リストボタン日々新たに 2005/1

私たちは、日々老化している。五十歳を過ぎれば、そのことは、次第に実感されてくる。最初に感じるのは、視力の衰えであり、はやい人は、四十歳代から老眼の傾向が生じる。
しかし、ほかのことでも、若い間はそのことを感じないが、自分の体調だけでなく、まわりの人の状況などからも確実に衰えていくのを感じるようになる。
そのようなごく当たり前のことと全く違って、日々新しくされるということが聖書では言われており、しかもそのことが数知れない人たちによって実感されてきたのである。

主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っている。
だから、わたしたちは落胆しない。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていく。(コリント四・16

使徒パウロが落胆しないといっているのは、復活の確信があったからである。そしてその復活とは、世の終わりのときだけに初めて生じるのでなく、すでにこの世に生きているときから、新しい命で生かされることによって味わうことができるようにされている。
そのことを、「私たちは日々新たにされていく」と言っている。
当時、使徒は、不信実な人たちから攻撃され、彼等は、パウロに対して本当の使徒でないなどと中傷し、パウロとコリントの集会の人たちとのつながりを壊してしまおうすずくような隠れた悪事が彼になされていた。
しかし、そのようなことがなされても復活のいのちにあふれているときには、気力を失うことがなかった。
落胆しない、そのことは、この言葉の少しまえにも、言われている。

主は、霊である。主の霊のあるところに自由がある。
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく。これは主の霊の働きによる。
こういうわけで、私たちは、憐れみを受けた者としてこの務め(福音を宣べ伝える務め)をゆだねられているのだから、落胆しない。 (コリント三・17~四・1

このように、繰り返し、「落胆しない」という言葉を述べている。パウロが生きていた時代にも、パウロでさえも気持ちをゆるめていたら落胆するようなことがたくさんあったからである。このような現実に直面しているただ中で書かれている。
現代に生きる私たちにあっても、たえずそのような状況に直面する。誰でもこの世で生きていく過程の中で、自分が思っているような方向や希望、期待から大きくはずれてしまうことがしばしばある。期待はずれどころか、全く予想していなかったような病気や事故、家族の問題、様々な苦難に逢って、落胆してしまう。
その落胆がひどいと生きていけなくなり、自ら命を断つことさえある。
このように落胆することがたくさんあるなかで、パウロはどのようにして力を得ていたのかが今日の箇所である。
「闇から光が輝き出よと命じられた神は、私たちの心の内にもその光を照らしてくださった。」 闇から光が出よという言葉は、創世記の最初のところにある。創世記の言葉をパウロは私たち一人一人の心の闇のなかに、またこの世の闇のなかに「光あれ。」と言って、光を下さる神のご意志を表していると受け取っていた。
 人間の心は闇である。そしてその人間の集まったこの世も闇である。だからこそ、光あれと言っていただく必要がある。その光が与えられた。
この光が落胆することから立ち上がる力になる。私たちが落胆するときは、心は真っ暗な闇である。そこに光がなければ生きていけない。そうした光を与えて下さったとパウロは言っている。
 この光をパウロは特に「キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」とある。
神からの光が与えられたのである。その光によってキリストが単なる偉大な人間、というのでなく、神と同質のお方であり、キリストにあらゆる神の本質があるということがわかるようになるのである。
この光をパウロは、「宝」と言っている。彼は、かつてはキリストこそ、真理を妨げる最大の存在であるとみなし、そのキリストを伝えようとしているキリスト者たちを激しく迫害していたのであった。
神からの光が与えられなかったら、宗教熱心であった人でも、学問的に優れた人であっても、かえってキリストを迫害してしまう。当時、キリストを捕らえようとし、重い罪人だとしたのは、ユダヤ人のうちで宗教熱心とみなされる人たちであった。
現在の私たちは歴史のなかでキリスト者たちが、測り知れないよき働きを重ねてきたゆえ、たいていの人はキリストはすぐれた第一級の人間だと知っている。しかし、やはり神の光が与えられなかったら、そのキリストもただの過去の人、偉人の一人だとしかわからない。
天地創造のときの、「光あれ!」というのは実は、単に昔の宇宙の創造のときにだけ言われた言葉でなく、あらゆる時代に生きる人間に対して言われた言葉であった。そしてその言葉を受けるときには、私たちがどのようなみじめな者であっても、キリストのことがわかり、そのキリストからパウロがそうであったように、神の力を受ける。しかも永続的にである。

