巻頭言
聖霊の導きの下に祈りなさい。
神の愛によって自分を守りなさい。
(ユダの手紙20~21より)
平和への道 2005/12
新しい年に、何より願うことは、平和である。国の平和、世界の平和、それらの根底にあるべき心の平和。
日本においては、かつての大戦争が甚大な悲劇を生じたことへの強い反省から、平和主義の憲法が与えられた。戦前は、 国を守るという言葉のもとで、軍備の拡張がなされ、そのあげくに戦争が生じた。
そのゆえに、軍備を持つというのとは異なる方法によって平和への道を歩むことになり、日本は六〇年間曲がりなりにもその道を歩んできた。
今後は、それを変えるのでなく、いかにその道を補強するか、堅固な道にするかということである。そのために、軍備にかかる莫大な費用の相当部分を、とくに外国の貧しい国々に人手と物資、技術などを提供することである。
最新鋭の護衛艦であるイージス艦一隻は、千四百億円もするし、戦闘機は一機百億円ほどもかかる。このような費用を、海外への青年の奉仕、あるいは貧しい国々を実際に体験する研修に送り出すための費用として、また、そうした国々の医療や教育、水道など、不可欠なものの援助に充当するといった道こそは、国を本当に守る道である。
平和は汗を流すことなくしては得られないとして、外国に軍隊を派遣することを主張する人がいる。しかし、同じ汗を流すにも、軍隊でなく、奉仕ということで汗を流していくならば、どこの国にも認められるようになるであろう。
爆撃機や潜水艦、兵隊などを送り出し、武器弾薬などを提供することによって国際紛争を解決しようとするのでなく、あくまで飢えや貧困、医療や水問題などの解決のための奉仕に経費をかけることを継続していくことである。
このように、武力を持たないと国の最高法規で規定した上で、他国への奉仕ということによってその平和への道を強固にしようというような道は、どの国も歩んだことがない。
現在の憲法第九条は、本来そうした道による平和を指し示しているのである。
このような社会的、国際的な平和の根底にあるのが、一人一人の人間の魂における平和(平安)である。
目に見えるものだけを重要だと思ったり、自分中心に考えたり、自分のことを正しいと自負したりする傲慢さを持っていたり、弱い者を抑圧、差別したり、
憎しみを抱いたりするなら、それは心の平和を持っていないことであり、そのような人間が権力を持つなら容易に社会的な平和を破って自分の欲望のために、他の民族を抑圧したり、反対意見の者を権力で封じ込めたりするであろうし、そこから戦争ということにもつながる。
聖書ではこうした社会的な平和の根源にある霊的な平和への道を明確に告げている。しかし、そのような平和はただ何もせずに来るものではない。確かに血と汗を流して与えられるものである。
しかし、軍隊による侵略、軍事行動という形での血と汗でない。
主イエスは、その険しい道を歩むことを選ぶ際に、血のしたたるように汗を流して祈り戦い、自ら十字架にかかって血を流された。まさに、血と汗によって真の平和への道を切り開かれたのであった。
たしかにそのような方法により、永遠の平和への大路が開通したのである。その大いなる道は、天の国へと通じており、いかなる人間も組織もその道を破壊することも縮小することもできない。
「私は道であり、真理であり、命である。」と主イエスは言われたが、それは、真の平和、すなわち武力とか権力をもってするまちがった道でなく、永遠の平和への大路の開通を宣言する言葉なのである。
こうした平和への道は、イエスより七百年ほども昔の預言書によっても啓示されていた。
これは直接的には、シオンへの道を示すものであるが、現在の私たちにとっては神の国への道を指し示すものなのである。
そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。(イザヤ書三十五・8)
主イエスによって開かれたこの聖なる大路は、二千年の歳月を経ても変質することがない。ただし、それは主が言われたように、「入口は狭い門であり、細い道」である。
神を信じ、主イエスを救い主として受け入れるという狭い門がある。そしてまず神の国と神の義を求めていく細い道である。しかし、それは強固な道、永遠に破壊されない道であり、神の国へと続く道である。
そのような平和への道を歩む者こそが、人間の集りの平和、社会的な平和を人間の最も深いところから推進すると言えるだろう。そのような意味において、主イエスは、言われたのである。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ福音書五・9)