リストボタン飢え渇く心  2006/2

聖書には、求めること、神に向かって真剣に求めるときに必ず答えて下さるという内容の箇所は多く見られる。そしてそのことを裏返した表現として、この世のものに満足してしまっている心がいかに祝福されないか、ということも記されている。

しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。(ルカ福音書六・2425

これは、この言葉と逆の幸いを述べた箇所が有名であるのに対して、この言葉ははるかに知られていないし、また心に深くとどめられてはいないと思われる。
それは、「不幸である」という訳語にも問題がある。この箇所の原語は、「ウーアイ」(ouvai.)という言葉であって、間投詞(感動詞)である。(*
これは、「ああ! あなた方には悲しむべきことが生じる。」といった意味を持っている。 口語訳や岩波書店からの新約聖書、塚本訳などでは「わざわいだ」、新改訳では「哀れだ」と訳しているが、これは、イエスの深い哀しみが背後に込められている言葉なのである。

*)英語では Woe to you! ドイツ語では、Weh dir! スペイン語では、 Ay de dosotoros !というような表現になっている。

今、金や物、地位、評判などで満たされていて、目には見えないものを求めようとしない人たちは、何と悲しむべきものが待ち受けていることか! という彼らの前途を見つめての悲しみなのである。 そのような、目に見える物で満たされてしまった人たちは将来には悲しむべき事態がおきるということが、主イエスにははっきりと見て取れたのである。
これは、彼らが裁かれることを単に預言するとか、見捨てるような言葉でなく、主イエスの愛から出た言葉なのである。
目に見えるもので満たされる魂は、その行き着くさきは必ず苦しみであり、平安が与えられない。それを、霊的な鋭いまなざしで見抜くことのできた主イエスは、悲しみや苦しみがまざまざと見えるのであった。


悲しみは、自分の大切なものが失われたことから生じる。霊的に高められていない状態では、そのように悲しみも自分中心のものでしかない。しかし、神の霊に満たされるほどに、他者の現状や今後に受けるであろうことに対して深い悲しみを持つのである。それゆえに、彼らの罪を赦してくださいという祈りが生じる。
愛を持たない者は、それみたことか、天罰だ、といった見捨てる心となる。しかし、万人の救いを願う心、悪人も心を悔い改めて救われてほしいと願う心にはあらゆる人の前途がよくなって欲しいゆえに、前途によいものが見えないときには深い悲しみとなる。
主イエスがその生涯の終りに近づいた頃、十字架にかけられるのを自ら知った上で、エルサレムを目指して歩んでいった。そのとき、深い悲しみをもって言われた。

エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の(神殿や城壁など重要な建物の)石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」"(ルカ福音書十九・4244

イエスが涙を流して悲しまれた。それは神から遣わされたメシアを受け入れないことによって、都はローマ帝国によって徹底して破壊され、そこから追放され、長い歴史のなかで苦難の道を歩むことになることを見抜いていたからであった。
それゆえ万人の救いを願う愛の人には、哀しみを常に持つ。すでにこのことは、イエスよりも五百年ほども昔に書かれたとされる預言書には、将来現れるメシアは、「悲しみの人」であると言われているのである。(*

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。 しかし、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
(イザヤ書五三章より)

*)新共同訳は「多くの痛みを負い」と訳しているが、口語訳、新改訳、などは、「悲しみの人」と訳している。 He was despised and rejected by men, a man of sorrows,…New International Version 英訳の多くのもの、例えば、NJB,RSVなども a man of sorrows と訳している )

聖書において、いかに求める心が重要であるか、それは一貫して言われている。自分の力や、美しさ、金、地位、能力等々にもしも満足して誇る気持ちがあれば、目には見えないものを求めない。それは必ず滅びへと向かい、本当によいもの、神の国の賜物が与えられないのである。 有名な「求めよ、そうすれば与えられる」「まず、神の国と神の義を求めよ」というのはこうした切実な求めの心を意味している。
そして、主イエスも「義に飢え渇く者は幸いだ、満たされるようになる」と言われた。
新約聖書だけでなく、旧約聖書の詩編はそういった意味で、すべてをあげて神に求める心が最もリアルに記されている書物である。詩編四十二編にはつぎのようにある。

涸れた谷に鹿が水を求めるように、
神よ、私の魂はあなたを求める。
神に、命の神に私の魂は渇く。(詩編四二編より)

