神に聞くことの重要性 2008/1
私の信仰の生活は、十字架の福音を聞くことから始まった。一冊の本のわずか数行を読むことによって私はキリスト教信仰を与えられた。それはその本を通して十字架の福音を聞いたゆえであり、そしてそれを受けいれることができたからであった。
何かを行動することで、大きな学びを得ることもある。外国など見知らぬところに旅をすることで新たな経験を与えられて、大きな収穫を与えられることもある。
しかし、決定的なことは、人間を超えたところから響いてくる声を聞かないならば、何らかの行動によっても人間の醜さや、弱さばかり知って帰って真理から遠ざかることも多い。
私たちはいつも何かを聞いている。ことに近年は、新聞、テレビ、ラジオなどの他にインターネットによって全世界のさまざまの情報を自分の家にいて取り入れることができるようになった。それは実にさまざまの声を聞いていることになる。
けれども、そのような声が洪水のようにはんらんするときにあって、私たちはいっそう魂の静けさを失い、揺れ動く人間を超えたところからの声に耳を傾けることが少なくなっている。
聖書において、「聞く」ということはとくに重要なこととして記されている。研究する、まなぶ、経験する、いろいろ私たちがする領域がある。しかしこれらは誰でもが、いつでも、またどこででもできることではない。
しかし、上よりの御声に「聞く」ことは本来いつでもどこでも、また誰でもができることである。
聖書では、「聞く」とはもちろん、人間の言葉でなく神の言葉に聞くことが至る所で強調されている。どこででも耳にする人間の言葉、意見、考え、組織や国、世論といったものは聞こうとしなくとも耳に入ってくる。
それゆえそうした人間の声を超えたところの声、人間とは全く異なる内容を持つ声を聞くことの重要性がある。
旧約聖書での「聞く」こと
聖書ではどのように、「聞く」ということが記されているであろうか。
神が人間に語りかけた最初の言葉とは、何であっただろうか。それは創世記にある。一章では、男と女への言葉として「産めよ、増えよ。…生き物をすべて支配せよ。」というものである。
しかし、アダムとエバ、エデンの園ということで有名な別の記述(*)による最初の言葉は、アダムに言われた次の言葉である。
(*)ヤハウエ資料。創世記から申命記にいたる書物では、共通した特徴を持っている記述があり、それらをヤハウエ資料、エロヒム資料、申命記資料、祭司文書の四種の資料文書としている。創世記の第一章~二章の一節~四節前半は、祭司文書であり、二章四節後半から四章にかけては、ヤハウエ資料とされる。祭司文書は荘重な文体、ヤハウエ資料はエデンの園の描写にみられるように生き生きした表現をもって記し、神のことを記すときも、擬人的描写をもってするなどを特徴とする。
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
(創世記三・17)
このようにわかりやすい内容の言葉であった。しかし、アダムもエバもこの単純率直な神からの語りかけを聴こうとしなかった。エデンの園には、見てよく、食べるに良いもので満ちていたにもかかわらず、食べてはいけないという「善悪を知る木」をまず、エバは、蛇の誘惑に負けてその木の実を食べてしまったのである。そしてさらに夫のアダムにも誘ってその実を食べるように仕向け、二人とも神の言葉を聞き入れようとしなかったことが記されている。
このように、聖書の最初に、具体的な人間に語りかけられた言葉であったが、それを人間は聴こうとしなかったことが最初の人間の姿として記されている。
このように、自然のままの人間の姿というものは、神の言葉に聴こうとしないということなのである。
しかし、そのような人間のなかで、とくに神からの声をはっきりと聞き取り、そのままに従って行った人間が現れた。そのうち後世にまで絶大な影響を持つようになった人物、それがアブラハムであった。
彼は、現在のイラク地方に住んでいた人であった。若いときにどんな人間であったのか、どのような生活をしていたのかなど全く記されていない。彼について詳しく書かれるのは、神が語りかけたこと、そしてその言葉にすべてを捨てて従って行ったということである。
そしてそこから、神の声を聞くことを最大の重要なこととする人たちが次々と現れるようになった。アブラハムの子供のイサク、その子どものヤコブ、そしてそのヤコブの子供たちとして十二人が生れ、そのうちの一人ユダの子孫がユダヤ人となっていった。
そしてそのユダヤ人からイエスやその弟子たち、そして最大の使徒といえるパウロも現れた。
