救いの単純さ 2005/4
しかし、主の御名を呼ぶ者は救われる。(ヨエル書三・5)
救いのために必要なことは何か、ここには、キリストより四百年ほども昔からきわめて簡潔にそれが述べられている。儀式も、組織や、お金、あるいは善行を積むこと、また人生経験や年齢等々それらはすべて、救いのためには不要なのである。ただ主の御名を呼ぶこと、主を信じ、主を仰ぐだけで救われる。
すなわち、本当の幸い、いかなることによっても壊されないような幸いはそのような単純なことから与えられるというのが聖書の主張である。
パウロが後に信仰によって救われると確信をもって述べ、それがキリスト教信仰として世界を動かすことにつながり、ルターが、信仰のみによって救われるという単純なことを根本に据えて、宗教改革という世界的にも重大な改革をなすに至ったこと、また内村鑑三の深く広範な影響力なども同様にこの一点から出発していた。
この重要な真理、それは旧約聖書から実は言われていたのである。このヨエル書という一般の人にはほとんど知られていない書、キリスト者でも心して読んだという人、少なくとも注解者をひもときながら、一句一句を考えながら読んだという人はごく少ないだろう。しかしそのようななじみの少ない書に実に重要な救いの根本が記されているのである。
そして同様なことは、イザヤ書にも、「私を仰ぎ望め、そうすれば救われる」(イザヤ書四五・2)と記されているし、さらにさかのぼって、旧約聖書の巻頭の書たる創世記にも、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記十五・6)とあり、聖書の最初からこのような救いに関する単純な真理は示されていたのである。
真理は数千年の昔から、深い大地の底を流れるように、この世を流れ続けてきたのである。