変えるべきもの、変えてはならないもの―国歌と平和憲法 2005/4
最近は、憲法を改正すると称して、とくに第九条を変えようとする動きがある。しかし、太平洋戦争という数千万の人たちを殺し、あるいは傷つけた恐るべき悲劇の反省の結果としてつくられ、当時の日本人も喜んで受け入れた平和憲法はあくまで変えてはならないものである。
その理想に近づけようとするのが、日本人のとるべき姿勢なのであって、その特色をなくしてしまうなら、今後の歴史の歩みのなかで、日本は間違った流れに簡単に呑み込まれていく可能性が大きい。
歴史のなかで無数の人たちの犠牲をもとにして与えられたあるべき姿としての憲法を守るのが、日本人のつとめである。
さらにキリスト者としては、非戦平和主義というのは、人類の最も共通した真理の書である聖書にすでに数千年前からそれこそが最終的なあるべき姿であると記されているのを知っている。
キリストより数百年も昔に、イザヤ書でもすでにそうした非武装こそ本当の人間社会のあり方だと、示されているのである。弱い者への配慮の重要性もまた聖書ではそのような数千年も前からはっきりと記されているが、それと同様なのである。
戦争は弱い者を踏みにじり、また殺傷して弱者を多量に造り出す。そのようなことは間違ったこと、真理に背くことである。
変えるべきものは、国歌である。「君が代」は一体愛唱されるような歌であろうか。
戦前は明らかに現人神とされた天皇を讃美する歌として歌われてきた。
君が代は、千代に八千代にさざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで
これは、「天皇の御代、天皇の統治が永遠に続いて、小さな石が、岩となって、苔が生えてくるまで」という意味で歌われた。
この、「君」というのを、「あなた」(you)だと思って歌え、などという説明を、以前教育委員会が指導したことがあり、学校教育でもそのように教えたらいいのだというように校長などが言ったことを覚えている。
しかし、クラスメートのだれかに向かって、「あなたの御代(時代)が永遠に続きますように、小さな石が岩となって苔がはえるまで…」などと一体だれが本気で歌う気になるだろうか。
この歌詞は岩石が風化するということを知らなかった、一〇〇〇年も昔の歌なので、科学的な見地から見ると、逆なのである。岩が風化して数千年もすれば小さな石(さざれ石)となるのであって、小さな石が自然に風化して岩になって苔が生えてくるということにはならない。
そして苔というのは、何も千代に八千代に(数千年)も経たなくても、日陰で湿っていたらじきに生えてくるのである。
このように、常識的に見ても、君が代、さざれ石が岩となること、苔が生えることなど一つ一つ心を込めて歌うなどしがたいことである。
しかもその上に、戦前の歴史的に侵略戦争に駆り立てるためにも悪用されたという負のイメージを持っているし、その上、歌詞それ自体が実にわかりにくい。意味のわからぬ言葉を、一生懸命歌え、などと強制的に命じても何のよいことも生じない。歌というのは、メロディーや歌詞が、人間の心のなにかに触れないなら歌う気持になれないものだからである。
このような理由から、その歌詞を考えるなら、これからの世代にも、到底、「愛唱される」ことにはならないだろう。
国歌こそ、音楽の専門家や国民の多数の意見を集約し、公募するなり、いろいろな方法を用いて、新しく作りかえる必要がある。これこそ、若い人から老人までだれでも、歌詞とメロディーを聞かせれば、どれがいいかは直感的にもわかるはずだからである。
そしてこうした議論によって、現在の「君が代」の歌詞の無意味なことが明らかになっていくだろう。
現在の他国の国歌は、戦争や勝利がテーマになっているのがしばしば見られる。しかし、そのような戦争の時代に生れた歌でなく、今後の世界の平和、グローバルな時代を見つめた、広い視野からの新しい国歌こそが求められている。例えば、今の平和憲法の精神を盛り込んだような国歌がこれからの世界に必要なのである。そのような国歌は日本の先進性を他の国にも指し示すことになるであろう。