このように、神の言葉を聞くということから、全世界に絶大な影響力を持つ民族が現れた。もし、アブラハムが、「生れ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行け。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、祝福の源となるようにする。」という神の言葉を聞かなかったら、あるいは聞いてもそれに従っていなかったら、今日の旧約聖書もなく、ユダヤ民族もなく、したがってキリストもキリスト教もイスラム教もすべて存在しなかったのである。
ユダヤ民族の宗教からキリスト教につながり、そしてイスラム教にまでこの神の声を聞くという単純ないとなみから派生していったのである。イスラム教の教典はコーランであるが、旧約聖書もその教典に含み、コーランには旧約聖書の引用あるいはその改変などがしばしばみられる。
このように、ユダヤ教、キリスト教だけでなく、イスラム教まで含んでいることから考えると文字通り全世界にその影響が今も続いているのであり、神の声を聞くというきわめて個人的、内面的なことのように見えることがいかに絶大な力を内蔵しているかがうかがえる。
ほかにもいろいろの宗教があって、それぞれの神々からの声を聞いたと称する人たちはたくさんいる。しかしそれらは広がらないし、永遠的でもない。それらは一種の新興宗教であって生じては消えるということを繰り返してきた。
アブラハムが聞き取った神のみ声、その声に聞こうとするところから、だれも想像できなかったひろがりを持つようになっていったのである。
後にアブラハム以上に重んじられるようになったモーセにおいても、このことが中心となっている。モーセがまだ神の声を知らず、自分の考えによって同胞を救おうとしたが、それは何の力にもならず、かえって殺されそうになって砂漠を越えて遠くに逃げていくほかはなかった。
そうして荒野で羊を飼っているときに、神からの語りかけがあった。モーセは神からの直接に人間にとって最も基本的なあり方を示す十戒を受けたということで、旧約聖書の根源につながる人物となった。そのような絶大な影響力は、やはりもとをただせば、ただ神のみ声に忠実に聞いて従ったということである。
彼のそばには書物もなく、モーセの与えられていた大いなる力の源は学問や研究、議論などによったのでなく、ただ神に聞くということだけであった。
それゆえに、モーセが受けた神からの言葉には、繰り返し、「聞け」という言葉が現れる。
… あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従う(*)ならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。 (申命記三〇・2~3)
(*)ここで「聞き従う」と訳されている原語(ヘブル語)は、シャーマー で、最も普通に「聞く、聞き従う」という意味に用いられる動詞である。古代ギリシャ語訳(七十人訳)ではupo(~の下に)と アクーオー akouw(聞く)という言葉から成る ヒュパクーオー upakouw (聞き従う)という訳語が用いられている。
この個所で言われているように、聞くといっても安易な態度では神の声は聞けない。それで「心を尽くし、魂を尽くして御声に聞け」と言われている。心を尽くしとは、原文の表現では、「すべての心をもって、すべての魂をもって」ということであり、ほとんどの英語訳でも
with all your heart and with all your soul と訳されている。
またこの個所にの少しあとでは次のように言われている。
… わたしは、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、
あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。
それが、まさしくあなたの命であり、(申命記三〇・19~20より)
このように、祝福の道か、のろいの道かという全く異なる結末に至るその分岐に立っているのが、神の御声に聞くかどうかという一点なのである。聞くことはいのちそのものとなるほどに重大なこととされている。
このような重要性をもっている御声に聞くということをしなかったために、とくに選ばれた民族であったにもかかわらず、次第に祝福の道から落ちていくすがたが旧約聖書には克明に記されている。
そしてそのような状況を何とかしてくいとめるために神が遣わされたのが預言者である。その初期の人物とも言えるサムエルについては、とくに人々が軽視した御声に聞くということがいかに重要であるかを示すために象徴的なことであるが、サムエルは、幼な子のときから御声に聞くことを特別に取り上げられている。
…サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。