ここには、水がなくても谷のように見えるところを目指して必死に水を求めている鹿にたとえて、神を求める切実な心が表されている。
この求める姿勢があるかどうか、それが根本問題である。求める姿勢は、欠乏をひしひしと感じるのでなかったら生れない。主イエスも「求めよ、そうすれば与えられる」と約束された。
これは、ルカ福音書でいわれているような、目に見えるもの、金や地位などで満足してしまい、それを楽しんでいる姿とは際立った対照をなしている。
すでに、目に見えるもので満足している者は、見えないものを真剣に求めない。霊的なものを求めようと全身で努めるということがなくなっていく。
また、主イエスが十字架にかけられ、最期のときに、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」という叫びをあげられたが、それは詩編二十二編の冒頭にある叫びそのものであった。主イエスより数百年も昔の一人の人間の底知れない苦しみの叫びは、人間でもあったイエスがそのまま叫んだことでわかるように、最も苦しい人の叫びを自分のものとしておられたのであった。
ここには、全身全霊をあげて神を求めるすがたがある。これは見えるもので満足している状態とはまさに正反対である。
しかし、こうした救いを求める激しい叫びは、必ず聞き届けられる。詩編二二篇は冒頭の叫びが、主イエスの十字架上での叫びともなったので、とくに知られている。
そのあと、次のような切実な叫びが記されている。

神様、あなたは私を土くれと死の中に捨てられた。
主よ、あなただけは、私を遠く離れないで下さい。わが力の神よ、今すぐに私を助けて下さい。(詩編二二・1620より)

しかし、この苦しみと絶望的な叫びは、次のような救いへとつながり、確信を与えられ、そこから世界へと心は向けられていく。

私は兄弟たちに御名を語り伝え、
集りの中で、あなたを讃美します。
主をおそれる人たちよ、主を讃美せよ。
主は苦しむものの苦しみを決して侮らず、さげすまない。
助けを求める叫びを聞いて下さいます。
それゆえ、私は大いなる集りで、あなたに讃美をささげ、
主を尋ね求める人は主を讃美する。
地の果てまで、
すべての人が主を認め、みもとに立ち帰り、
国々の民が御前にひれ伏しますように。(詩編二二・2328より)

このように、始めの部分のこの上もない苦しみと絶望的な状況から、救いの確信と深い平安に導かれ、そこから自分だけでなく周囲の世界の人たちへの伝道の心となっていくのがわかる。
これこそ、「貧しい者、苦しむ者、泣いている者たち」が与えられると約束されている「神の国、天の国」であり、祝福であり、本当の幸いなのである。
そしてこの天の国は、求める心が強く、切実なほど、豊かに与えられる神の賜物であるが、それはどこまでも広がりと深みのあるものなのである。
この第二二篇という詩の直後に置かれているのが詩編二三編である。これは、旧約聖書においては最も有名な詩であるが、実はそれは詩編二二編の何にも増して激しく求める心によって与えられた深い満足が、その次の二三編に表されていると言えよう。
この世のもの、金や名声、評判、財産や地位などによって満足するのでなく、かえってそれらの空しさを深く知らされた魂は、神の国を求める。それは、この世のものが持っていない正しさであり、真実さであり、それらを持った愛、すなわち神の愛である。そして自分が欠けたところの多い者にすぎないことを知り、神によって正しい者とされることを飢え渇くように求めるようになる。この世には不正があふれているが、そのただなかで、正義を飢え渇くように求める心こそ祝福されるといわれている。
ここにも、渇くように真剣に求める心への祝福が強調されている。
この世の幸いは、いかに持っているか、である。能力、結婚、家庭の幸い、賞、業績、健康等々。しかし、神が私たちに与えて下さる幸いは、そうしたものがなくともいいのであって、ただ幼な子のように神を仰ぎ、自分は何にも持っていないゆえに、神に心から求めるという気持ちがあれば足りる。幼な子のようにただその求める心だけで、天の国の祝福を下さるというのが聖書の約束なのである。
詩編二七編も同様に真剣に求めるときに与えられる祝福を表した詩である。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。
主よ、呼び求めるわたしの声を聞き
憐れんで、わたしに答えてください。
心よ、主はお前に言われる
「わたしの顔を尋ね求めよ」と。
主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
わたしは信じます。
命あるものの地で主の恵みを見ることを。
主を待ち望め
雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。(詩編二七・414より)

目に見えることに心を注ぐのでなく、神に対する切実な願い、神の国を与えられることに全力を注ぐこと、そこにこそ、豊かな祝福が約束されている。
人間は、すでに子どものときから、地位やお金、財産、成績など目に見えるものを求め、大人になってもそれを得ようと全エネルギーを注ごうとする。しかし、人間の短い一生をそのようにして見えるものの追求をし続けても一体なにが残るであろうか。
夜空の星や、日が沈むときの美しい光景、雄大な雪をいただいた山の連なり、一つ一つ異なる精巧な美しさを持っている野草の花たち、それらは皆、私たちにそれらで象徴されるような、清いもの、力強いもの、永遠的なものを求めよ、と語りかけているのである。

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