慰霊を越えるために 2006/7
毎年七月、八月になると日中戦争や太平洋戦争の何百万人という死者のための慰霊という言葉をよく目にする。
最近つねに問題となっている、靖国神社の問題もまた慰霊ということが根本にある。
「…本来、靖国神社問題とは戦没者に対する慰霊の問題であったのに、外交問題となってしまった」とか、「戦没者の慰霊の中心的施設は、靖国神社で ある」というような表現や主張がよく見られる。
しかし、慰霊とはどういうことなのか、現在生きている人間が死者の魂を慰めたりできるのか、そもそも死者は悲しんでいるなどと決めてかかって、それを慰めなければなどということが本当なのか、そのような考えに何の根拠があるのか、そのようなことの議論は全く見られない。
靖国神社に首相が参拝することによって中国との間に大きな問題が生じ、二国間に相互に相手国を非難するような心情が生れているのは悲しむべきことである。この根源をたどると、靖国神社が、日中戦争、太平洋戦争という侵略の戦争を引き起こした人たちを「神」としてまつり、それを国家を代表する首相が参拝するから問題になる。もし、戦死者などを単に「記念」するという施設ならばこのような問題は生じないのである。
神として祀り、参拝するということは、そこで祀られている戦争責任者をも敬い、あがめる、ということになる。それはかつての侵略の戦争を肯定することにつながるから、中国などは強い非難をするようになった。
しかし、戦没者を記念するということは、それを神として礼拝するというのとは全く異なる。記念するとは、間違った人間なら、そのようなことが生じないように、よき行動をした人たちならそのことを覚えて模範とする、また、関わりある人たちは亡くなった人たちのことを心にずっと覚えるということになる。平和記念館のような施設は、そこで戦争を讃美する施設でなく、戦争の悲劇をあらわす資料を置いて、それを覚えて間違ったことをしないように、平和への心を強めるという目的になる。
このように、靖国神社問題はつきつめてみれば、死んだ人間を神々として祀り、その霊を慰める、といった宗教的発想にある。
宗教といえば、多くの人が思いだす言葉は、この「慰霊」ということで、霊を慰める、ということである。戦争でなくなった人たちの霊を慰める、あるいは、飛行機の墜落による事故死の人たちの慰霊のために、山に登る、ということをよくニュースや新聞などで聞いたり読んだりする。
しかし、聖書では意外なことに、旧約聖書、新約聖書を含めると二〇〇〇ページを越えるような分厚い本であるが、死んだ人の霊を慰めるといったことは全くといってよいほど記されていない。
慰霊という言葉には、その背後には、死んだ人が悲しんでいる、恨んだり、悔しい思いをしている、だからそのような霊を慰めるのだという考えがある。
ことに、事故や戦争とか、人間同士の争いで死んだとか、畳の上でなく、野外で死んだとかになると一層その人は死後も悲しんだり、怒ったりしている、と思われて、そのような霊を慰めないと、生きているものに祟ってきて悪いことをするというのである。
しかし、聖書においては、死者に対する祈りの必要性は意外なことに、記されていない。
祈りというのは、自分自身を含め、生きている者に対するものとしてなされている。旧約聖書には一五〇編から成る詩集(詩編)があるが、そこでは単に自然を歌うとか、人間の愛情を歌うというのは全くなくて、常に生きた人間の苦しみや悲しみに手を差し伸べる神を待ち望むこと、そのような神の助けと愛を経験した喜びと讃美、悪が除かれること、神が創造した自然を讃美すること、神は従おうとする者を必ず恵み、真実に逆らって生きようとする者には必ず裁きがあることなどがテーマとなっている。ここにはどこにも死者への祈りというのがない。
現在の仏教で、死人に対する祈りというのが前面に表れるのは法事などで、それは次の仏教学者の言葉にあるように、生きている人への祈りでなく死者をなだめる行事なのである。
次に仏教関係の書物を多く出している仏教学者の書物から引用する。
「法事とは、葬儀が終わったあと、まだ不安定な状態にある死者の霊魂を、安定化させるために行なわれる儀式である。
従って、その背後には、死んだ直後の死者の霊魂は不安定であり、生きている者に祟りや災厄をもたらすかもしれないといった感情があり、定められた儀式(法事)をすれば死者の霊魂は安定し、祟らなくなるといった一般通念がある。」
(ひろさちや著「仏教のしきたり」70頁 著者は、東大文学部インド哲学科卒後、気象大学教授を経て宗教文化研究所長。仏教思想家)
盆踊りの起源についても、現在ではどこに起源があるのかほとんど考えたりしないで、はなやかな夏の行事となっているが、これすらも、もとは、死者への供養から始まっている。
七月は祖先の霊が家を訪れるものとされ、盆棚で帰って来た祖霊を歓待し、その後子孫やこの世の人とともに踊ってあの世に帰ってもらうのであり、 祖霊を慰め、死者の世界にふたたび送り返すことを主眼としている。
七月に行なわれる京都の祇園祭は数十万人もの観光客が訪れる華やかな祭である。
この有名な祭の起源もまた、死者の霊を慰めるということなのである。平安時代のころ、しばしば疫病が流行したが、その原因は菅原道真(すがわらのみちざね)などの政治的な争いで失脚して、恨みを現世に残して死んでいった人々の怨霊(おんりょう)の祟り(たたり)であると考えられた。この怨霊を御霊(ごりょう)ともいう。そこで神仏に祈りをささげて怨霊を慰め、鎮めることを目的に市中を練り歩く御霊会(ごりょうえ)が度々行われた。祇園祭はこうした行事のひとつ、祇園御霊会を起源として始まった。
