聖書における神の愛 2007/12
聖書とは一言で言えば、神の愛について書いてある書である。
それはその冒頭からはっきりと示されている。
…地は混沌であって、闇が深淵の面にあり…(創世記一・2)
すべてが闇と混沌であるということ、これは人間世界のあらゆる苦しみや悲しみ、そして混乱を象徴的に示すものである。その現実をこのようにただひと言で言っている。戦争やテロ、飢餓、病気、貧困、あるいは環境汚染からくる健康破壊の苦しみ、エイズや性の道具にするための人身売買、自然災害等々昔から現代に至るまで、さまざまの苦しみや悲しみは絶えることがない。
そしてなぜそのようなことが生じるのか、それは究極的な理由、原因は分からない。しかし、そのような重苦しいことだけが、現実ではない。
もう一つの現実、それはそのような闇に光が与えられているということである。そしてその光はあらゆる闇や混乱に勝利しているということである。
このように苦しめる人間の現実に、光を与え、その苦しみや悲しみに勝利する道を与えようとする神の本質がこの聖書の最初に明確に記されている。これこそ神の愛にほかならない。
そして、神の愛は無限に深いものをもっているが、人間の愛のように苦しみが少しでも少ないように配慮する、というようなものでないこともはっきりと分かる。
次に神の愛は一方的にまず与えられること、それははるか後のキリストの時代になって明確にされたが、すでに聖書の最初からそのような本質が記されている。
それは、エデンの園の記事である。
… 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。(創世記二・8~9)
最初に創造された人間が置かれた場所には、見てよく食べて良いあらゆる木々をすでに生えさせてあったという。ここにも、神はまずよきものを一方的に与えようとしておられるお方であるのが分かる。創造された人間がよく働いてその結果よい実のなる木が成長してそれを食べるようになった、というのでない。人間が働く前から良きものが十二分に備えられていた、というのである。
この一方的に良きものが与えられるということは、はるか後になってキリストによる罪の赦しということになって、人間の最も深い問題にまで適用されていった。
このように人間の側よりも先に、神からの愛が注がれるということは、信仰の父と言われ、聖書全体において大きな影響を与えたアブラハムにおいても見られる。
神がアブラハムを特別に祝福したのは、彼がほかの人間にまさって特別によいことをしたからではない。ただ一方的に呼びだされ、そして導かれたのであった。
…そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。
また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになる」。
アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。(創世記十五・5~6)
ここでは、後にきわめて重要になるテーマがすでに現れている。それはただ信じるだけで一方的に義と認められるということである。神の方からまず、呼び出し、夜空の星を見させ、そのように子孫が無数に増える、ということを言われた。特別に何かをしたからそのようになるというのではない。まず神の約束がそのように言われたのである。そしてただそのことを素直に信じるだけで、神はアブラハムの人間そのものを正しいものとみなされたという。
ここに記されている神の愛がはるか後になって、主イエスの十字架での死を私たちのあがないのための死であったと信じるだけで、義とされるという、福音の中心につながっていく。このように、神の愛の基本的な内容は三千七〇〇年ほども昔から始まっている。
次にイスラエルの十二部族のもとになったヤコブにはどのように神の愛が注がれたであろうか。ヤコブは母親に言われて父を欺いて長男の権利を奪い取った。そのために兄から憎まれ、殺されそうになって一人荒れ野を親族のいる遠いところへと逃げて行った。
そのようなヤコブに対しては、何らかの罰が下されるのではないかと予想するところであるが、実際には神はその逆をヤコブに対してなされ、天からの驚くべき階段が夢の中で示され、大いなる恵みを啓示されたのである。
それは、ヤコブの生涯に生じることを象徴的に示す出来事であったが、それだけであったら、ヤコブにだけあてはまることであって、他の人間あるいは現代の私たちには何の関係もないことになる。
しかし、ヤコブが見た天にかかる階段の夢は、はるか後に主イエスが述べられたように(*)、単なる夢では決してなく、現実のこの世において神が人に与える祝福、愛のわざを象徴的に示すものであった。
