ことば 2006/7
(238)神と正しい関係にある人にとっては、結局、敵というものはもはや存在しないのである。すべてのものが神のしもべにすぎない。(ヒルティ著 眠られぬ夜のために下
七月二十二日の項より)
・…Der mit Gott ganz richtig steht, gibt es uberhaupt schliesslich keine Feinde mehr;es sind alles nur Knecht Gottes.
神は、万物を支配しておられるゆえに、敵対する人をすら神がその御計画のために用いられる。神は、敵だけでなく、すべてを最終的にはよきに転じることができる。このことを、使徒パウロは、「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマの信徒への手紙八・28)と言った。私たちが神にしっかりと結びついているならば、生じる様々のことがすべて益となるように働くのなら、このような実感を深く持つときには、そのように感じさせてくれる神への感謝と讃美が生れるだろう。そしてこれこそ、「常に喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」(Ⅰテサロニケ五・16)ことができる境地であり、そのようなところへと私たちは招かれていると言えよう。
(239)神の純粋な精神は、人間の生命の中よりも、自然のなかにこそ、より純粋に、より明確に現れている。いや、単にそれだけでない。人間は、自然のなかに純粋に現れているこの神の精神のなかにこそ、人間の本質や品位や高貴さを、鏡に映して見るように、まったく明瞭に、かつ純粋に、また全く根源的な姿において、観るのである。
…自然のあらゆる事物のなかで、草や木、ないし植物、とくに樹木ほど、その沈黙の思慮深さと、その内的生命の明瞭な表現とのゆえに、真実で、明瞭で、かつ完全で、しかも単純な現れ方をするものは他にない。(「人間の教育」上巻
二一三~二一四P フレーベル著 岩波文庫)
・神の純粋な精神、すなわち清さ、力、無限の多様性、雄大さ、美しさ等々は、たしかに人間よりも自然の世界がずっと豊かにもっている。樹木、とくに大木のもっている沈黙の力、その姿は、それに触れるものにふしぎな感動を与える。他の動物にない、人間の最も霊的ないとなみは、目に見えない神を仰ぐことであり、祈りであるが、樹木の姿はその沈黙の姿が祈りを象徴していると言えよう。
・フレーベルは、一七八二年ドイツ生れ。父親は牧師。ペスタロッチの深い影響も受けた。生後九か月で母をなくしたこともあって幼児教育の重要性に目覚め、Kindergarten (キンダーガルテン)という名称の施設を作ったことで有名。なお、「幼稚園」はその訳語で「子ども達の庭」を意味する。植物に水や肥料をやり、育つのを助けるように、幼児に対しても自然的な成長、発育を助けるべきことを説いた。
編集だより
○来信より
月の初め、「今日のみ言葉」(コリント人への手紙第一10:13)の配信を頂きました後、
私は思いもかけず、仕事において大きな失敗をしました。
何度「今日のみ言葉」を読み返したか、わかりません。
しかし、先日「無から有を生み出す」神様は、やはり思いもかけない解決を与えて下さいました。
あの配信と、み言葉、家族の祈りに本当に支えられました。
いま、神様への感謝で胸がいっぱいです。
み言葉配信の働きをどうもありがとうございます。
栄光を全てイエス様にお返しします。(九州の方)
・神の言葉は、主がなそうと思われるときには、予想していないような働きをすることができます。私たちの努力とか熱心がいくらあっても、それは主が用いられなかったら何も生じませんが、小さなことでも主が用いられると不思議な働きをするのを感じます。
○七月十三日(木)~二十日(木)までの八日間、吉村(孝)は、北海道から東北、関東、中部地方などのいくつかの集会を訪問し、み言葉について語る機会が与えられました。
最初の十三日~十六日(日)までの四日間は、北海道南部の、日本海に面し、奥尻島の対岸にある瀬棚町において、去年と同様に瀬棚聖書集会が開催されました。今年で第三十三回となるこの集会は、酪農をしている人たちが多く、さらに米作農業、養豚などに従事している人たちが主となって開催されているものです。今回この聖書集会の開催の事務局となった野中
信成さんが生れて間もないころにこの聖書集会は始まったということで、ほかの人たちも幾人かは幼児のときから参加してきたようで、多くの人たちの祈りが注がれてきたゆえに、三十数年もの間、この瀬棚地区の聖書集会が続いてきたのが感じられました。また、三十歳前後の若者たちは多くは、山形のキリスト教独立学園の卒業生で、そこでのキリスト教に基づく教育も主に用いられているのを感じたことです。