この宝が土の器に与えられている。(コリント 四・7

パウロは、自分に与えられた大いなる賜物を宝と言ってそれが、「土の器」に与えられたと言っている。宝とはすでに述べたように、神から与えられた光であるが、それは他のあらゆるよきものを含むと見ることができる。その光によってパウロは福音を宣べ伝えるという働きをも与えられた。そのような使命もまた大いなる宝であった。
そして、キリストがどういうお方であるかが啓示されたということは、キリストが自分のうちに住んで下さるという驚くべき事実、キリストの復活の力、キリストの愛、キリストから与えられる罪の赦し、そして日々の導きなど、すべてそれらを通してキリストが神の力をすべて持っているお方だと実感していったのである。
キリストにかかわるこうしたすべてが、「宝」であると言えよう。
主イエスご自身が、福音の真理を宝と言われている。

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。
見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

パウロはこの主イエスのたとえで言われている、宝を見出したのであり、それゆえにイエスの言葉通りにすべてが不要となってその宝だけをしっかりと持ち、それをさらに宣べ伝えるために生涯を費やしたのであった。
また、次のたとえも同様な内容であって、この宝がほかのあらゆる地上の財宝にも増して人の魂を深く満たすということが示されている。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。(*
高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ福音書十三・4446

*)真珠とは、新約聖書の書かれているギリシャ語では、マルガリテース(margarites)といい、これから、英語やフランス語などの人名としてよく見られる、マーガレット(Margaret)、マルグリット(marguerite)などができている。また、花の名前としても、マーガレットは広く知られているが、この言葉が「真珠」というギリシャ語に由来していて、主イエスのたとえに現れるということは知られていないようである。

ここでも、「宝」は真珠と言い換えられているが、内容的には似たことであって、神の地上の人々を導くその仕方(ご支配なさるその仕方)は、このような絶大な宝を見出すように導くのであって、一度その宝を見出した者は、自然にほかのものが要らなくなるのである。
パウロが、「宝」を与えられていると言ったのは、直接的には、キリストに神様のあらゆるよいものが与えられていることがわかる光のことである。キリストにすべてのよいものがあるとわかれば、愛であり、万能であるキリストに求めていく。そして愛であるキリストは与えてくださる。 キリストがすべてであるとわからなければ、罪の赦しもわからない。キリストが光であることがわかれば、罪の赦しも、十字架のあがないもすべてのことがわかる。