(*)更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ福音書一・51) これは、人の子すなわち主イエスに天の国の霊的なものが注がれ、またイエスからの祈りが天に届くという深い交流を示すものである。。そして主イエスに生じることは、主を信じる者たちにも与えられることであり、キリスト者が受ける大いなる恵みを暗示している。
聖書で慈しみと訳されているヘブル語ヘセド(*)は、「真実」とか「変わらない」という意味を本来持っている。日本語で、愛とか慈しみというと、やさしさ、というイメージがまず浮かぶが、聖書では、「変わらないもの」、「どこまでも続くもの」という内容が基本にある。
(*)ヘセドという原語の基本的意味は、Verbundenheit (結びついていること solidarity) である。(L.KOEHLER & W.BAUMGARTNER のヘブル語辞書 「LEXICON IN VETERIS TESTAMENTI LIBROS」 による。 )聖書における神の愛は、心が惹かれるとかいった感情でなく、どこまでも変ることのない強固な結びつきという内容を持っている。
ヘセドから派生した、ハーシィードは、「忠実な、真実な faithful 」という意味を持っている。この語は、詩編一四九:5 に次ぎのように用いられている。
The faithful exult in glory, shout for joy as they worship him,(NJB) 真実な者は栄光のなかで喜び、主を拝するとき、喜びの声をあげる…。
そこから、白髪になるまで負いつづける、という言葉があるし、生れる前から、さらに天地創造の前から愛していたという驚くべき表現もある。
…同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ書四六・4)
…天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
(エペソ書一・4)
これは時間と空間を超えている愛の性質を著者がそのように実感したということである。天地のさまざまのもの、時間に縛られないのが神の愛だというのである。
しかし、真実と慈しみに満ちた神の本質は変ることはなくとも、人間の愛にはまったく見られない厳しさがある。神に背き続ける者たちにはきびしい裁きがなされることは、旧約聖書にはしばしばはっきりと示されているし、そのような神への背きがなくとも、大きな苦しみに直面することはよくある。
こうした神の愛の厳しさは、現代でも至るところで見られる。私たちが苦しい病気や困難な問題に直面して非常な苦しみに置かれ、どうしてもそこから脱することができないこともたいていの人の生涯に起こることである。いかに祈っても何も状況が変わらない、どこに神がいるのか、神の愛があるのかと思われるようなことがある。災害や突然の事故などによる苦しみも神の愛を疑わせるようなことである。
しかし、それにもかかわらず、そこから神を信じ、神の愛のもとに入れられた人は、そうした苦しみをも人間の思いをはるかに超えた神の愛のわざであったと実感されるようになる。
旧約聖書のヨブ記はそのような長い病気や事故、財産の喪失といった苦しみの意味が長い間わからず、苦しみうめく一人の人間が、その後長い苦しみを経て、ようやく神の愛に目覚めるということを示している。いかなる苦しみや悲しみにもかかわらずそれらを超えて神の深い愛があるのだと知らせるために、そのような長い苦しみの経験があったのである。
他方、兄弟を殺すという重い罪を犯したカインに対しては、厳しく罰せられ滅ぼされるのではないかと読む者は予想するであろうが、意外なことにそのようにはなされなかった。たしかにカインは罰せられ、「耕しても土地は作物を生み出さず、それゆえに地上をさまよい、さすらうものとなる」と言われた。そのため、カインは「自分はもう生きていけない、だれかが私に出会ったら自分は殺されてしまうだろう」と恐れて生きる希望を失った。そのときに神は次のような意外な言葉を言われた。
…「カインを殺す者は、だれであれ、七倍の復讐を受ける。」
主はカインに出会う者がだれも彼を撃ち殺すことのないようにと、カインにしるしを付けられた。(創世記四・13~15より)
これは、正義の神、さばきの神というようなとらえ方ではとても理解できないところである。聖書はこのように旧約聖書の非常に古い段階からすでに、罪を犯すものを単に罰するのでなく、その者にしるしを付け、罪にもかかわらず愛し、見守り続けるという神の本質が示されているのである。
私たちも罪深いものであるが、たしかに神がしるしを付けて、悔い改めを見守っていて下さったゆえに神を知り、キリストの十字架の赦しを与えられたと言えるであろう。
