器なる人間 2005/6
私たちは何かを独自にできるものではない。単なる器である。しかも壊れやすく、よごれた土の器である。しかしそのようなものに、神は天の国のよきものを盛って下さる。そしてそれを他者に提供するように仕向けて下さる。
その最たるものは福音である。信仰であり、それに基づく希望であり、神からの愛である。
それらはみんなもともと自分にはなかった。いまも私は壊れやすく、よごれた器である。しかしそれでも主は私を愛して下さるのを感じる。二十一歳のときから、そのような神の愛というものがあるのを突然知らされて以来、今日までの数十年をも、壊れた器がさらにひびが入り、欠けたようになってもなおそこに天の宝を置いて下さる。そしてそれを使うようにと言われる。
世界的に有名な人物であっても、その人間それ自体が罪がないとかいうのでなく、やはり罪人であり、汚れたものであり、弱い土の器にすぎない。
モーツァルトは多くの人によって親しまれ、愛されている。モーツァルト自身は聖なる人間といった人とはほど遠く、ごく普通の人間にすぎなかったようである。そのようなどこにでもいるような人間のどこからあのような天使が歌うような音楽が生み出されるのか、不思議に思われる。
また、ベートーベンもおそらく最も多く演奏される作曲家ではないかと思われるが、彼もときには激しい感情をもって怒り、悲しみ、悩んだ普通の人間であり、およそ聖なる人というタイプではない。にもかかわらず、彼の音楽がいかに多くの人たちを力づけ、奮い立たせたか、またこの世の、よごれて混乱した世から引き上げて別の世界を展望させるように導いたか、計り知れないだろう。
こうした人々、それは神がその土の器にすばらしい音楽を注がれたのだ。
欠点がある、未熟である、罪を犯す者でしかない…そのような者は神が使われないのだろうか。そうでない、もしそうなら、地上には誰一人使われるものがいなくなる。パウロが述べているように、神の目から見るなら、「私たちには優れた点は全くない。みな罪のもとにある。」(ローマ三・9)という状態だからである。
主イエスが最初に行った奇跡は、婚礼の席にあって、ぶどう酒が使い果たされてなくなった、そのとき、僕たちに、空の水瓶に水をいっぱい満たすようにという命令であった。その意外な言葉に驚きつつも、僕たちはその大きな水瓶に水を満たした。そうしてそれを運んでいった。すると、それらはぶどう酒に変わっていたというのである。(ヨハネ二章)
これは、主イエスの言葉に信頼してゆだねるとき、土のみずがめに入れたただの水が、香り高いぶどう酒になったように、私たちも土の器であるにもかかわらず、そこにキリストの香りのあるものを注いで下さるのである。
病身のからだであっても、しばしば健康なものにまさるものをそこに盛って下さり、それをこの世に証しとして用いることができるようにして下さる。
…わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。(詩編二三・5)
この有名な詩において、旧約聖書の詩人が歌っていることも、同様である。敵対するものに囲まれたただなかにあっても、なお、土の器なる私たちに豊かなよきものを注ぎ、あふれるほどに与えて下さるということである。