土の器
 パウロはそのよう神から受けた良きものを「土の器」に受けている、と言っているところにとくに多くの人たちの心を捕らえてきた。土の器とは、汚れていることと壊れやすいということを示す。
自分はいつも清い心を持っているとか、自分は何事が生じても打ち倒されないとか自分で何でもやってきたなどと言って自分自身に強い自信を持っている人には、こうした宝は与えられない。
主イエスも、
「貧しき人たちは幸いだ。天の国はその人たちのものであるから」と言われ、「悲しむものは幸いだ、その人たちは慰められるから。」
と言われた。自分が弱く、貧しい者であり、悲しみに打ち倒されているような者であるということ、それは私たちが土の器であることにほかならない。この「宝」は強いと思っている人に与えられるのではなく、すぐに壊れるような、とてももろい者と自覚している人にこそ与えられる。
私たちは自分がとても弱くてもろいしぐらぐらしているから与えられないということではない。そのようなものこそまさに土の器なのである。
弱さと貧しさを知っているからこそ、幼な子のようにまっすぐに神を仰ごうとする。そのような心にこそ天の国が与えられると主イエスも言われた通りである。
この世では、よいもの、宝や賞のようなものは、立派だとされている者、能力のある者にしか与えられない。それが評価の高い賞であればあるほどそうである。国内での文化勲章、世界でのノーベル賞とかいった賞は、生まれつきの特別な才能とそれを発揮できる機会や環境、そして健康も恵まれた人が受けるものである。
それは十分な能力のない人や、病気で学校にいくこともままならないなどの弱い人たちには夢の世界でしかない。
しかし、そうした地上のどんな宝にもはるかにまさった宝、天の宝は驚くべきことに、「土の器」に与えられるという。
パウロのような意志の強靱な人であっても、実は自分は「土の器」なのであると深く自覚していた。この弱くてもろい、汚れた土の器であるのに、神の力をもらった、それは自分が獲得したものでなく、神から与えられた力であることを自覚するためであり、周りにも知らせるためであると知らされていたのである。
 それゆえ、どのような苦しい状況にあっても、この宝を受けているので、最終的には滅ぼされないのである。
 このようにパウロは自分が出会う様々な苦しみは、イエス様の苦しみをもう一度経験させていただいているのだという意味に受け取っていた。
「わたしたちは、いつもイエスの死をこの体にまとっている」と。
 このように私たちが出会う苦しみは一つには主イエスの苦しみを私たちが少しでも同じように経験しつつ生きていくためであり、それは苦しみで終わるのではなく、「イエスの命がこの体に現れるため」なのである。
このことは、とくに繰り返し強調されている。


わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっている。イエスの命がこの体に現れるために。
わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされている。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いている。(コリント 四・1012

彼等にどうしてこのような苦しいこと、落胆するようなことが起きるのだろうか。それはイエスの死を自分たちも同じように経験して歩むためであったが、それで終わるのではなかった。
パウロはこのような激しい苦しみや誤解や中傷のなかで主に支えられて、いかなる困難があろうとも、またいかに死が近いような苦しみを受けようとも、それらを通して復活の命が与えられることを知っていた。

主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っている。(コリント 四・14

このように、地上で生きている間にもイエスの命があふれるほどに与えられ、肉体が死んでもイエスの復活の命がいただける。
この新しい命への確信が不動のものであったゆえに、ふたたびパウロはつぎのように言っているのである。

だから、わたしたちは落胆しない。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていく。(同四・16


「外なる人」とは、自然のままの人間の体や記憶力などで、これはただちにわかるように、年とともに弱っていく。
しかし、「内なる人は日々新しくされる」と言う。内なる人とは何か。それはキリストによって新しく生れた魂であり、キリストと結びついている魂のことである。このことは、単にからだの老化を防ぐというのでない。肉体は老化していっても、イエスの光を受けているなら、苦しみにも喜びにも絶えずイエスの命が流れていくゆえに、その度に私たちの内なる人は日々新たにされ、また新たな力を得る。
そのことは、どのようにしてわかるか。
もし、私たちが、日々新たにされているなら、野草の素朴な花や、夜空の星の清い美しさとか、夕焼けや青い空、遠くのやまなみからの語りかけ、白い雲など、身近な自然に接して、たえず新たな感動を覚えるということになるだろう。
また、聖書の言葉が飽きてしまうということなく、以前に繰り返し読んだところ、よく知っている言葉であっても、あらたな霊的な何かを感じ、心が動かされるということによっても私たちは内なる人が新しくされていることを実感できる。
しかし、そうした感動があったとしても、現実の悪のはたらくこの世において、その悪に負けてしまうということがある。自然の美しさに感動しても、簡単に嘘を言うとか、他人にどのように思われるかをいつも気にしているとか、まず神の国と神の義を求めていかずに、安易なほうを選ぶなどがあるならば、それは本当に内なる人が新しくされているとは言い難い。

