地の塩 2008/1
塩というのは、 人間にとって生きるために不可欠な物質である。(*)
しかし、現代では、塩をとりすぎるということが高血圧や心臓病、脳卒中などの原因となるということで、そのほうが重要な問題となっているために、塩が人間になくてはならない物質であるということをあまり思っていない人が多い。
塩はよいものである。それは、塩がまったくなかったら生活できないからである。一五四七年今川氏真が武田信玄の支配下の領域に塩が入らないようにしたため、敵であった上杉謙信が、越後の塩を送ったということは有名である。
またアメリカ開拓時代には大陸中央部では塩がないので、鳥の糞をなめて塩分をとったと言われている。
(*)塩は、化学的にはナトリウムイオンと塩素イオンが結合したもので、水に溶かすと、それらのイオンに分かれる。人間の体においては、さまざまの組織の浸透圧を調整して、体内の水分を適切にしておくこと、また、熱い、冷たい、光を受けてものを見る、歩く、手を使うなどあらゆる体の動きは神経細胞を通して命令が伝達されるからであるが、その伝達のために、ナトリウムイオンは不可欠な働きをしている。塩素イオンは、胃腸などの消化液成分としての働きをする。こうした重要な働きを受け持っているゆえに、塩が欠乏すると、体全体に影響が出てきて、筋肉の働きも弱くなり、心臓や腎臓など内臓の働きも弱まっていき、究極的には死に至る。
塩は、生命の維持のために必須の物質であるが、さらに、塩がなかったら肉や魚、卵などもとても食べられないであろう。スープ、味噌汁、カレー、マヨネーズ、ドレッシング、醤油等々私たちの食事の際に用いるものには塩分がなくてはならないものとして含まれている。あらゆる食品は気付かないところで、塩が入っている。(*)
(*)例えば、食パン二枚の中に 一.五グラム程度含まれている。そうめん一束四十グラムにも一.二g程度の食塩が含まれている。
聖書において、次の言葉が塩に関連して思いだされる。
…あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
(マタイ福音書五・13)
キリストに従う弟子たちは、地の塩と言われている。この個所に続くところは次のようになっている。
…あなた方は世の光である。あなた方の光を人々の前に輝かせよ。…(同14、16節より)
このような言葉に接すると、自分はとてもこんな地の塩とか世の光などにはなれていない、といわれる方も多い。私たちが自分の努力などで人格を高めてこの世の光とか世の腐敗を防ぐ正義にあふれた人間になる、などということなら、これはとてもできないことである。
しかし、キリストの弟子とは、特別に修行した者ではない。ごく普通の人間にすぎない。しかし、そのような壊れてしまう汚れたものにすぎない―だからこそ、土の器と言われている―ものに、神の宝が盛られているゆえに、私たちは、地の塩、世の光でありうる。キリストを信じたときから、そのような神の国の宝が与えられていくのであるから、だれでも、その宝のゆえに地の塩、世の光になったと言えるのである。
これらの箇所から、キリストの弟子たちは、地の塩という外見的には目立たないものと光というよく目につくものの二つでたとえられている。塩は地味であって一見何の働きもしそうでないが、この世に神の国の味わいをもたらすものという意味が込められている。不信と偽り、あるいは敵対感情や憎しみが至るところにあり、また病気や事故などによる苦しみや悲しみがどこにでもあるこの地上で、神の国の、キリストの味わいをもたらす存在だと言われている。
その塩味の元である神の言葉があるとき、食物が塩によって腐敗が止められるように、神の言葉を与えられた人の存在によってその周囲にも神の国の味わいが伝わるゆえに、腐敗を遅らせ、あるいは止めることができる。
それは、キリストの弟子に委ねられた神の言葉そのものがそのような働きを持っているからである。
同様に、私たち自身は罪深いものにすぎないが、そのような弱き者であるにもかかわらず、神の言葉が与えられ、それが光を持っているからこそ、私たちも世の光だと言われている。
塩味が全くなかったらたくさんの食物は食べる気にならないほどである。
それと同じようにこの世もそれだけでは味が悪くて食べられない。生きていきたくないと感じる人がきわめて多いことは、自らの命を断つ人が何万人もいることだけ見てもわかる。
そのような追い詰められた状況にならなくとも、さわやかな味を経験したことがない、いつも心は騒いでどこか暗いものが漂っているという状態は非常に多数の人々の姿ではないだろうか。
そのような現状のために、地の塩となるべき神の言葉を信じる人たちに与え、その人たちがその神の言葉のゆえに地の塩としてはたらくことが期待されている。
しかし、せっかく与えられた塩気がなくなることがある。それは、キリストにつながっていないとき、み言葉に従わないときである。主イエスが言われたように、み言葉を聞くだけで従わない人は、砂の上に建てた家のようなものだ。
そのように不可欠であるが、ここでは、さらに腐敗を止めること、わずかで全体の味わいをよくすることのゆえにとくに塩はよいものであると言われている。
「あなた方は地の塩である」という言葉は、「あなた方は世の光である」という言葉と並べられている。(マタイ五・13~14)
それは地の塩という意味と、世の光であるという意味が似通っているからである。光といえば、電気のなかった昔にあっては、暗夜を照らすもの、行く道を照らすものであった。光がなかったらどう行くべきか分からないし、なすべきことも全くできない。
