絶望という名の巨人と希望  2006/2

聖書は信仰の書物である。そして信仰を持って歩めば、必ず救いを与えられる。救いとは、私たちの心にある奥深い魂に平安が与えられること、罪にもかかわらず赦されて新しい命が与えられたと実感することである。
信仰を持っていれば災いは襲うことがない、と思われている。しかし、現実の生活はそのように単純ではない。
信仰を持っていても、打ち続く苦難や悲しい出来事のゆえに絶望的になることも聖書では記されている。
その最も印象的な例は、預言者エリヤである。彼は、偽預言者たち、偽りを預言する人たちを集めて、神の力によってそうした真理に反する者たちを滅ぼしたり、天から神のさばきの火を呼び出したと記されている。新約聖書において、イエスが現れたとき、エリヤの再来だと思った人々もいたり、イエスのさきがけとなって現れた洗礼者ヨハネは、世の終わりに再び現れるとされていたエリヤだと言われたほどであった。
しかし、そのような力強い預言者であったにもかかわらず、当時の王妃がエリヤを激しく憎み、彼を捕らえて殺そうとしているのを知らされた。エリヤはかつての力を失い、砂漠地帯へと逃げていきそこで、もう死にたいとの嘆きを発する。

それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。
彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、死を願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(列王記上十九・24より)

あれほど力を与えられていた預言者がこのように、希望を失い、生きる力を失って死を願うようになるというのは意外な気がする。しかしこれは人間の現実を指し示している。この地上に生きているかぎり、いかに信仰強き人であっても、時と状況においては、大きな罪に落ち込み、また気力を喪失してしまうこともあり得るということなのである。
このようなことは、「天路歴程」(*)という書物にもある。さまざまな困難と誘惑に直面しつつも神を信じ、罪赦され、かなたの光の国、神の国を目指して歩んでいる人の姿を記しているのがこの書物である。

*)「天路歴程」とは、今から三百数十年ほど昔にイギリスで書かれた。この書名は、中国語に訳された書名をそのまま日本でも使っているので、わかりにくい題名である。原題は、「巡礼者の前進ーこの世から来るべき世へ」(The Pilgrim's Progress from this world to that which is to come)というもので、神を信じ、キリストを信じる者がいかにして、罪ゆるされ、力を与えられ、守られ、導かれて天の国へと歩んでいくか、その歩みを書いたものである。
著者は、バニヤンといって、とても貧しい家庭に生まれ育った。父親は鋳掛屋をしていた。これは、鍋・釜などを修理する職業で、それは動物を使う興行師や行商人と同様な扱いを受けていて、社会的地位はことに低かったという。イギリスの文学者、作家でバニヤンほど低い地位にあった人はなかったと言われるほどであった。
そのような低き地位にあった人が、世界的な文学作品、しかもキリスト教信仰の上でもとくに重要な内容のものを生み出すことができたのは、神の導きという他はない。
彼は牧師でないのに、説教をしたということなどの理由で、三回にわたり入獄を経験し、合わせると十二年半もの獄中生活を経験している。
そうした経験をもとに、キリスト者であってもたいていの人が共通して経験すること、神の導きと助け、また罪との戦い、さまざまな霊的な困難や試練など、だれも書いたことのないような表現で著者は表現した。
バニヤンは生涯に六十冊にも及ぶ多くの本を書いたが、そのうちで最も重要なのが「天路歴程」でこれは聖書についでよく読まれてきて、過去三百年ほどの間に、百数十国語に訳されてきたという。
バニヤンは、獄中にあっていつ解放されるか分からない、最悪のときには獄屋で病気となり、死んでしまうかも知れないし、六年もの間獄屋に閉じ込められたことが、二回もあったことからして、判決で二度と獄から出てこられないような重い刑になるかも分からない。
こうした不安や苦しみ、孤独、そして真っ暗で、不潔な牢獄での夜の長い苦しみこんなただなかでバニヤンは「天路歴程」という名作の着想を与えられていったのである。しばしば偉大な作品は著者自身も思いも寄らない状況のときに作られる。それはいわば神ご自身が人間の予想をこえてなされるということを示すためであろう。

天の国を目指す二人の旅人(「キリスト者」と、「希望者」と名付けられている)は共に歩んでいたが、そのうちの一人(「キリスト者」)がふとした油断から、歩きやすそうな楽な道をとろうと誘った。しかしまもなく激しい雨が降りはじめ、もとの正しい道に帰ることができなかった。疲れ果ててかたわらにあった小屋に入って眠った。そこから近いところには、「疑いの城」(Doubting Castle)があり、その持ち主は、巨人絶望者(Giant Despair)という。
ここに入ってしまった二人の旅人は、この巨人絶望者によって激しく打ちたたかれ、もう生きていく気力もなくなっていく。「私の心は、生きるよりも息の止まること、死を願う」(ヨブ記七・15)ほどの気持ちになった。しかし、二人の旅人のうちの一人「希望者」が、ますます弱気になって死にたいという気持ちになっていく「キリスト者」を押しとどめ、励ましていった。
「私たちが目的とする国の王(神)は、殺すことを禁じています。人が自分を殺すことは、肉体と魂を同時に殺すことになる。そのようなことになれば、死後は苦しみの世界に行くことになろうし、永遠の命は到底与えられない」と諭した。
しかし、さらに巨人絶望者はひどく迫ってくるので、弱気になった「キリスト者」の方は、もう生きていけないというほどの気持ちになっていった。このときに、「希望者」は、「神の助けを待ち望んで忍耐しよう、かつてのあの苦しい旅路であなたも神の力によってそれらの苦難を乗り越え、勝利してきたではないか」と強く勧めた。それによって絶望的になっていたキリスト者も力づけられ、二人で真夜中から祈り始めて、ほとんど夜明けまで絶えず祈り続けた。
そうした祈りによって、キリスト者は、自分がその「疑いの城」の牢獄から出て行くための鍵を胸のうちに持っていることを思い起こした。 それは、どんな固い扉をも動かすことができるものであった。
その鍵とは、「約束」という名の鍵であって、神の救いの約束は決して変わらないことを思い起こし、その約束への信仰がよみがえったのである。神は真実であるから、私たちを救い、天の国へ連れて行くと約束して下さったことを受けとめた者にとっては、これは破られることはないのである。
こうした、神の約束を固く信じることによって、この世のさまざまの困難を乗り越えて歩むことは、讃美にもいろいろと歌われている。そのいくつかをあげる。

