真理は生きている 2005/4
新聞やテレビにさまざまの世の中の悪や混乱がつねに報じられているからといって、真理の力が地に落ちたのではない。
それは見る目が私たちに欠けているだけである。
春になって、枯れたような木々から初々しい新緑が芽生えていくように、今も神は、枯れたような人間や世界に新しい命を吹き込み、世界のどこかで今も霊的な新緑が芽生えているのである。
私もかつては、自分自身の問題、この世のあまりの難問と苦しみに人間など無力でどうにもならない、と打ちひしがれていたのであった。それは枯れたようになっていた。
しかし、そこに神は突然、だれも予想しなかったことだが、その枯れ木に命を吹き込んで下さったのである。
その神のなさり方は、周囲の状況や時代の状況などとかかわりなく、ただ神のご意志であったとしか言いようがない。私がキリスト教などを欲していたわけでも、周囲のものがそのように仕向けたのでもなく、辺り一面に無神論の洪水のような状況のただなかで、私は神を信じ、キリストの十字架の死の意味が魂に深いところに入ってきたのである。
こうした経験は人知れず、現在も世界の各地で起こりつつある。
それは時代がどのように変ろうとも、神ご自身が無から有を生じさせる力をもってそのようになさるのである。
新緑の美しさ、それは神に由来する真理が今日もどこかで芽吹いていることの象徴でもあるのだ。