旧約聖書における詩集である「詩編」は、神の愛がいかなるものであるかをじつに克明に記した書物である。普通の詩は、人間の感情を表現したものであるが、詩編の詩は、人間の感情をあらわしたものでありながら、その背後にそのような苦しみや嘆き、叫ばざるを得ないような状況のときにあっても働いておられる神の愛が主題となっている。旧約聖書独特の表現や現代の私たちには受けいれがたいような表現があって、そのために何となく身近なものとして感じにくいということもある。しかし、そうした表面的なものを超えて見るときには、聖書の中のたくさんの文書のなかで詩編ほど神の愛を直接的に人間の生き生きした言葉で表現しているものはない。
例えば、詩編第一編からして神の愛がはっきりと記されている。
…主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(詩編一・2~3)
主の「教え」と訳されている原語(ヘブル語)は、トーラーで、旧約聖書全体では二百数十回も使われている。それらの多数は「律法」と訳されているが、現代の私たちにもわかりやすく言えば「神の言葉」であり、ここに引用したように「主の教え」というようにも訳される。
私たちが神を信じ、神を愛するとき、自然にその言葉をも愛するようになる。愛するものをいつも心に思うゆえに、その言葉をいつも心にあたため、口ずさみ(*)、考え、瞑想する。
(*) 口ずさむと訳されている原語は、「瞑想する、考える、口に出す」等々と訳される言葉。英語訳では meditate、 utter などと訳されている。
ただそのように神の言葉を愛するだけで、豊かないのちの水を受けると約束されている。葉もしおれず、実を結んでいくという。それは言い換えると、人生のさまざまの苦しみや困難にもかかわらずそれらに打ち倒されないで、新たな力を与えられることを意味している。新たな力やうるおいを与えられるからこそ枯れていかないで、実を結ぶ、すなわちその人の内部によきものが生れ、周囲にもそのよき影響が及んでいくというのである。
人間はだれでも年とともに枯れていく存在であり、次第にいろいろなことができなくなっていくのが普通であるが、霊的な実を結び続けることはできる。動けなくなっても、なおそのような状況に不満や絶望、悲しみでなく、主の平安を持ち続けることができるなら、そのことがすなわち、実を結んでいるということである。
どのような状況にある人でも、心を枯らすような問題を抱えている。今、そのような問題を持っていないという人であっても、長い人生の歩みのなかでは必ずそのようなことが生じる。そうしたときにも枯れていかないで、生き生きとしたもので魂がうるおされるということは、何にもかえがたい恵みである。それこそ神の愛にほかならない。
天つ真清水 受けずして
罪に枯れたる 一草の
栄えの花は いかで咲くべき
注げ 命の真清水を
(讃美歌二一七番)
天からの真清水とは、神から与えられる霊的な水、聖なる霊のことであり、そうした目に見えない神の命また力が与えられない限り、人間は一つの枯草にすぎない。
花を咲かせ、実を結ぶことができない。それゆえに、主よ、清い命の水を注いで下さい! という強い願いと祈りがこの讃美の内容になっている。
そしてそのような祈り(願い)を神に向かって捧げることができるということは、この作者が、そうした願いに応えて下さる神の愛を信じていたからである。
次に、この世はいつの時代にあっても、病気や老年の苦しみ、戦争、飢饉など暗いことが満ちているにもかかわらず、天地に満ち満ちている神の愛を実感した人の言葉である。
…主よ、あなたの慈しみは天に
あなたの真実は大空に満ちている。(詩編三六・6)
このように、目には見えない神の真実や慈しみが、天に大空に満ちている、というようなことを実感した人がいたということだけでも、驚くべきことである。現代に生きる私たちもいつも天、大空を見上げている。そして真っ青な大空に白い雲が浮かび、夕方には燃えるような色の夕日や夕焼けの空、それらに接して心惹かれる思いになったり、清い空気を感じることは多くの人たちが実感してきただろう。
しかし、天を見て、大空を仰いで神の慈しみや真実が満ちていると感じた人は、ほかにいたであろうか。このように実感できる心は、天、大空だけでなく、周囲の草木、山川、海の水、波、風等々といったものにも、神の真実や慈しみを感じ取ることができるであろう。
神の愛は、どこにもない、ただ悲惨やうめきがあるだけだ、と思わずにいられない状況はこの世には至る所にある。しかし、それにもかかわらず、そのようなただ中にあって、なお神の慈しみや真実
が天に、大空に満ちていると実感できるほどに魂の霊性を深め、閉じられた扉を開いてそのようなこの世とは全く違ったような霊的世界へと導かれるのである。
