合同集会の恵みについて 2008/3
今年の五月一〇日(土)十時~十一日(日)の午後五時まで、徳島で、無教会のキリスト教全国集会が開催されることになった。
全国大会というとふつうは全国の地区の代表が集まる会である。日教組の全国大会とか、児童・生徒などのコーラスや高校野球の全国大会、研究関係の全国大会等々、それらは全国からの代表者が集まる会である。しかし、無教会のキリスト教全国集会はそのような代表者たちの集まる会でなく、全国のさまざまの集会、数人の小さい集まりなどにも呼びかける集まりであって、だれが参加してもよい集まりである。
こうした全国集会の恵みはどのような点にあるだろうか。
まず、ふだん集まっている小さな集まりでは出会うことのない、いろいろなキリスト者の方々と出会い、新たな霊的な刺激を受け、また学ぶことができるということがある。これは住んでいる地域と異なる場所に旅行すると、見慣れた風景や人間とは全く違った自然や人間と出会って新鮮な感動が与えられることが多いのと共通している。
信仰の世界でも同様であるが、とくにそうした普通の旅行とは異なるものがそこにはある。それは、こうした特別な集まりには、準備段階から多くの祈りが注がれ、参加する側の人たちもまた、遠距離をいろいろな犠牲をはらって参加するために特別な祈りをもって参加し、時間やエネルギーも費やすために、ふだんの集まりとは異なる祝福と恵みが与えられるからである。
私は、大学四年のときにキリストの福音に触れて、そのときから将来の進路が全く変わり、高校の理科の教師をしながら、キリストの福音を伝えたいという強い思いが起こされた。そして、学友たちの進む方向から一人離れて高校の理科教員となった。そのときには、障害者との関わりは全く考えたことはなかった。教員免許も高校だけであるから、特殊学校に勤務するといったことは念頭になかったのである。
しかし、教員となって十数年を経たとき、すでに三つの高校を経験していたが、そのとき開催されていた四国合同集会に参加していた近畿の方から、全盲の方を紹介され、さらに意外なことにそのすぐあとに別の全盲でかつ肢体不自由の子供が施設にいるのに盲人としての教育を受けていないということで、その子供の教育を県の盲人センターから依頼されたことがきっかけとなって、神が私を盲学校へ移るように導かれていると分かり、希望して高校教育から盲学校に移り、そこで視覚障害者の教育にかかわることになった。そしてそこでまた予想していなかった大きな問題があるのが明らかとなり、それを明らかにしていくことで困難な問題が生じた。そしてそこからまた思いがけないことに聴覚障害者の学校に移り、多くの聴覚障害児童、生徒、さらには成人したろうあ者のキリスト者とも関わりが与えられていった。
私は小、中、高校、そして大学という長い学校教育のなかで、障害者と出会ったのは、小学校三~四年のころであったか、ほかの学校から転校してきた体に障害のある子が短い期間、別の学年にいたことが記憶にあるだけである。その後大学卒業までまったく障害者とは出会うことがなかった。私の学校時代は障害者とかについて話題になるということは一度もなかったし、私が教わった教師たちもただの一度もそのようなことに触れた人はいなかった。
私はキリスト者となってまもなく、高校教員になってキリストの福音という私の生涯の方向を変えることになった驚くべき真理を伝えねばという止むに止まれぬ気持ちが起こってきたのであったが、障害者教育には関わるという気持ちはなかった。
まわりにもそのような教育に関心をもつ人はだれもいなかった。
私は、当時高校では最も無視されているところに行くようにと、内にうながすものを感じて、夜間の定時制高校に特に希望を出し、県教委の特別面接までして転任させてもらった。そこでは私はたいへんな苦しみとともに、書物では到底学ぶことのできない大いなる学びを体で経験することができた。
そのような大きな体験をしてから数年してから先ほど述べた四国集会でのできごとがあったのである。それゆえ、これは、四国合同集会というのがなかったら現在のように視覚障害者とか聴覚障害者との関わりへとは導かれなかったのである。
東京やその周辺、あるいは近畿地方の人たちで、全国集会やほかの合同集会に参加しない方々もおられるが、そうした人々も、キリスト者の書いた本はよく読まれる。無教会では内村鑑三、矢内原忠雄といった人の書いた本である。
そしてそれだけで十分であるから他の集会に参加の必要を感じないというような人もいる。
しかし、私たちが生きて働く神に触れ、そして神の力を新たに与えられるためには、そのような過去の人だけを書物で相手にしているのでは、不十分である。それは、神は生きて働く神であって、死せるものの神でないから、神のそうした生きた働きは、現在生きて働く人たちにも現れているのであって、そのような人たちに接することで、彼らを動かしている生きた神を実感し、聖なる霊の交わりをそうした人たちと共有することができる。
使徒パウロの祈りがある。
「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」(Ⅱコリント十三・13)
この祈りは昔から繰り返し用いられているが、本来は祝祷とかいった特別な祈りでなく、キリスト者ならだれでも複数の人たちとともにあるときにはこの祈りを祈ることができる。
ここでパウロの祈りにある、「聖霊の交わり」が、こうした集会には与えられ、その聖霊に私たちも浸され、受けることができるのである。
