ことば 2007/9
(271)真の謙遜
謙遜は、人間の心のあらゆる性質のなかで、おそらく一番生まれつきの自然の性質から遠いものであろう。人間は生来つねに、あまりに高慢であるか、あまりに憶病で小心であるかである。
真の謙遜は、自分のものでない力が与えられているという驚きに満ちた気持ちである。(*)…そして、この力が神の恵みによるものだという意識をともなっている。したがって、これだけが無害な力の実感である。しかし、このような謙遜はただきびしい苦難の時期を堪えて初めて人の心に生じるものである。
こういう謙虚をそなえたときはじめて、人間は神から完き幸福を与えられる状態になっているのである。(ヒルティ著「眠られぬ夜のために 上」 九月六日より
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(*)Echte Demut ist ein wundervolles Gefuhl Fremder Kraft.
・謙遜というのは、ふつうは物腰が低い、権威的な態度を取らないといったように思われている。しかし、そのような表面的なことでなく、真の謙遜は、神からの力を一方的な恵みとして受けているという驚くべき、あるいは不思議な実感からくる。たしかに神の前に自分がいかに取るに足らない存在であるかを深く実感しているなら、そしてそのような自分に対してすら恵みの力が与えられていることを感じているなら、高ぶった気持ちは自ずから消えていく。こうした人間を超えた無限の存在を知らずして真の謙遜はあり得ないので、神を信じているといいつつ、高ぶりを持っているとき、神からの恵みや力を受けているといってもわずかしか受けていないということになる。
主イエスの言葉に、「多く赦された者は、多く愛する」とある。神からの多くを受けたものは、より深い謙遜へと導かれる。