魂の目が開かれたときには、自然は神の愛と真実の表現なのだと分かるのである。
旧約聖書にある「慈しみ」という言葉は、忠実とか真実という言葉とつながっている。それに対して人間の愛はまず可愛がるというニュアンスが強い。
旧約聖書で愛という言葉は、まだ人間の愛を多く表している。ヤコブのラケルへの愛や息子のヨセフ、ベニヤミンなど老年になってから生れた子どもへの愛、ダビデのバテセバへの愛等々である。
そうした人間同士の愛と対照的に神の愛が、慈しみという言葉で現れる。ヘブル語ではヘセドという。
それは英語訳では、steadfast love と訳しているのもあるように、変ることのないというニュアンスをもっている。それに対して人間の愛は実に変わりやすく変質するし、ときには正反対の憎しみにすら転じてしまう。
主イエスは十字架上での最期のときに、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」(詩編二二・1)という叫びをあげられた。
それと同じ叫びは詩編の中にある。詩編こそは、神の愛を最も直接的に表している書物であるが、このような絶望的な声をあげずにはいられないほどの苦しみがふりかかることがあるというのが分かる。
神の愛はそのような恐ろしい苦しみに遭わせることもあるのがわかるが、このようなことは人間の愛なら決してしないことである。
他方、そのような苦しみに遭わせつつも、その同じ詩編において、その後半の部分で、前半で記されている恐ろしい苦しみとは全く異なる解放へと導かれているのが記されている。
そこには、いかなる苦しみがあろうとも、神に向かって叫び続けるところには最終的には必ず大いなる救いがあるという真理が示されている。
神の愛がいかに人間の愛と異なるか、それは、どんな愛の人であっても、自分が愛する人を、恐るべき病気にして仕事も結婚や家族の交わりも何もかも失われてしまうようにして苦しめるというようなことは考えられないことである。
しかし、そのような病気、例えばハンセン病のような、まわりの人たちから忌み嫌われて隔離されて生涯を終えなければならなかったような人ですら、キリスト信仰を与えられて後には、そのような病気すらも神の愛のゆえであった、と実感する人すらいる。
… わたしはパンに代えて灰を食べ
飲み物には涙を混ぜた。
あなたは怒り、憤り
わたしを持ち上げて投げ出された。
わたしの生涯は移ろう影
草のように枯れて行く。
(詩編一〇二・10~12)
これは、恐ろしい病気に死ぬほどの苦しみを長く経験した人の詩である。食べ物もなくなり、病の苦しみのゆえに仕事もできず、どうすることもできない絶望的な状況に置かれているのが感じられる。そのような状況は、この詩の作者にとって、あたかも神が自分を持ち上げて放り出したと実感したのである。
神は愛であり、真実ならばこのようなこと、意図的に持ち上げて放り出すといったことがどうしてできようか。
神ご自身が私を投げ捨てたのだ、それではもう私は消えていくしかない、滅びだ、と感じて、この詩の作者は、自分の生涯も影だ、枯れていく草にすぎないのだ、という思いに引き込まれた。
しかし、こうした激しい苦しみの後に、神はこの詩の作者を実際に御手をのべて助け出された。それゆえに次のように歌っている。
…主はすべてを喪失した者の祈りを顧み
その祈りを侮られなかった。…
かつてあなたは大地の基を据え
御手をもって天を造られた。
それらが滅び去ることはあるだろう。
しかし、あなたは存続する。
すべては衣のように朽ち果てる。…
しかし、あなたは変ることがない。(詩編一〇二・18~28より)
神が持ち上げて放り出したとしか思えないような状況にあって、どうすることもできなかったが、ただこの詩の作者は、それでもなお、神に向かって祈り続け、叫び続けた。それゆえに、時至ってこの作者は神の大いなる愛を実感したのであった。
新約聖書において、神の愛は至る所で記されている。聖書とは、全体として見れば、はじめに書いたように、要するに神の愛を徹底的に書いた唯一の書であるが、新約聖書は旧約聖書からずっと続いてきた神の愛を十分に啓示された人たちが記した神の愛についての完全な書物である。
例えば、新約聖書の最初は、マタイ福音書の「系図」と訳された内容から始まる。
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟を…
このように延々と続く名前の羅列は何も愛とは関係のない無味乾燥な記事と思われるだろう。しかし、これは実は私たちが思い浮かべる系図というものが目的とすることとは全く異なる目的をもって書かれたものなのである。
日本の歴史の教科書などで系図というのは、例えば源頼朝や平清盛がどんな先祖がいたのかといった有名人の履歴のようなものであって、庶民とは何の関係もない。系図を持ち出すような人は自慢のためでしかない場合が多い。