参加者は部分参加の人も合わせて、名簿には四十五名ほどが載っていましたが、参加できなかった人もいるようなので、実際はもう少し少なかったはずです。しかし、名簿にない子どもたちも合わせると、五十人ほどが何らかの形で加わった集会になりました。
聖書講話は四回、最後の利別教会においての礼拝を合わせると、五回の聖書講話がプログラムに折り込まれ、座談会や感話、瀬棚の農家へ、北海道外からの参加者が別れて一日だけ宿泊することも、それぞれが恵まれたときとなり、「讃美」のひとときなどもあり、全体として地元の人たちの信仰と仕事、そして家庭に触れ生きた神の導きを実感することができました。
今回は、北海道以外からも、徳島聖書キリスト集会から七名、長野県、福岡市、横浜市などから各一名ずつ参加してより広い集まりとなったことも感謝です。
瀬棚での最後の日は、日本キリスト教団の利別教会においての礼拝でした。ここでも去年と同様に、主日礼拝の聖書講話(説教)の機会が与えられました。
・札幌での交流集会…これは瀬棚の聖書集会の終わったあとに、開かれるようになりました。もともとは、埼玉の関根 義夫氏が代表者となっている聖書集会に属していた中途失明者の大塚
寿雄兄が札幌に転居していて、その大塚さんと徳島聖書キリスト集会の視覚障害者の何人かの方々との交流があり、そこから札幌での集まりへと導かれたのでした。今回も、札幌聖書集会、旭川平信徒集会、苫小牧の集会、札幌発寒集会、そして札幌独立教会に属する方々が二十名ほど参加し、そこに徳島と福岡からの八名が参加しての集会となりました。この集まりも三回目となり、それまでは全く知らなかった札幌や苫小牧など各地のキリスト者の方々との出会いが与えられ、私どものキリスト集会とも新たな交わりが開けたことも大きな恵みです。
・吉村(孝)以外の徳島からの参加者は、その後徳島に帰りましたが、私は札幌での集会のあと、仙台、山形、八王子、山梨、静岡など各地での小集会にてみ言葉を語る機会が与えられ、また主にあるあらたな交わりも与えられました。
仙台は初めて訪れる土地でしたが、「いのちの水」誌の読者の方々がおられ、また私のみ言葉のための働きを覚えて下さる方々もいて初めてであっても親しみを感じるところでした。午後の集会開始までまだ時間があったので、迎えて下さった市川
寛治兄とともに、青葉城跡、その前の広瀬川の流れのほとりを散策、近くのキリシタンの殉教碑にも案内して下さいました。信仰を捨てない人たちをその川の水牢に入れて責めて迫害したこと、命に代えてもその信仰を守り通した先人の苦しみとそのような堅固な信仰を与えた神の力を、そしてその力は今も働いていることをも思いました。
午後からの集会には、十人未満の方々でしたが初めての方、仕事の合間に来られた方、高知の四国集会での私たちの仲間となっている原 忠徳さんが長くともに学んだ集会の方などとともにみ言葉を学びました。
夜は山形の聖書集会の方々、十名あまりの人たちと、石澤 良一兄の経営する「サヤカ」という場所で行なわれました。今回初めてお会いする何名かの方々も含め、長い信仰の歩みを持ったかた、最近この山形聖書集会に加わった方などここでもみ言葉の学びを中心にしての集会が与えられました。
翌日は八王子市での永井宅での集会で、八王子市の方々を中心として、川崎市、多摩市、相模原市、府中市などからの参加者でした。今回初参加の三名を合わせて十五名ほどの参加者でした。このみ言葉の学びのために特に会社の仕事を休んで参加された若い方もおられ、み言葉はいろいろな人たちを引き寄せる力があることを感じたことです。
夜は、初めて山梨県に出向き、夜に加茂 悦爾、昌子ご夫妻宅での集会となりました。加茂さんご夫妻は、今から七年ほど前に、徳島での四国集会に山梨から一日がかりで列車で岡山→高松まわりで参加されたことがありました。聖書は初めてという方、随分久しぶりの方、また参加するかどうかはっきりしなかった方なども参加して、初めて出会う方々との学び、賛美や交流を共にすることができて感謝でした。
静岡では、石川 昌治兄宅での集会、そして岩辺さん宅に移動して短い時間でしたがそこでも小集会を与えられて、帰途につきました。
以前からの知り合いであったり、「いのちの水」誌を通しての交わりがあっても、実際に顔と顔を合わせて見ることは、また異なる祝福が与えられることを実感しました。
聖書にも、使徒パウロが直接に会うことの重要性を書いています。
…兄弟たちよ。わたしたちは、しばらくの間、あなたがたから引き離されていたので――心においてではなく、からだだけではあるが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。