主は約束を かたく守り、
終わりの日まで みちびかれる。
主よ、終わりまで したがいます。(讃美歌21-五一〇番より)

悩み激しき時も
主の約束 頼み
安けく過ぎゆくため
主よ 御言葉 賜え
疲れし時に助け
御手にすがるわれを
御国に入る日まで
主よ、おまもりください(新聖歌三四九より)

人間の約束は空しい。人の心は実にもろく、約束したことなど簡単に破られていく。それは人間には本質的に罪深く、不信実であるから約束は守れないからであるし、また人間が弱く、見通しもできないために、先の困難や事故、病気など、状況が変ることを予見できないために簡単に約束してしまうからである。
しかし、神は真実なお方である。

また、どうか、わたしたちが不都合な悪人から救われるように。事実、すべての人が信仰を持っているわけではない。
しかし、主は真実な方である。必ずあなたがたを強め、悪い者から守って下さる。(テサロニケ三・3

このようにして、二人の旅人は、神の「約束」という強力な鍵を持っていることに気付いたために、それを用いて、巨人絶望者の支配から逃れ、「疑いの城」のいろいろの扉を開けて再び天の国への正しい道へと立ち返ることができたのであった。
このように、信仰もあり、さまざまの困難を越えて来てもなおかつ、人間の弱さのために思わぬところに迷い込み、神の導きや天の国のこと、神の愛などについて疑い始める。この「疑いの城」に入ってしまったとき、そのまま疑いが深まり、神の助けや救い、喜びも力もなくなって、いろいろのことが単なる想像でなかったのか、などという気持ちになってくることがある。そうするとそれまでの神の愛を信頼しての希望が次々と消えていき、絶望となり、その絶望がますますふくらんでいく。そこから「巨人絶望者」が「疑いの城」に住んでいるとされているのであろう。
たしかに、絶望は巨人であって、二人の旅人が立ち上がれないほどに殴られて傷だらけになったというが、この世は至るところ、この「疑いの城」がそびえ、そこに絶望の巨人が立ちはだかっている。そして人間をとりこにして、動けないようにしていく。
この世に真実な存在がおられ、そのお方は真実と愛をもって私たちを導いて下さること、キリストの十字架の死によって私たちの罪が赦されたこと、死に勝利する力がこの世に存在する等々のこと、それらを、幼な子のような心で信じる人はごく一部の人でしかない。
それは、バンヤンの言う「疑いの城」に取り込まれているからである。しかし、私は絶望などしていない、と多くの人は言うであろう。さまざまの仕事、趣味、ボランティア、芸術、旅行、スポーツなどなどに生きがいを感じているし、生きる目的があり、希望がある、と言われるかも知れない。
しかし、そうしたこの世の希望は死が近づくにつれて消えていく。仕事も趣味もボランティアも何もかもできなくなっていくからである。そして最終的に死によってすべてが無くなるのであれば、それはそうした希望も絶える、すなわち絶望という状態に取り込まれていくことになる。死とはあらゆるものを呑み込んでいくものであり、望みが絶えた世界であるからである。そして、この地球も太陽すらも、有限であって最終的には、消滅の方向に向かっているのであって、目に見えるものだけを信じるのならば、この世のすべては消えていくことになる。
そうした意味で、絶望というのはまさに巨人であって、この世のすべての人を取り込んでいく。
しかし、そのような巨人に立ち向かう道は、備えられている。二千年ほど前にキリストが来られてから、その道が永遠に開かれ、聖なる大路として備えられたのである。
キリストの十字架と復活、そして再臨こそは、それらの「疑いの城」の城壁を打ち壊し、絶望という巨人をも打ち倒すことができる力を持っているのであってそれらを信じて受け入れることができたものは、その疑いに満ちたこの世の力から脱して、絶望でなく、永遠の希望を持って生きる道へと導かれる。
神は愛であること、それは希望の原点でもある。神の愛があるからこそ、人間はこの世のすべてが移り変わっていくように見えるただなかから救い出されて、清い喜びと平安へと導かれるのである。神が愛であるということは、信じなければ分からないことであるが、それはまた「約束」でもある。どんな困難も神が愛であるからこそ、救い出して下さるという約束なのであり、神を愛するものにとっては、万事が益となるようにともに働く、ということも「約束」である。
「信仰と、希望と愛は永遠に続く。その中で最も大いなるものは愛である」(コリント十三・13)と使徒パウロが述べている通りである。

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