何か美しいことを 2005/6
私たちは、周囲の世界に対して何か善いことをするか、あるいは何かよくないことか、それとも無関心であるかである。
満員の通勤電車に乗っているとき、あるいは無数のひとたちが行き交う朝のラッシュ時のときに、周囲の人たちに対して最も多くの人が互いに抱いているといえるのは、互いに知らない者同士なのであるから、おそらく無関心であろう。
しかし、会社なり、学校なり、勤務先についた途端、そのような無関心ではなく、出会う同僚や人々に対して何か善いことを思うか、よくないことを思うかいずれかになる。
自分に対して好意的な人には何かよいことを考え、無視するような人、敵対的に出てくるひと達には何か悪しき感情をもつようになるのが多いだろう。
しかし何か善いことといっても、自分の好意が持てる人だけに何か善いことを考えるのは、主イエスによれば、それも何の善いことでもないという。
…敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。…自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。(マタイ五・46)
とすれば、本当の意味で「何か善いこと、なにか美しいこと」というのは、実はだれでもなかなかできていないということが分かる。
自分に悪意を持つ人にも、無関心な人、攻撃的な人にも、相手を選ばないでなされる善きことこそが、本当に神の前でよきことになる。このようなことが一体できるのだろうか。
そういうことは、人間にはできないことである。私たちはある人の苦しみに感じて祈りを込めていれば、またある人に時間をかけてかかわっていたら他の人のところには行けないし、同時に多くの人のことを祈り、考えることもできないから、ある人にかかわっているときには別の人のことは忘れていなければならない。
このようにいかにしても人間の愛などは限定されているし、偏ったものでしかない。
しかし、自分の好き嫌いでなく、どんな人であっても、自分の身近にいる人、たまたま出会う人、それは行きずりの人であったり、会社の同僚や知人、あるいは外国の人であったりするだろう。そのようなさまざまの人たちをだれでも同様に善き心をもって見つめようとすること、それは可能だという。
不可能なことなら、主イエスもこのように「隣人を愛せよ、敵を愛し、そのために祈れ」などと命じたりしないからである。
このような無差別的な愛は、自然の人間にはない。ただ神からの恵みとして与えられるのだと聖書では記している。
そしてそれが可能であることを示すかのように、神は「何か美しいもの、何かよいもの」を数知れないいほど多く、身の回りの自然のなかに刻み込まれている。夜空の星のまたたきは、いつも何か美しいものであり、何か人の心に清いものをよみがえらせるものである。白い一片の雲であっても、風のそよぎも、川の流れにしても、それらはみんな、何か美しいものをたたえていて、心して見るときには、私たちにもそれを注いでくれる。
山川、植物など自然の純粋さは、神のお心が、絶えず何かよいもの、何か美しいものを私たちに与えようとしておられるそのお心を表している。
これらの自然の風物は、神から創造されたそのままの姿であるゆえに、何かよいものをたたえているものが実に多い。
私たちも神に創造されたままのようにまっすぐにされるとき、つねにそうした状態になるだろう。それが主イエスの言われた幼な子のような心で神を仰ぐような心である。そしてそれは神から新しく、造りかえられることによって初めてできるようになる。
そしてそのとき、私たちは聖書にあるように、キリストが内に住んで下さるゆえに、そのキリストがたえず何かよいものを私たちに提供し、それを私たちも外部に向かって注ぎだすようになる。
それは祈りの心がもとにある。何か美しいもの、よいもの、それは祈りからなされる。寝たきりの人であっても、周囲にそのような祈りを注ぐことによって何か美しいものを絶えず提供することになる。
こうしたことについて、つぎの言葉をあげる。
ヒューマニズムだの、永遠の平和だのについて、あまり多く語らないほうがよい。
あなたは出会う人ごとに、「なにか善いこと」があるようにと願っているか。もしそうならば、あなたは人間らしい親切な心の持主だが、そうでなければ、あなたの言葉はただ口先きだけのことである。(「眠られぬ夜のために下・六月五日」
Reden Sie nur nicht so viel von Humanitat und ewigen Frieden.Wunschen Sie
