詩の世界から 2006/7
一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも (万葉集 巻第六 一〇四二)
松の老木、それは大木になるほどに風吹きわたる音は他にはないような、重々しい、そして清い音を奏でるようになる。最近では、松の古木が少なくなってしまい、松に風が吹くときの音に接することはますます少なくなっている。私が子どもの時代には、まだ、海岸にもまた山々にも松の古木が多く見られたものである。そして三〇年ほど前くらいまではまだ松の木が多くあったので、わが家のある山に登ったとき、時々風の強い日には、この独特の松風の音に聞き入ったことがよくあった。
「松風さわぐ 丘の上 古城よ一人 何しのぶ…」という、昔広く歌われた歌謡にもあるが、大きい松に風の吹く音は人を立ち止まらせ、人の心を引き寄せるものがある。
松に風の吹きわたる音の響きは、とくに「松風」とも「松籟(しょうらい)」とも言われる。それは昔からこのように、独特の感慨をもって聞かれてきたからであろう。なお、「籟」には、竹かんむりが付いているが、それは「竹で作った笛」の響きを表す言葉であったからで、そこから「ひびき、風の吹き通る音」を意味するようになった。
松の葉、それ自体は、見栄えのしない針のような細い単調なつくりのものでそれをこすり合わせたところでよい音楽を奏でるなどとは到底想像できない。しかし、神は最高の音楽家でもあり、あらゆる音楽家にその才能を与えたお方であるから、松の葉と、目に見えない風という、いずれもきわめて単純にみえるものを用いてどんな管弦楽も生み出せない深みをたたえた、単純でありながら重々しく、しかも清い音楽を奏でるようにされたのである。
年を経るほど、人間の声はよどんでくることがある。人間の心も生き生きした感動もなくなってくることが多い。木々もまた老化して枝も枯れていく。しかし、この万葉の詩人は歳月を越えて生き抜いてきた松からは清い響きを感じ取ったのである。
人間もまた、自然の樹木がそうであるように、神に導かれるままに生きていくとき、老年になって、何か清いものを周囲に流れさせるようになる。老年の清さ、それは苦しみや歳月の流れに動かされない神の賜物を内に持っているときに表れてくる。
○苦しみの きわまる時し むらきもの 心は澄みて み顔を思ふ
(「真珠の歌」20頁)
この歌集は、「祈の友」の人たちによるもので、結核で日夜苦しめられ、家族とも分かれ、死が間近に感じられるような状況にあって作られたのがうかがえる。苦しみや悲しみが強いほど打ちのめされるが、そのときに主を仰ぐとき、かえってほかの様々のことがぬぐい去られ、主のみ顔がはっきりと感じられる。なお、「むらきもの」とは、「群肝の」、で多くの内臓を意味し、そこから心にかかる枕詞となった。、