主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、 祭司エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
主は再びサムエルを呼ばれた。… 主は三度サムエルを呼ばれた。… 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」(サムエル記上三章より)
このように、神は、直接に三度も幼な子のサムエルを呼んで、御声に聞くことをその魂に刻み込まれたのである。このように、当時の宗教家(祭司)が肝心の神の言葉を聞こうとせず、自分の祭司たる立場を利用して物欲に目をくらませていったとき、神はその民への愛ゆえに、特別に御声に聞く人間を幼な子のときから召しだしたのであった。
このようなことはその後ずっと歴史のなかで生じていった。旧約聖書の多くの部分はまさにそうした神の声(神の言葉)を聞こうとせずに堕落していく人々と、その人々を警告して神の御声に聞くようにと命がけで訴える人々(預言者)との霊的たたかいの歴史と言える。
旧約聖書に収められた詩集は詩編と言われるが、そこには悪意から迫害し苦しめようとする人間や、病気その他の困難の中から、必死で神の御声に聞こうとする人たちの祈り、叫び、そしてその御声を聞いたゆえに深い平安と喜びが与えられ、神への讃美となっていく魂の記録が多数みられる。
苦難のとき、敵対する者によって苦しめられて死にそうなほどの状況になったとき、そこで二つに分かれる。神のみに求め、神からの御声を聞こうとする道と、神以外に頼ろうとする道である。詩編は、魂のはげしい戦いのなかで、いかに苦しくあろうとも、ただ神のみに聞こう、神の力に頼ろうとする姿勢が全編にみなぎっている。
これは、すでに引用した申命記において、祝福の道とのろいの道という二つの道の選択に立たされた人が、いかに神以外のほうからの誘惑があろうとも、あくまで神に聞こうとする祝福の道にすがりつづける姿がある。
…深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。…
わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます。…
イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに
豊かな贖いも主のもとに。
(詩編一三〇より)
この詩における特徴は、押しつぶされそうになる状況のなかで、魂の深淵から叫び、神が自分の苦しみを聞いて下さるようにとの切実な願いがあるとともに、神に望みをおき、神からの御声を全力をあげて待ち望む姿勢がある。そしてついにその願いは聞かれ、神の御声を聞くことができた。
それゆえに、人々に対して「主を待ち望め!」と呼びかけることができたのである。
もう一つの詩を見てみよう。
… 主に向かって喜び歌おう。
救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
御前に進み、感謝をささげ
楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
主は大いなる神
すべての神を超えて大いなる王。
主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
主に養われる群れ、御手の内にある羊。
今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。(詩編九五より)
この詩において、主に向かって喜び歌おう、感謝をささげよう、楽器をもって喜び叫ぼう、と呼びかけられているのは、
最後の節にあるように、主に聞くことができたからこそ、このように歌えるのである。
神に心を開き、神からの語りかけを聞かないならば、この世は悪の力が満ちていて、弱い者が踏みつけられる恐ろしいところであって、到底神に讃美とか喜び歌うなどできない。
主の御声に聞くことからそのような、喜びの世界が開けていくことをこの詩の作者は深く体験的に知っていたし、それは啓示でもあった。
詩編の最後の部分に多く収められたハレルヤ!(*)という言葉のみられる詩編は、そうした喜びの叫びなのである。
ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。
イスラエルはその造り主によって喜び祝い
シオンの子らはその王によって喜び躍れ。
踊りをささげて御名を賛美し
太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。(詩編一四九より)