初代教会の燃えるような信仰、いのちまで捧げるほどの生きた信仰は、また絶えず生きて働く信仰を持っているキリスト者同士の深い交わりが常になされていたことと結びついていたと言えよう。
使徒言行録に記されているように、使徒パウロは、多くの仲間のキリスト者たちがエルサレムに行くのは迫害を受けて危険だからという反対にもかかわらず、ギリシア地方などのキリスト者たちの献金を持って、いのちがけでエルサレムのキリスト者たちのところに向かったのであった。
パウロというと、福音伝道のことだけに心を注いだと思われがちであるが、彼の手紙には、各地の主にある捧げ物を受け取り、とくにエルサレムにおける困窮しているキリスト者たちへの具体的な愛の配慮を行ったことが繰り返し記されている。(Ⅰコリント十六・1~、ローマ十五・25~、Ⅱコリント八・1~)
できることがあるのに何もせずに、祈っているというだけでなく、各自においてなしうることを献金ということにおいてもすることが重要であるのをパウロは知っていたのである。それは神の言葉を伝える別の側面からの強い援助であり、支えになるからであった。
主イエスが単独で福音を伝えずに、十二人の人たちを同行しつつ伝えられたこと、そこにも複数の人たちとの交わりの重要性が含まれている。
また、キリスト教の伝道は、たんにイエスの教えを聞いたりその奇跡を見たりするだけでは決して始まらなかったのは新約聖書の福音書や使徒言行録を見るとすぐにわかる。
三年間もイエスの教えをつぶさに聞いて、その数々の奇跡を目の当たりにしてきた弟子たちであったが、イエスが捕らえられるときにはみんな逃げてしまったし、復活と十字架の死の意味もまったく分からない状態であった。
そうした状態から一新されたのは、主イエスがご自分に従っていた人たちに、「約束されていたものを受けるまで待っていなさい」と言われ、人々は集まって祈りをもって待ち続けていたときに、聖なる霊がゆたかに注がれ、その聖霊を受けて初めて弟子たちはあらゆる困難をも越えてキリストの福音を伝える力が与えられた。
このように、信徒が集まるということには特別な祝福、聖霊の交わりがあるのがわかる。
またいろいろな書物を読むことは、その著者と出会うことである。しかし、それだけでは不足である。書物になるような人は特別な才能と霊的に恵まれている人たちであろう。そうした人たちだけと接していたのでは、ごく普通の素朴な信仰に触れることは難しい。主イエスはただ幼な子のような心で主を仰ぐ者の重要性を説かれた。そうしたごく普通の庶民の信仰に触れることもまた重要なのである。
聖書のなかに、カナンの女の信仰が記されている箇所がある。彼女は地位がある人でもなく、金持ちでもなんでもない、ごく普通のどこにでもいる女性であったとみえる。しかし、その女は、幼な子のような心で、全身全霊をもって主イエスを信じ、主イエスが神の子であると確信していた。それゆえに、娘の危機的状況をいやすことができるのは、彼女にとっては異国人であったイエスだけなのだと、確信して初対面であったにもかかわらず、そしてなりふりかまわずにイエスに訴え続けた。あまりの熱心さに、弟子たちがうるさがって、追い払って下さいとイエスに頼んだほどであった。この女が持っていたのは、学識でも地位や財産でもなかったが、ただイエスを全面的に信頼するという幼な子のような心であった。その信仰を、主イエスは、「あなたの信仰は大きい!」(O woman, great is your faith! )(*)と特別に評価され、ただちにその願いどおりになるようにと力を与えていやされた。
(*)新共同訳では「あなたの信仰は立派だ」と訳されているが、この「立派」と訳されている原語は、メガス megas であり、本来は「大きい」という意味。
このような記述でわかるように、本を書くような著作家とか歴史に残るようなキリスト者だけが立派な信仰を持っているのではない。聖霊を与えられ、聖霊にうながされた人は、どんな無学な人、庶民でも「大いなる信仰」を持つことはたくさんみられる。それは、例えば、キリシタン時代の迫害の記録などを見ると、字も読めない庶民であっても、ゆたかな信仰を与えられて命を神に捧げ、どんなに苦しめられてもなお神への忠誠を捨てなかった人たちが多くいたのが知られる。
こうした例によってもわかるように、私たちはさまざまの人たちから学ぶことができるし、またそれは主の御旨にかなったことなのである。聖霊は風のように吹く、聖霊が神のご意志に従って吹きつけるとき、どんな人であっても変えられ、キリストの福音を宣べ伝えるのにふさわしい者とされる。
今も聖霊は天来の風として吹いているのであって、それを受けた人たちとともに交流しあうことによって私たちもまたその聖霊に触れることができるようになる。使徒言行録にあるように、聖霊を豊かに受けたペテロの証しによってそれを聞いた人たちにも豊かな聖霊が臨み、多数の人たちがキリスト者となったことは、まさにその例である。聖霊が一人に燃えるとき、他の人たちにも燃え広がるものである。
このような点から考えるとき、私たちはいつも日曜日に出会っている信仰の友だけでなく、また異なる集まりに加わってそこに集まる人たちとの聖霊による交わりによって、神のわざに触れることが大切なことになる。
今回の全国集会は特に、祈りの集められた集会である。そこで「主イエスのめぐみ、神の愛、聖霊の交わり」が与えられることを信じて待ちのぞみ、テーマである「神の愛と導き」が実感できる集会となるようにと祈り願っている。