解放と導き 2005/4
旧約聖書の出エジプト記十三章では、神の特別な導きが強調されている。イスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷とされ、長い苦しみがつづき、滅びる寸前までいっていた。そこから神の大いなる御手によってその奴隷状態から解放され、目的の地を目指して導かれていく。
この章を一部抜き書きしてみると、それがいかに「導き」ということが繰り返し述べられ、また「力強い御手」が強調されていることに気付くであろう。
…モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。主が、乳と蜜の流れる土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式(過越)を行わねばならない。
あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。
あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。
主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、
将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。…
… あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」
さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。
神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。
主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。
昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。(出エジプト記十三章より)
主の力強い御手(出エジプト十三・3)、それこそは聖書が一貫して述べていることである。聖書とは、そのことを証言している書物だと言えよう。アブラハムは自分の考えや希望、意志でカナンの地に行こうとしたのではなかった。それは、神の導きであった。神があらわれ、カナンへ行けと命じた。アブラハムがそれを信じて、その導きにゆだねたのが決定的なことであった。
ふつうには、自分で考え、行動することが一番重要だと考えられている。
しかし、それは神などいない、自分の考えが一番頼りになるといったことを前提としている。最善に導く神がいないのなら、当然他人の考えをもとにして生きることより、自分の考えを元にしなければならない。
だが、その自分というのが、いかに誤りやすく弱いものか、だれでも思い知らされるときがある。事故で、大怪我して動けなくなったら、ガンの末期になってしまったのが判明して自分がそれなら一体何ができるのか、自分の家族が道を誤ったと知って、その心を必ず変えるなどと言えるだろうか。
自分で考えて行動することが一番大切ということは、自分がいかに弱く頼りないか、また真実を見通すことができないか、未来のことも何一つ見抜くこともできない、明日のいのちもあるかどうか断言もできないほどに先は分からないのである。
そのことを知ったら、自分で考えて行動することが一番重要だとは到底言えないのが分かる。
聖書では、人間の弱さ、罪を深く見抜いているので、自分で考えてやると全く間違った道へと進んでいくことが最初から記されている。
それが、エデンの園で食べることを禁じられていた木の実を食べたということである。
自分の考えでやると、たちまち間違った方向に入り込むというのが人間の実体なのである。
そこから、私たちの常識と根本的に異なること、神の導きによって歩むことが極めて重要になる。
聖書ではその後、ノアもだれも神の裁きなど信じないただなかで神を信じ、神に導かれてその裁きに備えたので救いを得たのであった。
アブラハムはキリスト者にとっても重要な人物である。キリスト教の信仰の中心をなしている、信仰によって救われるということも、すでにアブラハムにおいて言われていたことで、それを使徒パウロが引用しているほどである。驚くべきことであるが、パウロよりも一七〇〇年ほども昔にすでにパウロがキリストから啓示された最も重要なことが預言的に啓示されていたのである。
その啓示は、神の導きに身をゆだねた結果として与えられたものである。もしアブラハムが現在のイラク地方で住んでいてそのままそこに留まることを選んだならそのような啓示も与えられなかったのであり、その後のヤコブやユダヤ民族もなく、神の言葉に生きる神の民もなかったことになる。
それはユダの子孫としてのキリストもなく、キリスト教もなかったことになる。
このように、導きに生きることは、極めて大きなことにつながる。