(*)ハレルヤとは、「ヤハウエを讃美せよ」、という意味のヘブル語。これは、ハーレル(讃美する)という動詞の二人称複数形の命令形と、ヤハウエという神の名の省略形
ヤハが合わさった言葉である。ヤハウエは神(エル)と置き換えることができるので、ハレル・エル(神を讃美せよ) という形も用いられている。詩編一五〇編では、この二つが次のように用いられている。
ハレルヤ。聖所で神を讃美せよ。…
英語では、ハレルヤも、神を讃美せよ も Praise God! となる。若い人たちによく用いられる讃美集で、プレイズ&ワーシップというのがあるが、これは、「讃美と礼拝」という意味。リビングプレイズ も「生きた讃美」の意。
なお、アメリカやイギリスの讃美集のタイトルは、ヒムナル Hymnalとか ヒム Hymns といった伝統的な名前(これらは、ギリシャ語の ヒュムノス hymnos に由来する。これは コロサイ三・16 で讃美とか賛歌と訳されている)のが多いが、Praise ! というのもある。 讃美歌の演奏器をヒムプレーヤというが、これもここから来ている。
以上のように、神の御声に聞くことの重要性は、詩編でもその詩の背後には神に叫びつつ、神からの御声を聞こうとする懸命な祈りが随所に感じられる、それが最も直接的に現れてくるのが、預言書である。
預言者とはその言葉のとおり、神の言を預かった人であり、預かった神の言を人々に対して、「神の言葉に聞け!」と自分のすべてをあげて語りかける人なのである。
…主は手を伸ばして、わたしの口に触れ
主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に
わたしの言葉を授ける。
(エレミヤ書一・9)
エレミヤという預言者が若き日にこのように神の言葉を与えられたのは、自分が味わうためでも学びのためでもなかった。それは、崩壊しつつあるユダの国の人々に対して、その根本原因は神の言葉に聞こうとしないからであることを告げ、自分が預かった神の言葉に聞くようにと命がけで宣べ伝えるためなのである。
かつてモーセが申命記で語ったように、エレミヤもまた次のように語る。
… 主はこう言われる、「人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。
彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。
主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」(エレミヤ書十七・5~8より)
主に頼るとは、神の御声に聞いて従うことである。神はつねに私たちに歩むべき指針を語りかけている。人を頼るとは神の御声に聞こうとせず、求めようとせず、人間の声、考えを求めてそれに従おうとすることである。
国家の滅びという政治的社会的な問題もその中心にある原因は、経済や軍備や人口の問題などでなく、一人一人の人間がいかに神の御声に聞こうとしているかということなのである。
こうした語りかけは、預言書に一貫してみられるものであり、聞き従わない人間たちに最終的の道として神がなされたことは、神の子をこの世に遣わすことであった。
新約聖書での「聞く」こと
主イエスはアブラハムやモーセ、ダビデ、そして預言者などの持っていたはたらきのすべてを完全なかたちで与えられていたお方であった。神の子の保持者であり、詩人であり、預言者であり、王でもあった。
主イエスの教えのなかで、次の言葉はとくによく知られているものの一つである。
求めよ、そうすれば与えられる。
探せ、そうすれば見出す。
門をたたけ、そうすれば開かれる。(マタイ七・7)
これらの有名な言葉は、ふつうは神の言葉を聞くこととは無関係と思われている。しかし、これらの言葉もまた、「聞く」ことと深い関係がある。
求めるのは何か、神からの言葉である。神に聞こうとしても聞こえないという場合が非常に多い。だからこそ、神からの御声を求めよ、と言われているのである。そうすれば、唯一の正しい指針である御声が分かるというのである。そうした意味もこの有名な言葉は含んでいる。
門をたたくこと、それも何も響いてこない神の国のとびらをたたく心をもってすれば、そこから神の国のとびらが開かれ神の言葉が響いてくる、ということでもある。
御声をさまざまのところで探し求める、例えば、苦難のおり、見下されたとき、信頼した人から裏切られた悲しみのとき、病や事故などのとき、失敗したり罪を犯して多大の苦しみを相手に与えたとき…等々、私たちはそのようなとき一番に必要なのは神の御声である。沈黙しているように見えるところにも、神の御声(神の言)を探し続けるときにはそこに見出すことができる。