だから、わたしたちは、あなたがたの所に行こうと思いました。ことに、このパウロは、何度も行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。(Ⅰテサロニケ二・17~18)
また、パウロは書いたものを送るだけでなく、直接に会って霊的な力を補いたいと次のように言っています。
…顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。
どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。
どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。(Ⅰテサロニケ三・10~12)
ここに、直接に会うことが、霊的な賜物、祝福を相手に伝えるものであることが記されており、パウロがどこかにみ言葉のために行くときにも、つねに真剣な祈りをもって、神の言葉、聖霊が伝わるようにと願いつつ行動していたのがうかがえます。そしてそれによって単なる知識でなく、人々の間に神の愛が満ちあふれるようにと、願っていたのです。
このように行く先々で神の愛が広まるように、それで満ちるようにという願いのみで働いていたのはまさしくパウロが神の僕であったしるしです。
私たちは不十分な者であるけれど、たしかに、主の名によって互いに交流することは、相互に足らないものを補い合うということが可能になります。それはそうした交わりの内にいます主がなして下さることなのです。このことは、今までの四国集会や小さな各地の集会などでも、たえず経験させられてきたことです。
今回も、徳島聖書キリスト集会の方々、そして集会を開いて下さった相手方の方々によって変ることなき祈りが捧げられ、そうした祈りに私も支えられての一週間であったことを思い、感謝でした。
お知らせ
○祈の友四国グループ集会
今年は祈の友のグループ集会も愛媛県の「祈の友」が担当です。近いうちに、松山市の二宮 千恵子姉からの案内がなされる予定です。従来は九月二十三日の休日でしたが、今年は、九月十八日(月)の祝日(敬老の日)になっていますので、間違わないようにして下さい。
○北田 康広さんの、二つ目のCDが八月二日に発売されます。今回のものは、とくに、平和への祈りが感じられる曲目になっています。内容は次のようなもので、北田さんの歌と後半はピアノ演奏です。1、一つだけの命 2、さとうきび畑 3、心の瞳
4、千の風 5、平和の扉 6、死んだ男の残したもの 8、やすかれ我が心よ(讃美歌)9、鳥の歌 10、勝利をのぞみ(讃美歌21の471番)14、来たれ異教徒の救い主よ(バッハ)15、祈り(リスト)他
○八月二六日(土)~二七日(日)静岡の西澤 正文兄が来徳され、去年と同様に、特別集会がなされます。
○集会名 『無教会全国集会二〇〇六 さっぽろ』
日時 二〇〇六年九月九日(土)~十一日(月)
開催場所 北海道 札幌
申込期限:8月21日(月)連絡先 黒川清孝 〒064-0915 札幌市中央区南15条西14丁目2-7-106(? 011-562-7145, E-mail: kurokawa@car.ocn.ne.jp)、
主題:「無教会の源流を求めて-札幌バンドの信仰とその系譜」
会場:北星学園大学(札幌市厚別区大谷地2-3-1 ? 011-891-2731)
参加費: 2日間6,000円(1日のみ 3,000円、学生半額)外に昼食代 1,000円 バス・ツアー参加料:1,000円 口座記号番号02730-3-77350 加入者名:無教会全国集会2006さっぽろ
プログラム
第1日(9月9日)(土)
講演:井上 猛(札幌独立キリスト教会)「独立の源流としての札幌バンド」
講演:山城俊昭(森の家の教会)
「世の光」に接する-『後世への最大遺物』を英訳出版して」
分科会(各教室)自己紹介 講演I, IIについての懇談
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第2日(9月10日)(日)
聖書:ローマの信徒への手紙3章21-31節 説教:千葉 恵(遠友聖書集会)
「『ローマ書』における神と人の信実」
講演III (チャペル)講演:田村光三(東京聖書集会)「開拓者・浅見仙作翁」
全体会(チャペル)「札幌バンドについての所感」:大島智夫(海老名
聖書集会)
講演I-IIIを巡る意見交換 分科会(各教室):14:45-15:45 今回主題について語り合う 各分科会からの報告等
第3日 9月11日/(月)バス・ツアー