しかし、他方人間は光と逆の闇、すなわち罪を持っている。にもかかわらずどうしてあなた方は光である、と言われているのか。それは、闇のなかに光を受けるからである。光を内に与えられたとき、私たちはそのゆえに、光と言われる。
神からの光とは、言い換えれば神の言葉であり、神のいのちであり、また聖なる霊であり、いのちの水でもある。神の言葉は数千年の間光り続けている。ほかの思想、言葉、考えはみんな浮かんでは消えていく。古典といわれるものであっても、ごく一部にしか通用していない。日本の古典である万葉集とか古事記などほとんど世界では問題にされないし、源氏物語なども、数えるほどの言語にしか訳されていないが、聖書については、他のいかなる書物に比べても圧倒的な数(*)で訳されている。
(*)全聖書は、四二九の言語に、 新約聖書のみは、一一四四言語。 一部の訳は八五三言語。 合計二四二六言語に訳されている。(二〇〇六年 聖書協会世界連盟の資料による)
これは、聖書は人間の意見とか考えでないからで、人間を超えたところから語りかけられた永遠の真理、神の言葉だからである。他の宗教も、神がかりになって聞いたといった言葉を持っている場合があるが、それらは、ごくわずかの人、民族にしか通用しない。
例えば、さきほどの上杉謙信もまつられて神とされている。しかしそのような神を一体外国のどんな民族が神とあがめるだろうか。ありえないことである。戦前の日本は、植民地にした朝鮮とか、支配下においた地域で、神社を造り、天皇を無理やり神として拝ませようとしたが、敗戦でそのような神社とかはあとかたもなく消えて行った。
このように、翻訳された言語の数だけ見ても、世界においての地の塩として強力な働きをしていることを示すものである。 私たちが地の塩であると言われるのは、与えられた神の言葉、神の力、そして罪の赦しときよめのゆえである。
主イエスは、「もし片方の手や足、あるいは目が私たちをつまずかせるなら、切り捨てるとかえぐりだしてしまなさい。両手や両足あるいは目がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手、片足あるいは片目になっても命にあずかる方がよい」というそのきびしい表現に驚かされるようなことを話された。
そして、それに続いて次のように記されている。
… 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
人は皆、火で塩味を付けられる。
塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。
自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。
(マルコ福音書九・43~50より)
このように、マルコ福音書においては、他のマタイとルカの福音書で言われている、「地の塩であれ」というニュアンスとはちがった意味が感じられる。それは、さばきの火ということが言われていてその火との関連で塩ということが出ている。
それゆえに、人は皆、火で塩味を付けられるということは、神からくる厳しい試練によって塩味が付けられるということになる。厳しい試練が続くときには、塩味どころか耐えられなくなって心が壊れてしまうこともある。固くなって人間らしさを失ったりすることもある。火のような試練を受けてもそうならずに、かえってよき塩味というべきものが備わるためには、神がともにいて守り支えることが必要である。それは神の言葉を私たちがしっかりと持っているときに、そのような試練が来ても打ち倒されないであろう。
主イエスも、荒野での厳しい試練のときサタンから試みを受けたが、そのときにイエスを支えたのは、旧約聖書に記されている神の言葉であった。
自分自身の内に、そうした試練のときに支えた神の言葉をしっかり保っているときにこそ、私たちは自分自身の内に塩を持っているといえる状況になる。そして、神はたえず何らかの苦しみや問題、悩みを送って、私たちが神の言葉の塩味を持続していくようにとされている。私たちもそうした試練の火、苦しみの火によって絶えず新しい心で御言葉を求めていくゆえに、その塩味が持続する。
そしてそのときには、たしかに互いに小さなことで争ったり憎み合ったりすることなく、平和をもって、祈りをもって過ごすことができるだろう。
塩が微量で味わいを強め引き立たせるゆえに、私たちの言葉も神の言葉をたたえた塩味のきいたものであるようにと言われている。
…あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
(コロサイ四・6)
Always talk pleasantly and with a flavour of wit but be sensitive to the kind of answer each one requires.
私たちに与えられた神の言葉、それは祈りをうながす。祈りはまた塩の働きをする。塩気のなくなった塩、それは祈りのなくなったキリスト者である。祈らない人、祈っていない人の周辺では変化がない。本当に祈っている人の周辺では何か変化がある。
そしてこうしたすべてを最も力強く働かせるものは、私たちの内に住んで下さるキリストである。そのようなキリストこそ、究極的な意味での塩であり、そのキリストが私たち自身の腐敗をとどめ、周辺にもよき神の国の味わいをもたらすことになると言えよう。