リストボタン抜き取られることはないものとして    2006/8

私たちは、いつかはこの世界からいなくなる。植物でいえば、枯れて引き抜かれる。あのようなよい人がどうして若くして逝ってしまったのか、いつまでも生きていてほしいと願うような人も次々といなくなっていく。
この世では、良きものも、時がきたらいつのまにか変質したり、消えていく。
人間同士の関係も、どのように親しく信頼しあっているようでも、ふとしたことから壊れることがある。どうしてそのように受けとるのか分からないような誤解が生じてしまうこともある。
旧約聖書の古い時代から、かつて「共にパンを食べた者、神への礼拝に加わった者」であったのに、全く態度が変わり、自分を攻撃するものになった、という哀しみの心が次のような詩となって残されている。(詩編五五・1415 も参照)

わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。(詩編四一・10

このように人間同士の友情も思いがけないことから簡単に抜き取られることがある。
しかし、それはこの目に見える世界での出来事である。目に見えない世界があるということを本当に信じる者、そのような世界を実感する者にとっては、決して消えないもの、引き抜かれたりしないものがあることを知っている。
旧約聖書には、いろいろな預言者が現れる。その預言が、記述された文書となっている最初のものであるアモス書の最後の言葉は、次のようなものである。

わたしは彼らをその土地に植え付ける。
わたしが与えた地から
再び彼らが引き抜かれることは決してないと
あなたの神なる主は言われる。(アモス書九・15

アモス書全体は、神の強い警告であり、真理に背き続ける人々や国々への裁きの予告である。預言者アモスは、羊飼いであった。宗教家でもなければ、学者や社会的な指導者でもなかった。
しかし、神はそのような全く社会や国家の動きとは関係のない人をも呼び出して、鋭い真理を示されている。
その預言書の最後が、このように決して引き抜かれることはない、という確信の込められた預言で終わっていることは、現代の私たちにも強く語りかけるものがある。
アモスとは、今から二七〇〇年以上も昔の預言者である。そのような古い時代から、神の民はさまざまの裁きや苦難を受けても、最終的には神の力によって回復される。そしていかなるものもその祝福を取り去るものはないという確信が記されている。
このような、不滅の希望と確信は、聖書が一貫して私たちに伝えているもので、新約聖書にあっても次のように言われている。

わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ福音書十・27

イエスを信じて救い主として受け入れる者には、永遠の命が与えられる。それは神の霊的な畑に植えられたと言えるであろう。それゆえに、そこから抜き取られることはないという約束なのである。この世の闇の力は、イエスをも抜き取ろうとして、さまざまの悪意を重ねてイエスを神を汚したという罪を作り上げ、十字架で処刑してしまった。目に見えるもの(体)は、この世から確かに抜き取られてしまった。しかし、イエスは復活し、神が植えたものはいかなることがあっても、抜き取られないことが明らかになった。そして以後の二〇〇〇年の歴史は、世界中の人々にそのことを証明してきた。
このような確信は、さらに使徒パウロの次の言葉にも現れている。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
私たちは確信しています。死も支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものもいかなる被造物も、私たちの主、キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。(ローマ信徒への手紙八・3539より)
だれでも、この世に生きている過程で、さまざまの出来事や病気や老齢化のゆえに、よきもの、かつては喜びであったものが次々と抜き取られていく哀しみを味わうであろう。
しかし、私たちが主イエスというぶどうの樹につながっているかぎり、私たちの魂は決して抜き取られることはなく、この霊的宇宙に永遠に植えられたものとなり、神のいのちと愛のうちにとこしえに置いて頂けるということは、他には代えることのできない希望である。


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