リストボタン無敵の愛「コリントの信徒への手紙一」13章に思う
                                        小舘美彦    2008/5
序.「賜物」としての愛
*皆さんは13章の「愛」に関する記事がなぜ12章の「賜物」の記事の後に載せられているか、考えたことがあるでしょうか。それはもちろん「愛」が神様が私たちにくださる最大最高の「賜物」であるからです。パウロは12章で様々な「賜物」について語った後にこう述べて13章を始めます。
12:31
あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
このような前口上によって13章の「愛」の記事が始まる以上、「愛」はまさしく神様が私たちにくださる最大最高の「賜物」、無敵の「賜物」なのです。そして12章後半から13章はそのような最大最高無敵の「賜物」である「愛」に対する讃美なのです。
・そこで今日はこの部分をたどることによって皆さんと一緒に「愛」を讃美していきたいと思います。
1.「愛」と「アガペー」のずれ
*その前に一つだけはっきりさせておかなければならない問題があります。それはここで言われている「愛」とはどのような
ものかということです。聖書では「愛」は「アガペー」と訳されており、「アガペー」とは「神が上から下の者を救い上げる愛」のことですが、ここで言われている「愛」はそれとは若干違うと思うのです。それは単に「神が上から下の者を救い上げる愛」ではなくて、「神ご自身が上から下へ降りてきて、下の者を救い上げる愛」であると思うのです。言い換えれば、それは神ご自身が人間の苦しみや悲しみを分かち合うことによって人間を救ってくださる「愛」であると思うのです。
・この微妙な違いを理解するためには芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い浮かべるとよいでしょう。この話では仏様が極楽から蜘蛛の糸をたらして地獄の血の池にいる人間を救おうとします。これはまさしく「神が上から下の者を救い上げる愛」です。しかしもしこれが仏様ではなくてイエス様であったらどうするでしょうか。きっと単に「蜘蛛の糸」をたらすだけでなく、自らも「蜘蛛の糸」を降りていって血の池にいる罪人たちを抱きかかえて救い上げようとするのではないでしょうか。これこそ「神ご自身が上から下へ降りてきて、下の者を救い上げる愛」です。イエス様が十字架によって示された「愛」はこのような「愛」のことであり、13章で語られる「愛」もまたそのような「愛」のことであると私は思います。
・それではさっそく聖書に沿ってこの「愛」を讃美していきましょう。
2.誰にでも与えられる「愛」
*まず12章の後半に注目しましょう。
12:28
神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
 12:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
 12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
 12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
この部分にこめられているメッセージは何でしょうか。思うにそれは「愛」という「賜物」は求めさえすれば誰にでも与えられるということではないでしょうか。
・12:28には様々な賜物が並べられています。使徒(伝道)の賜物、預言の賜物、教師の賜物、奇跡の賜物、癒しの賜物、援助の賜物、管理の賜物、異言の賜物。しかしこれらの「賜物」はどれもある特定の人にのみ与えられるものであり、決して誰にでも与えられるものではありません。だからこそ「みんなが・・・だろうか」とパウロは繰り返すのです。これに対してパウロは「愛」についてだけは全員に対してもっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさいと呼びかけています。これは明らかに「愛」という「賜物」だけは熱心に望みさえすれば、祈りさえすれば誰にでも与えられるということです。
・皆さんは誰かを愛そうとして、神様に祈ったとき、「愛」が与えられなかったことがあるでしょうか。特にイエスの十字架に向かって祈ったときに「愛」が与えられなかったことがあるでしょうか。私にはありません。このことを私は何度も経験しました。登戸学寮の寮長になってからは特にです。私はすでに数十人の学生と寝食をともにしましたが、この中に愛そうとして愛せなかった学生は一人もいません。中には生意気で反抗的な学生もおりましたが、そしてそのような学生には憎しみさえ覚えることもありましたが、そのような学生に対してさえ、「十字架」に対して祈り求めるならば必ず「愛」は与えられたのです。つれあいに対してもそうでした。夫婦喧嘩をして顔も見たくなくなることもありました。それでも十字架にむかって祈るならば必ず「愛」は与えられました。
・このように、祈り求めさえすれば「愛」は誰にでも与えられる、だからこそ愛は最大最高の「賜物」だとパウロは言っているのです。
3.人格の完成に導く「愛」
*次に13章の4節から7節に注目してみましょう。
13:4