アブラハムに次いで、導きに徹底してゆだねた人物はモーセである。
彼においては、自分の考えや人間愛、あるいは自分の力で同胞のイスラエル人を助けようとしても全くそれは通用しなかった。かえって、直線距離でも四〇〇キロも遠くの地へと命がけで逃げていかねばならなかった。そこで自分の力のもろさと弱さを思い知らされたのである。そうした日々のなかで、神が現れ、神の導きに生きる歩みへと変えられていった。
モーセ自身が神に導かれ、かつてはそこで殺されそうになったところであり、そこから逃げてきたその恐ろしい場へと、今度は神の導きによってふたたび戻っていくことになった。
私たちは自分の考えでは逃げ出したいところであっても、神が導かれるときにはそこに向かっていくことができる。自分を憎む者であったらそのような者から逃げ出したいと思う。しかし、神に導かれるとき、そのような者のところにすら心は帰っていく。
導きにゆだねたとき、初めて神はその大いなる力を表し、その力を与える。導きにゆだねるとは、古い自分に死ぬことであり、心に誇るものを捨て、自分が頼るものを捨てることであるゆえ、主イエスが約束されているように「心の貧しいものは幸いだ、天の国は彼等のものである。」という言葉が成就するのである。
イエスよりはるかに昔であっても、この真理は変わらない。
神の導きにゆだねるとき、モーセは自分の考えで行動したときとは全く異なる力を与えられ、エジプトの王ですらどうすることもできないほどの権威をもって語ることができた。
そしてさまざまのいきさつの後にイスラエルの人々を導いてエジプトから出て行くことになった。
そのことを特別に重要なことであったから、詳しく記念すべきことが言われている。それが出エジプト記の一三章に記されている。
ここでは、繰り返し、神による「導き」という言葉、そして「力強い御手」ということが出てくる。そしてこの繰り返し強調されている言葉は、現代の私たちにもそのまま働きかけてくる。
私たちが必要としているのは、そのような導きと力強い御手であるからである。
神による導きが最大のもの、最も深い意味を語りかけるのは、奴隷の家から導きだされたということである。この出来事はずっと後世まで、数千年も記念され、覚えられているが、それは聖書に記されてている神とは、確かに奴隷の家から導きだす神なのである。
これは自分自身が一種の奴隷状態であったことを深く思い知らされたものは数千年の時間を超えて、深い共感を持つ。
私もかつては、目に見えないなにかに強くつかまれてどうしてもそこから逃れることができない、という実感があった。どんなにそこから逃げ出そうとしても、かえって深みに落ち込んでいく、というのをありありと思いだすことができる。ふつうの奴隷も逃げ出そうとしたらかえってより厳しい労役にさらされるだけであるが、それと似たようなものであった。
使徒パウロもモーセより千数百年も後の人物であったが、やはり自分が神に敵対する力(罪)の奴隷であることを痛切に思い知らされていた。
しかし、そこから解放され、今度はそうした闇の力と逆の、愛と真実の力に仕える身となった。それをパウロは、キリストの奴隷(ギリシャ語で、ドゥーロス doulos )になったと言って、自らの存在を一言で言い表す肩書のように、彼の手紙の冒頭に用いている。
例えば、ローマの信徒への手紙の書き出しは、原文の順に訳せば次のようになっている。そのため、一部の英語訳聖書でも、slave (奴隷)と訳している。
パウロ、キリストの奴隷、呼び出されて使徒となった…(ローマの信徒への手紙一・1)
Paul, a slave of Christ Jesus,(The New American Bible)
Paulos doulos Cristou Iesou kletos apostolos… (ギリシャ語原文をローマ文字表記にしたもの)
このように、当時たくさんいた奴隷たちを表す言葉を、自分の肩書としてつねに使うようになったほど、パウロにとっては、それはキリストに結ばれた自分を簡潔に表す言葉なのであった。
ふつうの奴隷は、主となる人間に仕え、その命令通りに動かされる。また罪の奴隷というのは、目には見えない悪の力、罪の力に縛られて純粋な愛と真実の心で行うことができない。
しかし、キリストの奴隷というのは、そうしたあらゆる束縛から解放され、無限の愛と真実なお方であるキリストに結ばれ、キリストのいわれるままに動くことができる、その力をも与えられている魂の状態を表している。
キリストの奴隷、この特異な表現は、初めて接する者には、不可解な表現と感じるが、キリストという完全な愛のお方に全面的に結びつき、仕えていくことを、以前の罪の奴隷と際立った対照的な表現として、パウロはこのように言ったのである。
日本語訳では、キリストの「僕 しもべ」と訳されている。しかし現在で「僕 しもべ」といってもどんな人間なのかイメージがはっきりする人は少ないであろう。広辞苑では、「身分の低い者、雑事に使われる者」といった説明がなされている。また別の辞書では、「召使」とされている。