このように、現在京都の三大祭として全国的に知られている大きな行事が、怨霊を恐れ、それを慰め、鎮めることから始まっているということは、いかに日本人がこのような死者の霊を恐れていたか、それを鎮めることにエネルギーを注いできたかを象徴的に示すものである。
なぜ、このように日本では、死人の霊を恐れてきたのだろうか。
それは、この世界を支配する唯一の神が存在しないと信じているからである。人間が死んだら一種の霊となって、不気味な恐いものとなる、それぞれの霊が何をするか分からない、という恐れがある。伝統的宗教では、どんな人間でも死んだら神になっていくのであり、恨みを残して死んだり、事故などで不本意ながらいのちを亡くした人はとくになだめられないならば、幽霊のようなものとなって生きている人間にたたってくる、というように考えられている。
しかし、キリスト教はそのような、さまざまの霊などは、神のまえに何の力もなく、神がすべてをご支配なさっているという信仰がもとにある。万能の主、万軍の主といった表現もすべてを支配なさっていることと結びついている。
また、事故や悲劇的な出来事でいのちを奪われた者であっても、その人の生前の心、何に心を向けていたか、この世の真実なもの、清いものにまなざしを向けていたか、自分の罪を知ってみまえに悔い改める姿勢を持っていたならば、その人の霊は神のもとにて復活する。それゆえに、そのような人の死後の魂を慰めたり、恐れたりするということは無用なことになる。
キリストは実に残酷な刑罰で殺されたから、ふつうの日本の伝統的な宗教では、その霊は恨みを持っているとか悲しんでいるということになるが、事実は全く逆で、神のもとに帰り、あらゆる罪の力をあがない、神と同じ存在となって私たちを見守っておられる。
最初の殉教者ステパノもその信仰のゆえに石で打たれたが、死ぬ直前に自分を迫害する人たちへの祈りをなし、天にいるキリストをまざまざと見ることが許されていた。そのような人が死んだら、恨むということはあり得ないのであって、逆に地上に残された人間を見守り、励ましている存在となっていると考えられる。パウロやペテロなど、あるいはそれ以後の迫害されていのちを奪われた無数のキリスト者たちも同様である。
彼らの霊に対して、生きている人が供養したり、なだめたり、あるいは慰めたりするということは全く無意味なのである。そうでなく、そうした人たちを私たちは思い起こし、記念とし、私たちの歩みを正しくすることにつなげるのである。
だから、キリスト教では、死者への慰霊というものはなく、覚えて、よきところを思いだす、記念するというのである。
そして、悪を行なった魂は万能の神が必要な裁きをなさるだろう。しかし、だれがどのような悪によって裁かれるのか、表面的には分からない。息を引き取る最期のときに悔い改めたかも知れないのである。あるいは重い病の床で言葉にならない悔い改めをしたかも知れず、冷たい独房のなかで、重い自分の罪の重さに打ちのめされて悔い改めの涙を流したかも知れない。そうした最後の時までどんなことが魂において生じたか分からないゆえに、私たちは悪いことをした人であっても、だから地獄に行くのだなどと断定は決してできない。それはあくまですべてを見ておられる神にゆだねたらいいことなのである。私たちとしては、すべての人に善きことがあるように、御国を来らせたまえ、と祈り願うことが求められている。
死者の霊だけでなく、この世は私たちに恐れをもたらすもので満ちている。病気や人間関係、あるいは将来の不安、老後の自分、世の中の変動、仕事のこと等々。さらに、死者の霊とは異なる、さまざまの悪の力(霊)が、至る所で私たちを間違った道に誘い込もうとしている。
そうした恐れに満ちたこの世界にあって、闇の力を打ち砕いてくれるのが、聖書で数千年前から示されている神への信仰である。
…あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。
…恐れるな、わたしはあなたと共におる。(イザヤ書四十三・1、5より)
このイザヤ書の言葉のように、私たちが生きた神からの直接の励ましや語りかけを受けるとき、目に見えない悪の霊的な力は退けられ、たしかに恐れは消えていく。そして新たな力が与えられる。
また、新約聖書には、このようなさまざまの目に見えない悪の力(霊)との戦いの重要性が記されており、そのためにこそ、神は私たちに信仰を与え、神の言葉を武器として戦うことが求められている。
…わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、…悪の諸霊を相手にするものである。
だから、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、…信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる。
霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
どのような時にも、(神の)霊に助けられて祈り、願い求め、…絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エペソ書六・12~18より)
ここに記された道こそ、死者の霊やそのほかのさまざまの悪の力に取り巻かれつつも、それらを恐れたり、打ち負かされたりすることなく、かえって勝利していく道なのである。