ことば 2006/3
(228)あなたは、働いているときも、祈ることはできます。仕事は、祈りを止めることはしないし、祈りは働くことを止めさせたりしません。
祈りは、次のように心を少しだけ主に向けるのを必要としているだけなのです。
私は、神様、あなたを愛しています。
あなたに信頼しています。
あなたを信じています。
今あなたが必要なのです。
このような小さなことなのです。
こうしたことがすばらしい祈りなのです。(「マザー・テレサ 日々のことば」二月三日の項 女子パウロ会刊)
You can pray while you work.Work does'nt stop prayer and prayer does'nt stop work.
It requires only that small raising of the mind to Him:
I love you God
I trust you
I believe you
I need you now.
Small things like that.
They are wonderful prayers.(「The Joy in Loving」73p )
・このマザー・テレサの言葉は、新約聖書で、次のように言われていることが背景にある。
…絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ五・17~18)
絶えず祈れ、と言われているが、それは何かをいつも祈っているというより、ここでマザー・テレサが言っているように、心を常に主イエスに向かわせていること( small raising of the mind to Him)を意味している。
(229)英知への愛(哲学)は、それを実行する際に、他のすべてのものにはるかにまさっている。というのは、英知を愛するということを実行するためには、どのような道具も、また、どのような特定の場所も必要とせず、世界のどの場所であれ、人が自分の思考を働かせさえすれば、その人は、いわばいずこにでも、同じように存在している真理に触れることができるからである。
このようにして、英知への愛(哲学)は可能であるということ、それがいろいろな善きものの中で最大のものであり、それを獲得するのは容易であるということが証明された。
そしてそれゆえに、あらゆる点から見て、英知への愛(哲学)のためには、熱心な努力を傾けるに価するものである。(「哲学の勧め」アリストテレス全集
第十七巻 五五三頁 岩波書店刊)
・哲学というと、難しいもの、ごく一部の人のもの、と思われがちであるが、これは本来は、「学」ではなく、原語のフィロソフィア( philosophia )という言葉は、「英知(ソフィア)を愛する(philew)」という意味なのである。
そして、ここで言う英知とは真理にかかわる判断能力であるから、フィロソフィアとは、「真理愛」というような意味を持っている。
それゆえ、アリストテレスが、哲学について言っていること、真理を愛することは、どこであってもできること、道具も要らない、場所も選ばない、自分で考えること、そして直感的判断を鋭くさせることだけでできることだから、この世で最もよきことだと述べている。
これは、キリスト教で言えば、神を愛することは、いつ、どこででもできるし、何の道具も要らない、資格も不要、そして祈りの心をもってすれば、いつどこででも存在する神の愛に触れることができる、と言い換えることができる。そして神への愛は、いろいろな善きもののなかで、最大のものであって、そのような点を考えると、さらにそれを身につけるのは、容易なことである、ということになる。
(230)モーツァルトは、この光に包まれた全創造を聴いたのである。
そしてこのとき、彼が中間的で中性的な音を聴いたのではなく、否定的なものよりは、肯定的な音をより強く聴いたことは、本当に理と秩序に合ったことなのであった。…
彼はただ一つの側だけを抽象的に聴くことを決してしなかった。彼の音楽は昔も今も、全体的音楽である。…
彼は、彼自身の音楽でなく、被造物の世界それ自体の音楽を造り出した。(「モーツァルト」カール・バルト 80~81より 新教出版社)
・モーツァルトの音楽は、光に包まれた創造世界の全体から発せられている自由と喜びの表現であり、被造物の世界が神を讃美している姿を音楽によって表したものと言える。
聖書には、次のように記されているが、モーツァルトの音楽には、確かに、天も地も主を讃美している霊的状態が、音楽によって表されている。
…天よ地よ、主を讃美せよ
海も、その中にうごくものもすべて。(詩編六九・35)
(231)
一切の仕事が、神を離れては困難であり、神とともにあれば、一切が可能である。(「幸福論」第三部 278p ヒルティ著 岩波文庫 )
・私たちは何らかのことをしている。働きをもっている。ふつうは、病気の人は仕事ができないと思われているが、それぞれの病状に応じて、手紙を書く、言葉や、まなざし、心で思うこと、祈りなどで神の国のために、「働く」ことができる。そのようにどんな人でも何らかの仕事を持つといえるが、その際、どんなに活発に働いている人であっても、神を無視して、つまり自分中心の考えでやっているかぎりそれはそのうちに壊れていく、消えていく。しかし、神とともにあるとき、どのような小さな働きであっても、必ず生かされる。祝福がある。私たちの願いは、それゆえ、人から注目されるとか、目に見える結果を得たいとかいったものでなく、絶えず神が共にいて下さるように、そしてその神が私たちの心を導いて下さるように、ということである。