こうした訳語では、パウロが対照的にあげている、罪の奴隷か、キリストの愛のままに生きるキリストの奴隷かという二つのことが分かりにくくなっている。
出エジプト記を読むとき、それは遠い異国の三千年以上も昔のことだと思って、現代の私たちと何の関係もないと思いがちである。しかし、この出エジプト記の記事は、「奴隷からの解放」ということであり、使徒パウロがそのように受け止めたように、まさに自分たち一人一人の問題がそこにあるということができる。
人間はみんな奴隷である。何かの力のままに生きている。他人や国家の権力、あるいは金の力、また自分の欲望や自分中心という考え、それらはすべて罪が関わっているが、そうした一切の奴隷からの解放がキリストによってなされたというのが新約聖書のメッセージなのである。
人は罪など感じない、そのようなものに縛られてなどいないと言う人もあるだろう。
そのような人においても、人間の状態はどのような人であっても、極めて限定された、縛られたものなのである。それを次に見てみよう。
ある狭い範囲に縛られてそこから出られない、そうした状況は、この地上に生きるなら必然的に生じる。人間は地球や太陽の動くままに縛られてそこから出ることはできない。物体を投げあげても、地球の引力によってひき戻される。まさに地球に縛られているのである。
そしてその地球もまた、太陽に縛られて、決まった道筋以外を動くことはできない。
宇宙船に乗って出られるという人がいるかも知れない。しかし、あのような宇宙船などというものは、極めて不自由な、狭い空間に閉じ込められ、飲食もままならない奴隷状態といえる。狭い船内に持ち込んだ水や食糧が亡くなったらそれで終りであり、また精密機械の満ちた船内が何かの致命的な不具合が生じたら、そして人間の体調が狂ってしまっても、それですべて万事休すである。
一歩宇宙船から出るなら、そこは真空の、すべてが凍りつく世界であり、恐るべき死の世界である。
このように、私たち人間は空間的にみても、何かに縛られているのであって、この地上に生きるかぎり、地球と太陽にしばられて生きているのである。太陽の衰えとともに必然的に地球もその運命を共にせざるをえない。
このように、人間は内的にみても、外的に見ても、どこから見ても、つねに縛られた状況にある。
こうしたすべての縛られた状態からの解放はあるのだろうか。
先にあげた出エジプト記において、注目すべき記述がある。それは神がその愛する民を導くとき、あえて、地中海沿いの近道をとらせなかったということである。
エジプトから、乳と蜜の流れる地、カナンへは地中海沿いなら、三百キロメートル程度で、毎日五時間、二〇キロ前後歩くとすれば、わずか数週間で到着する距離なのである。
しかし、それをわざわざ遠い迂回路をとらせ、さらに砂漠のオアシス(カデシュ・バルネア)で長期間留まったりして、四〇年もの歳月を要して目的地に達するという、ふつうなら考えられないような導きがそこにあった。
…神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。
神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。(出エジプト記十三・17~18)
このような遠い距離を長い年月、困難な砂漠的の土地を歩ませ、数々の苦難を体験させるという、まわり道のようなことを神はあえてなされる。
現在の私たちにおいても、神は私たちを愛するといっても、簡単な道をあえて歩ませないことに気付く。それは病気であったり、人間の不和、や憎しみ、家庭の崩壊、大きな罪、戦争、飢えと貧困などなど、今も人間世界ははるかな迂回路をたどっている。
しかし、そのような困難な、はるかな道のりであっても、かつての出エジプトの民がそうであったように、それは必ずよき地、乳と蜜の流れるところすなわち神の国へと導かれるということははっきりとしている。
このような人間世界を導く、神の最終的な御計画は、再臨という言葉で表される。
キリスト教という信仰内容の中心的内容の一つであるキリストの再臨ということは、こうしたあらゆる困難や束縛をも解放するものなのである。
そのような世界はどのようなものか、それは時間をも空間をも超えたようなものであるゆえ、言葉では言い表すことができない。
それを聖書では新しい天と地といった表現で象徴的に表しているが、そのことはすでに旧約聖書のイザヤ書において預言として記されている。
…見よ、私は新しい天と地とを創造する。(イザヤ書五一・17)
そして新約聖書において、キリストの再臨ということが、はっきりと主イエスの言葉にも、使徒たちの言葉にも表れている。
… そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。(マタイ二四・30)
…しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいる。(Ⅱペテロ書三・13 )