野の花、白い雲や青い空、夜空の星等々、すべて御声とみ言葉をそこに見出そうとして探すものは予想していなかったところに、御声を聞き取ることができる。
…門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。(*)
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついていく。…
私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。(ヨハネ福音書十章より)
(*)新共同訳で「聞き分ける」と訳された原語は、ほとんどの個所で単に「聞く」 と訳されている動詞(アクーオー)で、「聞き分ける」と訳されているのは、例外的な訳で、新共同訳では、ヨハネ福音書十章の三カ所だけである。
この動詞は、新約聖書では四三〇回ほども使われている。なお、口語訳では、この個所を「聞き従う」と訳している。英語訳ではほとんどが hear と訳され、一部が listen と訳されている。
このたとえで、羊飼いとは主イエスのことで、羊とはイエスを信じる者である。 主イエスに従う者は、考えたり、議論したりすることでなく、魂の奥深くに実感するそのみ声に従うのである。世の中のさまざまの雑然とした声、意見、世論、マスコミなど現代では洪水のようにあふれている。しかし、そのようなあらゆる声とは本質的に異なる神の声を聞き取るゆえに、従っていくのである。聖書に関して、学者のいろいろな議論、分析なども一種の人間の声にすぎないことが多いのは今も昔も変わりがない。聖書の時代にも、当時の聖書に精通していてさまざまの議論ができた聖書学者たちがかえって、主イエスを否定し、人々をイエスに導く道を妨げることになった。
ヨーロッパなどでキリスト教を信じる人たちの力が弱まっているのはなぜか。それは幼な子らしい心で主に聞こうとせず、聖書を神の言葉として受けとらないで、単に研究、分析や議論の対象とする傾向が強まったこともその一因であろう。
主イエスが言われたこと、「私の羊は私の声を聞く」という。しかし、イエスの声を聴こうとしないときには、たちまち名前だけのキリスト者となっていく。
キリスト教信仰の本質は、研究でもなければ議論でもない。聖なる霊と神の愛を受けることであって、そのためには、そうした研究や議論とは全くかかわりなく与えられるものである。それは私自身の経験からもはっきりと言える。私が初めて神の愛を受けたのは、まったく聖書を研究したこともないときに与えられたからである。そして今も、そうした研究などとは無関係に日々与えられていることである。聖なる霊や神の愛、それらは本質的に人間の研究によっては得ることはできないものだからである。
ここで主イエスはそのことを述べているのである。主イエスの声か人間の声か、それは静まって聞き入るときには実感できるものである。そこには愛があるかどうかということもつながっている。
青い空、また樹木の静けさ、白い雲や夜空の星、あるいは野の花、そうしたものからも、静まって聴こうとするならば、キリストの声を聞き取ることができる。
主のみ声に聞く者は、その声の主に従っていく。そのみ声はほかのどんな人間の声とも異なる清いものをたたえているからであり、それこそ魂の平安を与えるものであることが実感されるからである。
福音書のなかに、飼う者のいない羊のようになった人々のことが記されている。そのような人々は、夕方が近づいたにもかかわらず、そして食べ物も持っていないのに、イエスのあとを追って行った。それは、目には見えない力で引き寄せられるかのようであった。
…そこで彼ら(イエスの弟子たち)は人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。(マルコ福音書六・32~34)
ここに記されている人々は、イエスの声を聞いてついていく羊たちと言える。その人々は過去のことでなく、それ以後の人間の実態を示しているのである人間は、だれでもその魂の深いところでは、どこに行ったらいいのかわからずさまよっている状態であり、飼う者のない羊なのである。そしてそのような迷える羊がひとたび主イエスの声を聞くとき、このお方こそは全く異なる種類の人間だということに気付く。
そのようにして時間のことも、食べ物のこともおいて、まずイエスに従っていこうとする人たちには、何が与えられるだろうか。
この記述のあとには、五千人のパンとして知られる驚くべき出来事が書いてある。
… ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。
イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリ(*)ものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。