神の国は言葉ではなく力にある。(コリント四・20

このように、悪に対して負けないで、正しい道に立つということは、力がなくてはできない。勇気とは正義に向かう力であると、ギリシャの哲人が述べているが、日々新しくされていることは、周囲の被造物への感動とともに、悪に負けない力を日々与えられているということが不可欠になる。
このような、霊的な新しさは、旧約聖書のうちから一部の人たちは神から直接に示されていた。

主はあなたの罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
命を墓から贖い出してくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。(詩編一〇三・35

新たにされるためには、まず私たちの心の一番奥深いところに潜む罪が明らかになり、それが赦され、清められねばならない。そうした後に、死の力から救い出され、さらに良きもので満たされる。その結果、鷲のような若さを新たにされるという。鷲はいつも力強いものの象徴として言われている。神によって日々新たにされることは、このように、力を日々与えられるということが含まれているのである。

疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書四〇・2931

このイザヤ書には信仰によって日々新しくされるということがどんな意味を持っているのかが、はっきりと示されている。ここには、神からくる新しさとは、新たな力を絶えず与えられることだということが言われている。
日々新しくされた完全なお方は、主イエスであった。イエスは、どのような困難があろうとも、また周囲が無理解と攻撃であっても、たえず神からの新たな力を与えられていた。十字架につけられる前夜には、最後の重大な試練を乗り越えるために、全力を尽くして祈り、神の力を求めたことが記されている。
そうして日々新しくされ、新たな力を与えられる者には、直面する困難は重いものにみえるが、実際は軽いものだという。それに比べて与えられるものは、比較にならないほどの重みのある永遠の栄光だと記されている。(*
私たちの直面する困難はときとして重く耐えがたいものがあることは、老年に近づいているものはだれでも知っているだろう。あまりの重さに心身ともに耐えられないほどに感じて、主よ、この命をとってください、そして身許に行かせてください!と、祈らずにいられないような状況にも陥ることがある。
老年でなくとも、事故や災害、ガンなどの病気、あるいは突発的な出来事のために、非常な苦しみと悩みにうちひしがれている人たちはいつの時代にも、数知れないほどにある。新聞やテレビに出てくるのはそうした苦難のほんの一部にすぎない。
しかし、そうした状況に置かれているすべての人に対して、その前方には、永遠の重みのある栄光が待ち受けているのだと聖書は告げている。

*)旧約聖書において、栄光という言葉は、カーボードというが、それは、「重い」という意味を持っている。その動詞形は、カーベードであり、「重さがある」という意味の動詞。これは、英語のweigh は、「重さがある」という意味の動詞で、weight は、その名詞形であるのと似ている。パウロはこの言葉から、神の栄光というのを、「重みがある」という意味を感じながら受けとっていたのがうかがえる。 日本語でも、精神的な中身の乏しい人を、あの人は軽いとか、逆に小さなことで動じないし、さまざまの精神的な深みを持っている人を、重みがあるとかいうように使う。神は最も実質が豊かで無限であり、それはしばしば「岩」にたとえられる。そうした不動の重みのあるものが神の栄光だといえる。

 人間はだれでも新しいものを求める。新しい家、新しい服、新しい友、新しい観光地等々、さまざまの新しいものを求める。
しかし、聖書の新しさはいままでみてきたように根本的に違う新しさである。
キリスト者は主にある新しさを、主からの光を受けた新しさを求める。
この新しさを受けた者は、人と競うことはもはや必要なくなり、毎日新しい力を受ける。
それによっていろいろなものが新しく見えてくる。空の星や野山の木々や草花など、自然のなかの小さなものに新しさを見つける。日々の人との出会いのなかにも、神様からの新しい意味を知らされる。
そうした日々の新しさとともに、神からの新しい力を日々受けて、落胆するような状況に陥っても、その神の力を与えられ、御国への道を歩ませて頂きたいと願っている。 (二〇〇五年元旦礼拝の聖書講話より)

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