にこの箇所を初めて読んだときには、単に昔の不思議な話が書いてあるという感じだけで、現在の自分に何の関係もない特殊な記事だと思っていた。
しかし、今は、私はたしかに聖書にある奇跡はそのようなことが生じたのだと信じている。万能の神を信じるなら、それは論理的に必然のことである。
聖書に書いてあるとおりの奇跡はたしかに極めて稀であろう。しかし、その奇跡で言われている本質的なことは、本来だれにでも生じることなのである。
聖書での奇跡はそうした内容と目的があって記されている。
導きの星についても、それはあり得ないことでは決してない。私自身そのような導きの星によってイエスに出会ったのである。私にとってはその星にあたるものは、一冊の本であった。その中のごくわずかの言葉であった。それが私をキリストのもとに連れていってくれたのである。暗闇のなかに突然輝いた星であった。
そしてその導きの星(一冊の本)の背後には神がおられ、神がその著者をも導いてその本を書かせたのであった。
現在信仰を与えられている人たちも同様で、だれかによって、あるいはある出来事とかの際にイエスと出会ったのである。それは私のように書物や印刷物、チラシなどであったり、両親や兄弟の誰かであったり、また友人知人であったりする。それらはみんな一種の導きの星として用いられたと言えよう。
神は太陽のように誰にでもその光を投げかけておられるし、雨のように善人にも悪人にもその愛を注いでおられると主イエスは言われたのであるから、導きの星も同様に、だれの上にでも輝いていると言えよう。
しかし、太陽の光や夜空の星を感謝をもって心開いて受け止める人が少ないように、私たちの上に輝く導きの星を知らずに光なき地上ばかり見てさまよっているのが人間の多くの姿ではないだろうか。
私たちが聖書に記されている愛と真実な神、正義そのものである万能の神の導きを受けないならば、別のものが人間を引っ張っていこうとする。
それはたいていの場合、特定の人間である。人間はさまざまの弱さをもっている。その最たるものは自分中心の本質である。それゆえ人間を導き手とするとき、どうしてもその人間の自分中心的な考えにも巻き込まれることになり、いつも正しい道へと導かれるとは限らない。人間はどんなに注意していても、この自分中心性という本能的なものから完全に脱却することは困難である。水も食物もとらないでいれば飢えと渇きが襲ってくる。そのときには必死で飢え、渇きを満たそうとする。それはまさに自分中心となることであるし、病気や怪我の痛みが心身を圧倒するときにはその痛みに耐えることで疲れ果てるし、何とかしてその痛みから逃れたいという切実な願いでいっぱいになる。それもまた自分中心となることである。このように、いかに善い人であっても、他者中心に生きようとしている人であっても、それは時と状況によってたちまちくつがえされる弱さをもっている。新約聖書にもキリストの最も重要な弟子の一人として現れるペテロが、キリストが捕らわれる直前までは、命をかけてイエスを守ると確言していたのに、実際にイエスがユダの裏切りによって多くの兵士たちによって捕らわれていくとき、三度もイエスなど知らないといって否定したのであった。
人間は自分がどれほど自分中心になってしまうか、自分でも分からないのである。
そのような人間に頼っていると、ときには大きな災いをもたらすことになる場合がある。それは、オウム真理教のような新興宗教を見れば分かることであり、間違った人間の導きに委ねることは、自分だけでなく他人にも最も不幸なことになる。現在はインタ-ネットやさまざまのよくない雑誌や印刷物その他によって、かつてよりはるかに間違ったものに引き寄せられる危険性が多くなっている。そのような時代だからこそ、いっそう決して間違ったところには行かないで、究極的な真実な世界(神の国)へと導かれることが願われる。それこそ、聖書の導きであり、聖書が指し示すもの、あるいは聖書に記されているキリストの光を受けている人が指し示すものに導かれることである。
導きに委ねるまえに、神からの語りかけがなされる。それは今から三千五百年以上も昔のアブラハムにおいて特にはっきりとなされた。

主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたは祝福の基となる。(創世記十二・12より)
このようにして、アブラハムに呼びかけた。その呼び掛けを受けて、アブラハムは神の導きを信じて出発した。それは主イエスの誕生のときに、東方で星を見たと言って、未知のはるかな目的地へと旅立った博士たちと同様である。彼等に現れた星は、アブラハムに「指し示す地に行け」と命じた神と同じような働きかけをしたのであった。
聖書に現れる人々はすでに触れたように、この二つのこと、神からの個人的な呼び掛けを受けることと、それを信じて受けて神の導きに委ねて行動するということが特質となっている。
旧約聖書では最も重要な人物である、モーセも同様である。彼は自分で同胞を助けようとしてまったくそれができないことを思い知らされ、命がけで遠くへと逃げていった。そこで結婚もして羊飼いをしていたが、そこに神からの呼び掛けがあった。
それは「エジプトへ行ってイスラエルの人たちを救い出せ」という命令であった。その呼び掛けに対して、はじめはどうしてもそのような困難なことを受け入れることはできなかったが、ついに神からの命令を受けて、その後は神の導きに委ねて生きることになった。
権力、武力、兵力など何も持たず、ただ神への信仰と神の言葉、そして全面的に神に委ね、神の導きに委ねるという神への信頼だけがモーセのもっているものであった。
それだけをしっかりと持っていたのである。その後、数々の危険に満ちた旅路を神の導きによって四十年もの間、砂漠地帯を生きたのであった。しかし、その行程は困難に満ち、せっかく助け出した人々から感謝されるどころか、砂漠での生活のきびしさに耐えかねて、人々はモーセを激しく憎み、殺そうとまでしたこともあった。
孤独の耐えがたい思い、心の休まるときもない厳しい砂漠の生活と、信仰のない人々からの敵視という、生きてはいけないような困難のなかで、神はモーセを導かれた。

主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も進むことができた。(出エジプト記十三・21

雲の柱、火の柱によって導かれたという。この奇跡的なことも、象徴的な意味においてやはり現在の私たちにも生じることであって、決してモーセというはるかな古代の人物だけに生じたことではない。
私たちが本当に神を信じてそのために安楽を捨ててまで神の導きに委ねていくとき、そこには不思議な守りと支えが与えられるということなのである。
そしてそのような導きの途中において、神の律法(神の言葉)を直接に神から受けて、それを人々に伝え、それが旧約聖書の母体となり、新約聖書にもその基本的な精神が流れて行って三千年以上も世界中の人々に絶大な影響を与えることになったのである。
これを見ても神の声に聞いて、それに従っていくこと、神の導きによって歩むことがいかに大きいものをもたらすかが分かる。
旧約聖書からすでに神は単に存在しているのでなく、あたかも限りなく深い愛をもった方として、私たちの一人一人を導いて下さるお方だと言われている。旧約聖書で最も親しまれている詩編二三編の冒頭で、「主はわが牧者である。私には欠けることがない。」と言われているのもそれを指している。
神は単に存在しているのでもなく、また○○せよ、といって命令したり裁いたりするだけのお方でもない。最善のものを与えて下さる存在であり、どのような暗い状況に置かれてもなお、私たちの導きの星となって下さるお方である。
主イエスは「良き羊飼い」と言われている。羊飼いとは羊を導く者であるゆえ、主イエスは信徒たちを強く導く存在だと言える。この世で最も大いなる導き手とは、だれか。それは主イエスにほかならない。

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