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
ここにはほとんどすべてと言ってよいほどの「徳目」が並べられています。「寛容さ」(忍耐強さ)、「思いやり」(情け深さ)、「潔さ」(ねたまないこと)、「謙虚さ」(自慢せずたかぶらないこと)、「礼節」、「無欲さ」、「温厚さ」、「素直さ」(恨みを抱かないこと)、「正義感」、「正直さ」、「包容力」(忍ぶこと)、「信仰」、「希望」、「忍耐力」。これらすべての徳目が「愛」を与えられるならば一機に与えられるとパウロは訴えているのです。「愛」が与えられるならば人格的完成に一機に近づくとパウロは言っているのです。もちろん人間は罪にとらえられていますから、完全に完成には至れないでしょう。それでも十字架に祈り、「愛」が与えられるならば、罪人であるにもかかわらず私たちはこれらの徳目のすべてに対して開かれて完成に近づくのです。
・皆さんもこれに似たような経験をなさっているのではないでしょうか。例えば誰か異性を愛するようになったときのことを思い出してください。その人の前では我知らずに最高の人格に近づいていなかったでしょうか。あるいは子供を愛するときのことを思い出してください。子供の前で親は最高の人格を演じていないでしょうか。私自身もそうでした。普段はくだらない欠点だらけの人間である自分が愛する人の前では我知らず最高の人間を演じておりました。もちろん異性への愛や子供への愛はエゴ(罪)を含むものです。しかし私はこのような人間的な愛のうちにも神の「愛」が含まれていると思います。だからこそ人間は誰かを愛するときには人格的完成に近づき、その果てにはその人のためになら自分を捨ててもよいとさえ思えるようになるのではないでしょうか。いずれにせよ、人間的な愛を抱いているときでさえ人は人格の完成に近づきます。ましてやイエス様から「愛」を与えられた時に人格の完成に導かれないことがありましょうか。
・このように「愛」は本来なら自分のことしか考えていない罪人である人間を自己犠牲さえいとわない人格的完成へと近づけてくれます。もし修行をもって上述のような徳目を一つ一つ達成することによって人格的完成に至ろうとするならば、恐らく一生かけても不可能でしょう。ところが「愛」を与えられるならばそのような人格の完成へと一機に近づく、とパウロは訴えているのです。だからこそ「愛」は最大最高の「賜物」なのです。
4.永遠の命へいたる「愛」
*最後に13章の後半に注目しましょう。
13:8
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
13:9
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
13:10
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。・・・
13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:13
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
難しい書き方をしていますが、要するにここで言われていることは、「愛」は決して滅びないということです。「愛」は完全であるがゆえに、「愛」を与えられた者は永遠の命に導かれるということです(「そのとき」を私は再臨のときではなく、十字架の前に立つときととります)。
・私は死んだことも復活したこともありませんから、「愛」が本当に永遠の命をもたらすのかどうか知りません。しかしこのことに関して一つだけ確信していることがあります。それはいかなる人間の集まりであれ、もしその集まりのうちに「愛」があふれているならば、その集まりはこの世界で永続的な生命力を持つということです。夫婦でも家族でも会社でも学校でも国でもどんな集まりでもそうです。「愛」がある集まりはたいてい滅びません。登戸学寮での体験を通じて私はこのことをはっきり確信いたしました。私が「愛」を祈り求め、学生たちの悩みや苦しみを分かち合っていこうとするならば、寮はたちまち活性化します。しかし、「愛」ではなくてルールや理屈や倫理や力で寮を動かそうとするならば、寮はたちまち生気を失っていきます。寮の生命力は実に単純であり、「愛」があるかどうか、悩み苦しむ学生たちとともにあろうとするかどうかどうかにかかっているのです。
*このように「愛」は確かにこの世界の集まりに永続的な生命力をもたらします。だとすれば、完全な「愛」が永遠の命をもたらすというパウロの主張も信用するに足るのではないでしょうか。もしパウロの言うとおりだとするならば、まさしく「愛」は最大最高にして無敵の「賜物」ではありませんか。
むすび
*以上「コリントの信徒への手紙一」の12章後半から13章をたどることによって「愛」が三つの点から最大最高にして無敵の「賜物」であることを述べさせていただきました。このような「愛」は確かに十字架への信仰によって与えられるものですが、単にそれだけではなく、ひるがえって信仰を高めるという恵みをももたらします。皆さんが信仰より「愛」の素晴らしさと喜びに開かれ、さらに信仰を強められますようお祈り申し上げます。


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