リストボタン真理の共鳴  2005/7

七月下旬から一週間ほど北海道や東北、東京などのキリスト者の方々とともに聖書を学ぶ機会が与えられた。その交わりを通して、真理はさまざまの場所で、いろいろの人たちによって保たれ、いのちを与えているということを感じた。
これはかつて私たちのキリスト集会に参加していた、韓国や中国の人、あるいは南アフリカの人たちにも言えることで、聖書の真理、キリストの真理を心の内にしっかりと持っているときにはおのずから初めて会う人たちとも旧友のような感じがする。
それは信じる人、相互のうちにいますキリストが同じであるからである。人間の精神の一番奥深いところで同じものを持っているときには、無理に合わそうとしなくとも、おのずから一致するものがある。
音叉の共鳴ということがある。同じ振動数の音叉なら、近くで鳴らした音叉の振動が、もう一つの音叉にも伝わり、鳴り始める。これは考えてみれば不思議なことで、音とは空気中の酸素や窒素などの分子の振動である。その極めて小さいものの振動が空中を伝わって、鉄でできた別の音叉を振動させるなどとはちょっと考えただけではおよそ起こりそうもない現象である。しかし、振動数が少しでも異なる音叉なら共鳴は生じない。
私たちが同じキリストを信じるとき、初対面であっても、不思議と共鳴し始めるのである。
その共鳴のもとは天にある。天の国のいのちの水が私たちに注がれるとき、私たちの魂は天の国のことに共鳴し始める。
私たちを取り巻く自然の世界は、大空の青いひろがりや真っ白い雲、夕日や朝焼けの美しさ、樹木の沈黙して風雨にさらされつつたち続けるすがた、可憐な野の花など、すべてそれは人間の意志とは関係なく存在している。人間が存在する前からそれらはある。それゆえ、そのような自然の風物は神のご意志、神の清さと愛を映し出している。
私たちが罪赦されて、いくらかでも神のお心、聖霊を受けるときには、そうした身近な自然も私たちの魂と共鳴し始めると言えよう。
祈りとは神の心との共鳴である。神の愛や真実が私たちの心と響き始めるとき、私たちは長く、かつ深く祈ることができる。そして私たちの心のうちにさらにその共鳴の響きを強めて頂くことができる。

区切り線
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。