するとイエスは言われた。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。…
それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
みんなの者は食べて満腹した。そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。 (マルコ六・36~43)
(*)一日の賃金が一デナリと書いてある個所があるので、おおよそ現在の日本の状況では、一デナリが一万円ほどとすれば、二百万円にもなる。男だけで五千人であるから、女子供を合わせるとその倍ほどもいたとすると、一万人となり、二百円のパンを購入するとすれば、合計は二百万円になる。
このパンの奇跡、それはあり得ないことが書いてあるのでなく、キリストの声に聞いて従っていく者に与えられる祝福を書いてあるのである。たしかに過去二千年の間、キリストの声こそ、真理の声と実感して従っていく人たちは全世界に広がって行った。それは到底五千人とか一万人などの比ではない。それらの人たちはたしかに、自分のわずかの努力、才能、働きにもかかわらず、(五つのパンと二匹の魚が象徴的に意味しているように)命のパンを満ち足りるように与えられてきたのであった。
私自身もその小さな一つの例である。まさに飼うもののない羊として、精神の荒野をさすらって苦しみ続けていたのであったが、一冊の古びた新書本にキリストの十字架の死のことが書かれてあって、そこに私は主イエスのみ声を聞いたのであった。そしてその後実際に京都の東山のふもとの疎水にそった道(「哲学の道」として知られている)にて、ある夜に、その静かな語りかけを感じたのであった。そして主イエスに引き寄せられるようにして、その本の著者を記念するキリスト教講演会に参加し、それを主催した京都のキリスト教集会に参加するようになった。
そしてたしかにそれまでどんな方法によっても与えられなかった魂の満たしを与えられた。さらに私が食べたパンの残り、といってもそれは神の霊的な目に見えないパンであるから、残りもまた完全ないのちを持っているのであったが、それを他者に提供したら、その人たちのなかから新たに、そのパンによって満たされる人たちが生じてきた。私が聞いて信じたキリストの福音を信じて受けとった人たちである。
このようにして、この五千人のパンの奇跡とは、おとぎ話のようなあり得ないことでなく、今も私たちに現実に生じることが記されているのである。
ヨハネ福音書において、次のように記されている。
…わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ福音書十・27~28)
キリストの声を聞く者は、その声が、「これが道である、この方向こそ正しいのだ、ここに光がある」と語りかけるゆえに、自ずからキリストに従う。そうすれば、五千人のパンの奇跡に象徴的に言われているように、神の祝福を受けて十分に満たされる。それが永遠のいのちを与えられるということである。
さらに、そのようにして神のいのちを与えられた者は、滅びることがない。言い換えれば、いかなるものも私たちをキリストから引き離すものはなくなる。
この世は、さまざまの出来事があってたえず私たちを神の国から引き離そうとする力が働いている。しかし、私たちのほうから捨てるのでない限り、決して私たちは神(キリスト)から引き離されることはない。神の国から見捨てられることはないのである。
このことは、ローマの信徒への手紙によって比類のない力強い表現で表されている。
…だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…
これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。死も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマ信徒への手紙八・35~39より)
このように、主イエスのみ声に従っていくというただ一つのことに忠実であるときには、さまざまの困難があっても、また最終的に死ということは必ずみんなに訪れるがそれでも、そのようないかなるものも神の愛から引き離すことはできない。神の愛とは、人間の愛のような一時の感情や情熱でなく、どんなものによっても引き離されることのない強固さがその本質にある。
この世の闇の力に縛られるのでなく、また最後の死によっていやおうなく無になってしまうのでもない。神の国に上げられて神の国のあらゆるよきものをもって満たされるという約束が与えられている。