しかし、聖書の系図はそうした人間的なものとは本質的に異なるのであって、この系図と訳された名前は神がいかにイスラエルの人々を愛をもって導いたかを示す目的で記されている。日本語としては、このマタイ福音書の最初の名前を書きつらねた部分に対しては、「系図」というのは、適切なイメージを抱きにくい訳語と言えよう。(*)
(*)「系図」と訳された原語(ギリシャ語)は、genesis であり、これはそのまま英語 Genesis となって、「創世記」という名称に使われている語である。それゆえ、有名なドイツの神学者・聖書注解者であるシュラッターは、この部分を、Buch vom Ursprung Jesu(「イエスの起源(源流)の書」の意)…と訳している。
この系図には三名の女性の名があるが、その一人ラハブ(マタイ一・5)は遊女であった。神の愛は、すでにはるかな古代から、遊女であったような女性をもキリストの先祖とした。これは、神の愛ゆえにどんな汚れたとされる人間も救いに入れていただけるということを象徴的に示すことである。
また、ダビデは神に特別に愛された人であったが甚だしい罪を犯した。それは厳しい罰を受けることになり、国民の背信行為も次々と生じ、そのために神の裁きを受けることになり、王国の崩壊へとつながっていった。そして遠い異国のバビロンに民が捕囚となって連行されていくことになった。しかし、そうした苦難にあっても、ふつうならそれで滅びてしまうはずの異国の土地においても、神の支えがあり、神の言葉が与えられ、滅びることなくふたたび遠いイスラエルの土地に帰ることができ、そのときから数百年後に、神はイエスを遣わされて救いの道を確定されたのであった。
人間がいかに罪深いか、にもかかわらず大いなる神の御手によって長い時間をかけて導かれていくか、この系図は、名前の羅列でなく、人間全体にわたる神の愛を示す記述なのである。
このように、神の愛とは最も関係がないと思われる、新約聖書の冒頭の「系図」のようなものにすら、長い年月を超えて働いている神の愛を記したものであるほどであり、新約聖書ではその内容はすべて何らかの意味で神の愛を記している。
そのなかでも、とくにわかりやすい言葉で、しかも神の愛の本質を記しているのは、放蕩息子のたとえと、ぶどう園の労働者のたとえであろう。
放蕩息子のたとえは、元来罪深く神の愛に背を向けて生きていく人間の姿が記されている。しかしそのような者をも見捨てず、かつて創世記において、罪深いカインにあえてしるしを付けて見守ったように、神はずっと愛をもって見守り続けて下さること、そしてそこから何もよいことをしていなくとも、ただ、悔い改めて神に向かって罪を赦してください、と心から願うだけでよい、それだけで大いなる神の賜物が与えられることが記されている。
この記述は、悔い改めがいかに重要であるか、そして、人が悔い改めることを神はどんなに喜んでおられるかを示すものである。
これは、別の箇所で、たった一人の悔い改めがあれば、天においては大きな喜びがあると言われたことに通じる。 その悔い改めのために主イエスは十字架で血を流されたのである。
ぶどう園のたとえは、この世で無視されている弱い人間、働くこともできない者にこそ神は目を留められ、もう働くことはできないようなときになっても招いて働き人とする。老人であれ、障害者、また病人であっても招かれる。黒人であれ差別を受けている人たちであっても同様である。
そしてこの二つのたとえには、神は豊かに与えて下さるお方であることが示されている。悔い改めた魂には、そうでないふつうの勤勉な者にはるかにまさるものが与えられる。
この世は外見的に見ればきわめて不公平である。強い者、才知にたけた者が巧みに立ち回り利益を得ることが多い。しかし、神の国においては、どんなに不器用でもまた特別な能力がなくとも、ただ悔い改めによって神の国の大いなる豊かさが与えられる。それが、放蕩息子のたとえで、最大級のふるまいがなされたということで示されている。
またぶどう園のたとえにおいても、わずかの働きで、長時間働いた人と同じような報酬が与えられるということで示されている。十字架でイエスとともに処刑された重罪人は、最期のときに悔い改めただけで、最初にパラダイスに入るという大いなる恵みを与えられたことはこうしたことの実例である。このようなキリストの愛、神の愛であるからこそ、その愛は深さ、広さ、長さ、が計り知れないと言われたのである。
使徒パウロは、死を覚悟せざるを得ないほどの苦しみに追い込まれたが、そこから復活のキリストにすがり、ついにその苦境から救い出された経験を語っている。私たちも聖書全体に記されている神の愛にどこまでも信頼して歩んでいきたいと思う。