jedem Menschen,dem Sie begegnen,etwas Gutes? Dann sind Sie human und freundlich
gesinnt,sonst aber sind das blosse Redensarten,…
主イエスは、隣人を愛せよと教えられた。遠いどこかの国のことばかりをいくら議論しても単なる議論で終わることもあり、自分がそのような遠いところにまで配慮しているといった秘かな虚栄心から言う場合もある。そしてすぐ近くにいる私たちの隣人に対しては祈りや必要な見舞いとか訪問もしない、といったことになることがしばしばある。
「巧言令色 少なし仁」、という有名な言葉がある。(「論語 学而第一の三」)これは、言葉づかいがうまく、表情も人を引きつけるような人が、かえってその中には本当の仁(愛)がない、という意味である。この箇所を註解した、今から八〇〇年余り昔の、中国の高名な儒学者である、朱熹(しゅき)は、そのような口先や表情だけよいものには、愛は少ないどころか、「絶無」であると註解している。
たしかに、主イエスはいつも人を引きつけるようなにこやかな表情をしていたとは書いてない。むしろ哀しみの人と言われたほどであったし、代表的な預言者の一人であったエレミヤなども、その心を表しているとされる哀歌には悲痛なものが流れている。
深い真実な愛とは、そのような表面の言葉や表情ではなく、その内面にたたえられたものなのである。
また、ここで、「何か善いこと」(something good)を出会う人ごとに願っているか、ということが問われている。自分の気に入った人にだけ、善いことを考えても何にもならないと、主イエスも言われた。出会う人、それが敵対するような人であっても、利己的な人であっても、その人間がどんな人かにかかわらず何かよいことをその人のために願うことのできる心、これこそ、キリストの愛が注がれた人の特質だと言えよう。
これに似た言葉につぎのようなものがある。
Something beautiful for Gott.(何か美しいことを神のために)
これは、マザー・テレサについて、あるイギリス人によって書かれた一冊の本のタイトルであり、その本のはじめにある著者の60頁ほどの文章のタイトルにもなっている。(「Something Beautiful for God」 Malcolm Muggeridge著 Collins 一九七一年 )
彼女の生き方がこの一言によって表されている。マザーは、主イエスが言われた、福音書の言葉をそのまま生きていった人であった。
…そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ二五・40)
これは主イエスが、世の終わりのときに祝福される人と裁かれる人に分けられると言われたが、その時の言葉にある。人知れず、飢えている人に食べ物を与え、獄にいるような暗い恐ろしい状況にある人には訪ね、病気のときに見舞い…そのような弱い立場にある人はごく小さい存在とみなされ、周囲からも注目もされない。しかしそのような小さき人々への愛をもって助けるが、そのようなことをなしつつも、本人はそれを覚えていないほどに自然になされることがある。そのようなことこそ、「神のためになされた、何か美しいこと」である。
「私に結びついていなければ、あなた方は何もできない。」(ヨハネ福音書十五・5より)この、主イエスの言葉は、キリストにつながっていなければ、私たちは何か美しいこと、何かよいことはできない、ということである。
この世には、そのようなことと逆のことが実に多い。ニュースなど見てもいつも何かよくないこと、何か汚れたことが降り注いでいるように見えるほどである。
老年の人からせっかくよい本を読んでも、また聞いてもすぐに忘れる、とか礼拝集会に参加して学んでもすぐに忘れてしまう、と嘆きの声を聞くことが折々にある。しかし、結局のところ私たちがいろいろ覚えても、そこから何か美しいもの清いものをくみ取るのでなかったら究極的には役に立たないといえよう。
礼拝にしても書物や学びにしても、どれだけ覚えているかということではなく、何か清いもの、なにか美しいものを神から受けとるためなのである。
賛美を歌う、祈る、ただそれだけでも、神は私たちに天の国の何か聖なるもの、清いものを注いで下さることがよくある。神は私たちにそうしたものを与えようといつも待っておられる方なのであるゆえにそれは本来だれにでも、心から求めるものに与えられる。
この暗い出来事の多い世にあって、陽の光りがいつも降り注いでいるように、何かよきもの、美しいものが天から注がれているのをつねに実感できるようにならせていただきたいと思う。